James Setouchi

2025.10.20

 

 他の頁に書いたものだが長くなったのでこの部分だけ再掲する。

 

 石破首相戦後80年所感 2025(R7).10.10 

 

 2025.10.10、石破首相が「戦後80年所感」を発表した。日経新聞のサイト10.10の夕方18:09に全文載っているので御一読下さい。近代日本の歴史を振り返り、石橋湛山(たんざん)、吉野作造(よしのさくぞう)、清沢洌(きよし)、斎藤隆夫といった優れた先達(せんだつ)にも言及しながら、戦前のように軍が暴走しないためには、政府、議会、実力組織(自衛隊のことだろう)、メディアすべてがしっかりとし、戦争を起こさないようにしないといけない、若い世代も含め国民一人ひとりが先の大戦や平和のありようについて能動的に考え将来に生かすことで、平和国家の礎(いしずえ)が一層強化される、などと言っておられた。さすがである。石破さんは(官僚や学者が助力したかどうかは知らないが)やはり勉強してしっかりとしたお考えをお持ちである。とりあえずみなさん、全文を入手してお読みになって下さい。朝日には要旨(ようし)が載っていた。

 「抑止論(よくしろん)を否定する立場には立ち得ません」と言っておられる。「理想を言えば世界中から核兵器はもちろんすべての武器が無くなるのがよい」と私なら言うが、そこまでは言っておられなかった。しかしそれでもなお現状から出発して日本は平和国家・民主主義国家で行くんだ、二度とあんな惨禍(さんか)は繰り返さない、と国民と世界に呼びかけられた、と私は感じた。敬意を表します。(10.11朝付記)

 10.13の朝日の社説に「日本の加害に直接触れていない、平和国家としての未来像が明確に示されていない」と批判してあった。(一定の肯定的評価もしてあった)。なるほど・・第1点は自民党内部のタカ派の圧力に負けたのでは? 負けなくていいのに。過去は加害だったが、今は明白に平和志向、でいいではないか? 第2点は、平和国家で行くというメッセージを私は受け取ったが? 朝日社説氏は、もっと明確で具体的なビジョンを示して欲しかったのだろうか・・(10.13朝付記)

 R7.10.15(水)朝日の11面の長谷部恭男、杉田敦、加藤陽子の鼎談(ていだん=三人の対談)が実によかった。さすがだ。(10.16付記)

 石破首相は、軍産複合体については言及しておられなかった。そこは不足だ。 

                                (10.20付記)
 

 以下に、石破首相の戦後80年所感を掲載する。首相官邸HPからで著作権は大丈夫とわかった。 https://www.kantei.go.jp/jp/103/statement/2025/1010kaiken.html

 全文原文のままだが、改行・段落一字下げ・一行空きなどがうまくいっていない。見やすくするため小見出しと人名の固有名詞を太字にした。一部読み方や意味を( )で示した。分からない語句は辞書等でお調べ下さい。

 

(内閣総理大臣所感)

(はじめに)

 戦後80年に寄せて

 先の大戦の終結から、80年が経(た)ちました。

 この80年間、我が国は一貫して、平和国家として歩み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者を始めとする皆様の尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。

 私は、3月の硫黄島(いおうとう)訪問、4月のフィリピン・カリラヤの比島(ひとう=フィリピン)戦没者の碑(ひ)訪問、6月の沖縄全戦没者追悼(ついとう)式出席及びひめゆり平和祈念資料館訪問、8 月の広島、長崎における原爆死没者・犠牲者慰霊式出席、終戦記念日の全国戦没者追悼式出席を通じて、先の大戦の反省と教訓を、改めて深く胸に刻(きざ)むことを誓いました。

 これまで戦後50年、60年、70年の節目に内閣総理大臣談話が発出されており、歴史認識に関する歴代内閣の立場については、私もこれを引き継いでいます。

 過去三度の談話においては、なぜあの戦争を避けることができなかったのかという点にはあまり触れられておりません。戦後70年談話においても、日本は「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」という一節がありますが、それ以上の詳細は論じられておりません。

 国内の政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか。第一次世界大戦を経て、世界が総力戦の時代に入っていた中にあって、開戦前に内閣が設置した「総力戦研究所」や陸軍省が設置したいわゆる「秋丸機関」等の予測によれば、敗戦は必然でした。多くの識者も戦争遂行(すいこう)の困難さを感じていました。

 政府及び軍部の首脳陣もそれを認識しながら、どうして戦争を回避するという決断ができないまま、無謀な戦争に突き進み、国内外の多くの無辜(むこ=罪のない)の命を犠牲とする結果となってしまったのか。

 米内光政(よないみつまさ)元総理の「ジリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう注意願いたい」との指摘もあった中、なぜ、大きな路線の見直しができなかったのか。

 戦後80年の節目に、国民の皆様とともに考えたいと思います。

(大日本帝国憲法の問題点) 

 まず、当時の制度上の問題が挙げられます。戦前の日本には、政治と軍事を適切に統合する仕組みがありませんでした。

 大日本帝国憲法の下では、軍隊を指揮する権限である統帥権(とうすいけん)は独立したものとされ、政治と軍事の関係において、常に政治すなわち文民が優位でなくてはならないという「文民統制(ぶんみんとうせい)」の原則が、制度上存在しなかったのです。

 内閣総理大臣の権限も限られたものでした。帝国憲法下では、内閣総理大臣を含む各国務大臣は対等な関係とされ、内閣総理大臣は首班(しゅはん)とされつつも、内閣を統率(とうそつ)するための指揮命令権限は制度上与えられていませんでした。

