James Setouchi
R6.5.10 アイルランドの小説 ジェイムス・ジョイス『ユリシーズ』
James Joyce“Ulysses”
(集英社文庫、ヘリテージシリーズ、全4巻。丸谷才一・永川玲二・高松雄一訳)
1 作者 ジェームズ・ジョイス(1882~1941)
アイルランドのダブリン郊外に生まれる。イエズス会の名門校に学ぶが信仰が薄れる。医学校に入るが経済的理由で中退。学校の教師、銀行業、映画館経営などもしながら文筆業に。その過程でダブリンを離れ、パリ、ローマ、トリエステ、チューリッヒ、またパリなどに住んだ。第2次大戦下、チューリッヒで病没(59才)。『ユリシーズ』末尾に「トリエステーチューリッヒーパリ 1914―1921」とある。『ユリシーズ』は1914年にチューリッヒにいたときに書き始め、1921年にパリにいたときに執筆を終えた。この間に第1次大戦があった。(第1巻末年譜(結城英雄・編)ほかを参考にした。)
2 『ユリシーズ』登場人物(大量の人物が出てくる。主なものだけ)
レオポルド・ブルーム:ユダヤ系ダブリン市民。38才。凡庸な男。雑多な知的関心があるが研究者というわけでもない。仕事は現在新聞社の広告取り。社会人として一応の交友関係はある。音楽が好き。父は自死した。息子が幼くして亡くなった。妻の不倫に苦しむ。温和で寛容。
マリアン・ブルーム(モリー):ブルームの妻。34才。歌手で美人。ジブラルタルで育ち15才でダブリンに来た。父はイギリス海軍の軍人だが母との関係は不明。性的にルーズ。ブルームと結婚したが、ボイランと不倫する。
ミリセント・ブルーム(ミリー):ブルームとモリーの娘。15才。家を出て働いている。
ルーディ:ブルームの息子。生まれてまもなく亡くなった。
ブレイゼズ・ボイラン:モリーの不倫相手。色男。興行師。
スティーヴン・ディーダラス:若い文学士。22才。作家を目指している。シェイクスピアに詳しい。かつてイエズス会の学校に学んだ。今はイギリス系の学校の教師をしているが、ディージー校長からはアイルランド独立派ではないかと疑われている。穏やかな堅物で交友関係も下手。実は美声。
サイモン・ディーダラス:スティーヴンの父親。
ディリー、ケイティ、ブーディ、マギー:スティーヴンの妹たち。
メアリ:スティーヴンの母親。故人。
バック・マリガン:医学生。スティーブンの同居人。毒舌でスティーヴンをからかう。
パトリック・ディグナム:ダブリン市民。亡くなったのでブルームたちはその葬儀に参列する。その妻、子どもたちがいる。(6)
マーティン・カニンガム:役人。ブルームの友人の一人。思いやりがある。ディグナムの葬儀に行く。(6)『ダブリン市民』にも出てくる。
ミセス・ブリーン(ジョージー):モリーの友人。昔はブルームを取り合う恋敵だった。今はミスター・ブリーンの妻。ミスター・ブリーンは新月の時調子が悪くなる。(8)
ダドリー伯爵ウィリアム・ハンブル閣下:総督。ダブリンの市街を騎馬行列で行進する。(10)
ミス・ドゥース(ブロンズ)、ミス・ケネディ(ゴールド):ホテルのバーの女給。(11)
ボブ・カウリー(神父、と呼ばれる)、ベン・ドラード、トム・カーナン、リチー・グールディング、ジョージ・リドウェル:ホテルのバーで音楽演奏を楽しむ。ブルームやサイモン・ディーダラス(スティーヴンの父親)もいる。(11)
市民:狂信的なアイルランド民族主義者。酒場でブルームを攻撃する。(12)
ジョー・ハインズ(ジョーゼフ・マカーシー・ハインズ):記者。酒場にいた。(12)
ガーティ、イーディ、シシー:海岸にいた娘たち。ブルームは妄想にふける。(13)
マイナ・ピュアフォイ:難産する女性。病院で人々は生や性について語り合う。(14)
ベラ・コーエン:娼家の主人。ゾーイーはそこの娼婦。ブルームは彼らとの関係の中で得体の知れない幻覚を見る。(15)
年老いた船員:場末の御者溜りにいた男。ブルームたちを相手に嘘か本当かわからない話を始める。(16)
山羊皮:御者溜りの主人。かつてテロリストだったかもしれない。(16)
ルドルフ・ブルーム:ブルームの父親。1886年に自死したことがここで語られる。(17)
マルヴィ大尉:ジブラルタルにいた頃のモリーの初恋の相手。回想で出てくる。(18)
ガードナー中尉:ダブリンでのモリーの恋人の一人。回想で出てくる。ボーア戦争で戦病死。(18)
3 全体の構成(ネタバレあり)
