James Setouchi
2026.4.15(水)
『孟子』19 伯夷と太公は文王に身を寄せた 離婁篇上13
孟子曰く、
1「伯夷は紂を辟けて、北海の浜に居る。文王作興(おこ)ると聞き、曰く、『盍ぞ帰せざるや。吾聞く、西伯は善く老を養う者なり、と。』
2太公は紂を辟けて、東海の浜に居る。文王作興(おお)ると聞き、曰く、『盍ぞ帰せざるや。吾聞く、西伯は善く4老を養う者なり、と。』
3二老者は、天下の大老なり。而して之に帰す。是れ天下の父、之に帰するなり。
4天下の父、之に帰せば、其の子は焉(いずく)にか往かん。
5諸侯に文王の政を行う者有らば、七年の內、必ず政を天下に為さん。」と。
(語句)
1伯夷:伯夷・叔斉は兄弟。孤竹君の地の出身。高潔な人士として有名。文王のもとに身を寄せた。『史記』に載っている。史実は知らない。 紂:殷王朝最後の王。暴虐だったとされる。 文王:周の始祖。武王の父。 盍ぞ・・ざる:どうして・・しないのか、・・すればよい。ぜひ・・しよう。 帰す:身を寄せてそこに落ち着く。 西伯:文王のこと。殷王朝末期西の方のエリアを治めていた。 老を養う:高齢者を大切にする。
2太公:太公望呂尚。文王のもとに身を寄せ、のち武王の軍師となり殷王朝を倒し、当方に斉を建国。
3天下の大老:どういう意味だろうか。天下に有名な長老で、多くの親族・部族が付き従っていた、ということでははないか? 例えば太公望呂尚であれば、釣りをしていたのであるから、水辺で魚を捕って生活していた部族のリーダーだった可能性がある。(姓名は姜子牙(きょうしが)と「姜」姓なので「羌」と置き換えたとすれば異民族かも。正確には知らない。)これが味方するとは、海運・水軍にすぐれたグループが味方になるということだ。
4其の子は焉(いずく)にか往かん:その子はどこに行こうか、父の行くところに行くに違いない。
5文王の政:高齢者を大切に養う仁政。現代なら高度に社会福祉の行き渡った社会? 老人を大切にせず戦争ばかりする政治の対極。戦争には若い兵士が必要で、「生めよ増やせよ国のため」と言う(明治以降そうだった)が、高齢者を大事にしない。高齢者を大切にする政治は、戦争を嫌う。 政を天下に為す:天下を取り天下の政治を行う。
(訳)
1伯夷は紂王を避けて、北海の浜に居た。周の文王が興起したと聞き、言うことには、『ぜひ文王の所へ行こう。私は聞いた、西伯(文王)は老人をよく養い大切にする人だ、と。』
2太公は紂王を避けて、東海の浜に居た。周の文王が興起したと聞き、言うことには、『ぜひ文王の所へ行こう。私は聞いた、西伯(文王)は老人をよく養い大切にする人だ、と。』
3この二人の老人は、天下の長老である。そういうキーパーソンであって文王のもとに身を寄せた。これは天下の父老と呼ぶべき存在が、みな文王のもとに身を寄せたということだ。
4天下の父老たちが、文王のもとに身を寄せたならば、その子孫一族は、どこに行こうか。必ず文王の所に行く。
5さて今戦国の世で、諸侯の中で、文王の政(高齢者を大切にする仁の王道政治)を行う者がいたならば、わずか七年の內に、必ず天下を取って政治を天下に行うことになるだろう。」と。
(コメント)
・宮城谷昌光『太公望』は面白い。
・殷周革命の史実については知らない。ただし儒教の世界では、中国の歴史・精神史上の大きな出来事だったとされている。
・前回も書いたが、吉田松陰は、前節の原理の歴史上の具体例が、本節の文王の事跡だ、と解釈している(『講孟余話(講孟箚記=さっき)』)。そう取るならば、文王は「至誠」であったからこそ伯夷や太公の心をつかみひいては天下の大勢を動かした、となる。だが、文王・武王は「至誠」を持って天下の大勢を動かしたが、紂王その人を改心させることはできなかった。ここは、文王・武王の「至誠」に至らぬところがあった、ということになるのだろうか? 松陰は「下心」があるかないかを問題視するが、果たしてその解釈でよいか? わが身を「誠」にするには「善」に明らかでなければならない。すると、何が善で何が善でないかを判別する「学問」(あるいは直覚?)が要る、ということではなかろうか? 互いに異質な世界観を持っていても、自分の世界観・価値観・信念を、いったんカッコにくくり、相手と話し合ってみて、相互に理解しあおうとするための「学問」が。「あいつらは理解不能な異民族」と言ってしまわないことが大切。
・「誠」を英語で言うと何になりますか? honest,sincere,truthful,faithful, whole-hearted, serious,integrity, conscientious,・・・
・本ブログ「日本の思想」→「誠の思想」参照。
