葛木二上神社
(かつらぎふたかみじんじゃ)


大和国葛下郡
奈良県葛城市加守(「二上山」山頂)
(登拝は葛木倭文坐天羽雷命神社の境内から1時間程度)

■延喜式神名帳
葛木二上神社 二座 大 月次新嘗 の比定社

■旧社格
郷社

■祭神
豊布都霊神
大国魂神


「二上山」雄岳の山頂(標高517m)に鎮座する社。北東麓に鎮座する葛木倭文坐天羽雷命神社の相殿神として同名社 葛木二上神社があり、こちらが「里宮」、当社は「奥宮」という捉え方がなされています。
◎「二上山北麓遺跡群」では、およそ2万5千年前からの石器工房跡が発見されています。これは「二上山」で産出される「サヌカイト」を使用し、石器を拵えていたもの。噴火により生成されたようで、ガラス成分を多く含みむため軽くて加工が容易、2万5千年前ほどから全国で一気に打製石器の中心となりました。現在でいうところの包丁や鋏として、日常生活には欠かせない道具に。縄文時代には石鏃としても活用され、青銅器が流入するまで「サヌカイト」が重要な資源でした。
またガラス成分が多いことから、楽器として使用されていたとも。「サヌカイト」を使った音楽は、神に捧げるものであったという考えもできそうです。
◎農耕が始まると「二上山」は「サヌカイト」産出の山というだけではなく、「日祀り」の聖地として捉えられます。大和の真ん中(おそらく多坐弥志理都比古神社境内かと思われる)では、春秋分の日に「三輪山」山頂から朝日が昇り、「二上山」の2山の谷間に夕日が沈む、この日を田植えの開始、米の収穫の日としていました。
◎古代において太陽は1日周期で、「死と再生」を繰り返すと考えられていたとされ、「二上山」は「太陽の死」を司る霊峰であったのだろうと。
この「三輪山」と「二上山」を線で結んだのが、いわゆる「太陽の道」。東は伊勢斎宮跡や伊勢湾の神島、西は大鳥大社や淡路島の舟木石上神社まで、この線上に神社等が集中して設けられました。
◎その「太陽の死」を司る霊峰であり、また日常生活用品の貴重な資源が産出される霊峰である「二上山」山頂に鎮座するのが当社。
神名帳には二座とされており、順当に考えて「雄岳」と「雌岳」それぞれに神が祀られていたと思われます。
◎豊布都霊神とは布都御魂神のこととされています。つまり神武東征時に熊野で瀕死状態になっているところに、武甕槌神より降ろされた神剣の御魂のこと。この二座が鎮まる所以はまったくの不明。
◎当社から豊布都霊神は石上神宮へ、大国魂神は大和神社へ遷されたとされたという伝承があるようですが、根拠は不明。また葛木倭文坐天羽雷命神社の社頭案内においては、この二柱が国譲りの談合の結果、「角力(かくりき)」(現在の相撲)を行ったとあります。つまり豊布都霊神を武甕槌神そのもの、大国魂神を大國主神と見なしています。記紀神話には「角力」を行ったとまでは記されていません。おそらくかつて当社別当であった当麻寺が拵えた付会ではないかと思います。日本初の「角力」を闘ったと記される、當麻蹴速(タギマノケハヤ)ゆかりの地であるからでしょうか。
◎別の伝承として饒速日神が降臨したとされる「河内の哮ヶ峰」の候補地の一つであるともされています。降臨後に拠点とした地から考えて、少々無理はありますが。
◎社殿は昭和に焼失。現在は小木があるのみで御神体となっています。榊と言われているようですが、判別不可。


麓から見た「二上山」。向かって右側が「雄岳」、左側が「雌岳」。

御神体とされる榊であろう小木。