1904年6月16日のたった一日の出来事を描いている。その中に多くの過去、当時のアイルランド情勢などが詰まっている。最も単純に図式化すれば、ブルームという平凡なダブリン市民が、自宅を出て、ダブリンの町を歩き、深夜に自宅に帰るまでの出来事を書いている。6月16日、夏至に近く、緯度の高いアイルランドでは白夜に近い夜だろう。ブルームの徘徊は深夜に及ぶ。ブルームは妻の不倫に苦しむ。妻はボイランという色男と不倫する。ブルームは幼くして亡くした子・ルーディのことが忘れられず、性的不能に陥っている。ブルームはスティーヴンという若者に出会い、彼が自分の息子であれば、と夢想し、自宅に連れて帰る。長い長い一日だ。
誰かが書いていたが、実はブルームは、妻を性的に満足させるために意図的に自分が外出しボイランを引き込ませているのかも知れない。夜スティーヴンを自宅に招くのも、妻と関係を持たせようとしているのかも知れない。いや、ブルームは性的にだらしないから娘から遠ざけられているのだと書いている人もいた。ブルームは屈折している。ブルームは聖人君子ではない。スーパー・ヒーローではない。独立運動の闘士でもない。しかし、ブルームは忍耐強く現実を生きていこうとする。最終章、ブルームの妻モリーの長い長い独白で終わるが、モリーは過去を回想しおのれを振り返る中で、ボイランとは別れブルームとの結婚生活を続けようと決意するに至る。ブルームは凡庸なダメ男だが、穏やかで礼儀正しく、人を受け入れる。ブルームの良さをモリーは再発見したということだろうか。それともモリーは男にとって(ボイランにとってもブルームにとっても)「都合のいい女」なのか? モリーもまた、否応なくこの現実を生きていくほかはない。モリーは「yes」を繰り返す。それは困難だった自分の人生をあらためて振り返り肯定し直す営みだったのかもしれない。
アイルランドは長らく大英帝国の支配下にあった。スティーヴンは「ぼくは二人の主人に仕える召使いさ」と言う(1)。「二人の主人」とは大英帝国とローマ・カトリック教会だ。スティーヴンはイエズス会の学校に学びその影響を受けているが、今は信仰に対してあるスタンスを取っている。アイルランドはカトリック教徒が多い。大英帝国はヴィクトリア女王の時代が最盛期で、アイルランドに対して有形無形の支配を続けてきた。アイルランドでは過激な民族主義者が反英・独立運動を繰り返してきた。その記事は本編で繰り返し描き込まれる。夕方の酒場では「市民」なる謎のアイルランド民族至上主義者が、ユダヤ人たるブルームに対して攻撃を仕掛ける(6)。ブルームは穏当な形で意見を述べる。「市民」は憤激するがブルームはマーティン・カニンガムの助力もあってうまく逃げ出す。政治的な狂信・熱狂に走らず忍耐強く日常を生き抜くブルームの姿をジョイスは描いた、ということか。ブルームは一人ではない、助けてくれる隣人もある。ブルーム、スティーヴン、モリーらだけが主役ではない。他の人も大事だ。例えばカニンガム。結構いいところでいい役をする。ミス・ドゥースとミス・ケネディ。確かにこういうカフェの店員がいそうだ。『ダブリンの市民』と併せ読むとき、そこにいる人々誰もが、それぞれの名前と顔を持ち個性と事情を持った一人一人の人間なのだ、という気になってくる。(例外は名前なき「市民」。)大英帝国やキリスト教会の教義という大きなストーリーに包囲されながら、それでもどうにか自分なりの生活を生きていくダブリンの人々を、描いている。
4 文体の工夫
表現内容とは別に表現形態(文体その他)が独特だ。表現内容と表現形態はどこかで連動して効果を生もうとしているのかもしれないが、どうかな。
まず、全体はホメロスの『オデッセイア』を下敷きにしている。オデッセウスの遍歴と帰還が、ブルームの遍歴(わずか一日だが)と帰還に対応している。
次に、各章で書き方・文体が違う。例えば、1・3・9章はスティーヴンに寄り添っている。2および4以下の章は基本的にブルームの目線で語られる。10章はダブリンの街のあちこちにいる市民を19の細部に分けて語るがその際ブルームやスティーヴンは多くの人物の一人でしかない。12章は「市民」ほかの様子を謎の語り手「おれ」が語るが、さらに別の謎の語り手が古風な文体で語り直す。13章は恋愛小説の普通の文体で読みやすい。14章は古い時代の英語から現代の英語までを使い分ける。訳者の丸谷才一は『古事記』から日本の近現代作家までの文体で訳し分けた。(その工夫は良いが、正直読みにくい。)15章は戯曲風。現実か幻覚かわからない。ここは実に下品で猥雑な表現が多い。17章は二人の学者の一見学問的・哲学的な文体の対話で進んでいく。18章はモリーの独白で、いわゆる「意識の流れ」の中で過去が蘇る。句読点がない。これらの文体の使い分けは、何か効果を狙っていて必要なのか、それともただの遊びなのか?