(参考)加藤徹 授業教材集 の「シリーズ四大文明 古代中国史」から
https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/asahi20240109.html#01 から引用。(加藤さんは東大中文出身で明大の教授)
「中国の3つの王朝と日本」から
紀元前12世紀ごろ? 周室の先祖である「太公」こと古公亶父(ここうたんぽ)が、異民族の圧迫を逃れて、岐山(きざん。現在の陝西省宝鶏市)のふもとに国を移す。
後世、日本の織田信長が美濃を「岐阜」と命名したのも、岐山に由来する。
古公亶父の死後、末子の季歴が跡を継いだ。
前11世紀初めごろ? 季歴の息子である姫昌(西伯昌。後の文王)が、周国を継承。
都を渭水(いすい)の豊邑(現在の陝西省西安市の一部)に移す。 日本の「明治維新」の「維新」の由来は、中国の古典『詩経』「大雅・文王篇」の「周雖旧邦其命維新(周は旧邦なりといえども、その命(めい)は維(これ)新(あらた)なり)」にちなむ。
姫昌は、太公望こと呂尚(姜子牙)を見いだす。
漢字の字源から見ると「姫」(頤=オトガイが発達した美女)も「姜」(羊のように立派な女性)も、西方の遊牧民族的、母系的な性格が感じられる姓である。
姫昌(文王)の死後、息子の姫発(武王)があとをつぐ。
前1046年(諸説あり)、周の武王は「牧野の戦い」で殷の紂王(甲骨文字の史料では「帝乙」)を破り、殷王朝を滅ぼし、周王朝(西周)を建国する。
前1043年、武王が死去。
幼少の息子の成王が即位し、武王の同母弟(成王の叔父)の周公旦(魯の開祖)らが政務を補佐した。
後漢の王充の『論衡』によると、成王の時代に越裳が白雉を献じ、倭人が暢草を献じたという。
成王と、次の康王(在位、前1020年 - 前996年)の時代は後世「成康の治」と称され、理想的な太平の世とされた。
前841年、「共和」元年。中国の本格的な歴史時代の始まり。
第10代の厲王(在位、前877年 - 前841年)は暴君で民衆の反乱を招き、辺境に亡命したため、周定公と召穆公という2人の大臣が合議制で「共に和して」政治を行った。別の説では、「共」の「伯」爵である「和」という名の人物が、不在中の王にかわって執政したので「共和」と呼んだという説もある。近現代の republic を共和制、共和国と訳すのは、この時代にちなむ。
前828年、厲王が死去。
(以下略)
(時事問題)
先日ラジオで言っていたが、1990年代から2010年代は「子どもを持つと不幸」と感じる人が多かった(金銭・時間・精神各面の負担のため)が、最近2020年代のノルウェーの調査(14年間の累積。ビッグデータ)では「子どもを持つ方が幸せ」と感じる人が多くなっている。②ただしこれは気をつけないといけないのは、「幸せな人だけが子どもを持てている」のが実態であるのかもしれない。これを「残酷な選別」と言う。実際「経済的に豊かな層の方が子どもが持てている」というデータがある。
・・・これに対して私の感想。日常生活の実感とマッチしている。夫婦とも健康でお金もあって子育ての環境(産休育休の制度はやっと浸透してきたが、実態としてそれが取れる、個人事業主でも休める、自宅がある、実家の助けが得られる、保育所、病院や学校がある、また行政の支援が充実しているなどなど)が揃っている家庭は子どもが2~3人持てるが、そうでない所では子どもの数は少ない、またはいない。
例えば父親がワーカホリック(ブラックワーク)で母親が孤立したワンオペ育児に苦しんでいる場合、子どもは多く育てられない。周囲の偏見にさらされて苦しみながら育児している場合も大変だ。・・そうですな、ユウミリ(柳美里)の子育て小説『JR高田馬場駅戸山口』の子育ては大変でした。
・・ノルウェーは社会福祉が充実していて人びとの心にゆとりがあるのだろう。日本はそこまでではない。・・・孟子の仁の王道政治で言えば、「老」と「幼」を大切にするべきであるが、(「老」を大事にできてきたかは別として)子育てができないということは、「幼」が大事にできていないということだ。「夫婦とも健康でお金があって子育ての環境も揃っている」状況を作り出すのは、政治の責任だ。その上で勿論選択の自由はあるべきだが、選択の自由を言うための前提が今は十分でない。「所得が低い」「生活にゆとりがない」など、子育てに適した条件の揃っていない家庭では「子どもを産み育てる」という選択の自由がない、という実態がある、ということだ。(社会科学の分析を政治に取り入れることは有効だ。)仁の王道政治を実現していただきたいものですな。 2026.4.14(火)