さらに、語彙が独特だ。固有名詞ですら縮めて表記する。猥褻表現も多い。発禁されたのもわかる。
5 そのほか
精読するにはホメロス、キリスト教、シェイクスピア、アイルランド史などの知識が必要だ。スティーヴンたちはこれらに詳しいが、同時にズレてもいる。このズレに何か作者の意図がありそうだが、西欧人でこれらの知識が十分ある人びとにはよくわかるだろう。今回はこれらの注を丁寧に見て精読することはせず難解なところもかなり飛ばして読むことにした。それでも一読だけで何日もかかった。(丸谷才一他が詳細な注をつけてくれているのはよかった。わかりやすい章だけ取り上げてゆっくり味読するのも一法かも知れない。)雰囲気を知るには『ダブリン市民』から入る方が易しいかも知れない。なお、集英社文庫の解説ほか、ジェイムス・キャントン他『世界文学大図鑑』(三省堂)の『ユリシーズ』の項は非常に参考になった。また、大英帝国対アイルランドは、大国対小国である。現代であればどこに当たるだろうか、と考えてみることもできる。
付言1:戦前戦中の日本なら、狂信的愛国者の「市民」に当たる人が大多数で、忍耐強く穏当な意見を述べる人がマイノリティとして、「非国民、国賊」と言われて非難された。対してこのブルームを取り巻くダブリン市民の世界では、狂信的愛国者は存在するが、まだそれ程多数ではない。この違いをどう考えるか?
当時のダブリンは、大英帝国の抑圧下にあって、イギリス主義者もいればアイルランド独立主義者もいる、という状況だ。戦後日本の、親米的な人もいれば日本独立主義者もいる、という状況に近いのだろうか?(R6.6.16今日はブルームの日)
付言2:誰かが書いていてそうだなと感じたのだが、最近「地政学」的見地からものを言う人が多くなっているように感じる。ロシアとウクライナ、イスラエルとガザ、それにイランなども視野に入れる、中国と台湾、あるいは北朝鮮なども含めて。だが、人間の生きる目的(根拠、その人がその人である源泉、生きがい、と言うべきか)は、地政学的なかけひきや強国の威信を保つことにおいてのみあるわけでは決してない。ジョイスはそれは実感していたのではないか? 帝国のためにのみ生きかつ死ね、というのが大きな間違いだったことをすでに私たちは知っている。吉本隆明の『共同幻想論』や三浦銕太郎の小国主義を改めて持ち出すまでもあるまい。だが、凡庸なる市民の日常を守る前提として地政学的な戦略と祖国の独立が要る、そのために増税して武器を買い同盟国とさらに強固に結びつくのだ、と強く反論されたら、どう答えるか? その口実によって平々凡々たる市民の日常を奪われるのは御免だ(一部の者は武器を売って利権で稼ぎ多くの者は増税と食糧難と思想統制に苦しむとは、おかしな事態だ、どこの国であっても)、とまずは言える。さらに、戦争には対処療法以外にも根治療法がある。その先は別の議論としたい。各種平和学を参照されたい。(R6.6.24)