 それでも、日露戦争の頃までは、元老(げんろう)が、外交、軍事、財政を統合する役割を果たしていました。武士として軍事に従事した経歴を持つ元老たちは、軍事をよく理解した上で、これをコントロールすることができました。丸山眞男の言葉を借りれば、「元老・重臣など超憲法的存在の媒介(ばいかい)」が、国家意思の一元化において重要な役割を果たしていました。

 元老が次第に世を去り、そうした非公式の仕組みが衰えたのちには、大正デモクラシーの下、政党が政治と軍事の統合を試みました。

 第一次世界大戦によって世界に大きな変動が起こるなか、日本は国際協調の主要な担い手の一つとなり、国際連盟では常任理事国となりました。1920年代の政府の政策は、幣原(しではら)外交に表れたように、帝国主義的膨張は抑制(よくせい)されていました。

 1920 年代には、世論は軍に対して厳しく、政党は大規模な軍縮を主張していました。軍人は肩身(かたみ)の狭い思いをし、これに対する反発が、昭和期の軍部の台頭の背景の一つであったとされています。

 従来、統帥権は作戦指揮に関わる軍令に限られ、予算や体制整備に関わる軍政については、内閣の一員たる国務大臣の輔弼(ほひつ)事項として解釈運用されていました。文民統制(ぶんみんとうせい)の不在という制度上の問題を、元老、次に政党が、いわば運用によってカバーしていたものと考えます。

(政府の問題) 

 しかし、次第に統帥権の意味が拡大解釈され、統帥権の独立が、軍の政策全般や予算に対する政府及び議会の関与・統制を排除するための手段として、軍部によって利用されるようになっていきました。

 政党内閣の時代、政党の間で、政権獲得のためにスキャンダル暴露合戦が行われ、政党は国民の信頼を失っていきました。1930 年には、野党・立憲政友会は立憲民政党内閣を揺さぶるため、海軍の一部と手を組み、ロンドン海軍軍縮条約の批准(ひじゅん)を巡って、統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)であると主張し、政府を激しく攻撃しました。政府は、ロンドン海軍軍縮条約をかろうじて批准するに至りました。

 しかし、1935年、憲法学者で貴族院議員の美濃部達吉(みのべたつきち)の天皇機関説について、立憲政友会が政府攻撃の材料としてこれを非難し、軍部も巻き込む政治問題に発展しました。ときの岡田啓介内閣は、学説上の問題は、「学者に委(ゆだ)ねるより外(ほか)仕方がない」として本問題から政治的に距離を置こうとしましたが、最終的には軍部の要求に屈して、従来通説的な立場とされていた天皇機関説を否定する国体明徴(こくたいめいちょう)声明(せいめい)を二度にわたって発出(はっしゅつ)し、美濃部の著作は発禁処分となりました。

 このようにして、政府は軍部に対する統制を失っていきます。

(議会の問題) 

 本来は軍に対する統制を果たすべき議会も、その機能を失っていきます。

 その最たる例が、斎藤隆夫衆議院議員の除名問題でした。斎藤議員は1940年2月2日の衆議院本会議において、戦争の泥沼化を批判し、戦争の目的について政府を厳しく追及しました。いわゆる反軍演説です。陸軍は、演説は陸軍を侮辱(ぶじょく)するものだとこれに激しく反発し、斎藤議員の辞職を要求、これに多くの議員は同調し、賛成296票、反対7票の圧倒的多数で斎藤議員は除名されました。これは議会の中で議員としての役割を果たそうとした稀有(けう=非常に珍しい)な例でしたが、当時の議事録は今もその3分の2が削除(さくじょ)されたままとなっています。

 議会による軍への統制機能として極めて重要な予算審議(しんぎ)においても、当時の議会は軍に対するチェック機能を果たしていたとは全く言い難(がた)い状況でした。1937年以降、臨時軍事費特別会計が設置され、1942 年から45年にかけては、軍事費のほぼ全てが特別会計に計上されました。その特別会計の審議に当たって予算書に内訳は示されず、衆議院・貴族院とも基本的に秘密会で審議が行われ、審議時間も極めて短く、およそ審議という名に値(あたい)するものではありませんでした。

 戦況(せんきょう)が悪化し、財政がひっ迫する中にあっても、陸軍と海軍は組織の利益と面子(めんつ)をかけ、予算獲得をめぐり激しく争いました。

 加えて、大正後期から昭和初期にかけて、15年間に現役首相3人を含む多くの政治家が国粋(こくすい)主義者や青年将校らによって暗殺されていることを忘れてはなりません。暗殺されたのはいずれも国際協調を重視し、政治によって軍を統制しようとした政治家たちでした。

 五・一五事件や二・二六事件を含むこれらの事件が、その後、議会や政府関係者を含む文民が軍の政策や予算について自由に議論し行動する環境を大きく阻害(そがい)したことは言うまでもありません。

(メディアの問題)

 もう一つ、軽視してはならないのはメディアの問題です。

 1920 年代、メディアは日本の対外膨張に批判的であり、ジャーナリスト時代の石橋湛山(いしばしたんざん)は、植民地を放棄すべきとの論陣を張りました。しかし、満州事変が起こった頃から、メディアの論調は、積極的な戦争支持に変わりました。戦争報道が「売れた」からであり、新聞各紙は大きく発行部数を伸ばしました。

 1929 年の米国の大恐慌を契機(けいき)として、欧米の経済は大きく傷つき、国内経済保護を理由に高関税政策をとったため、日本の輸出は大きな打撃を受けました。

 深刻な不況を背景の一つとして、ナショナリズムが昂揚(こうよう)し、ドイツではナチスが、イタリアではファシスト党が台頭(たいとう)しました。主要国の中でソ連のみが発展しているように見え、思想界においても、自由主義、民主主義、資本主義の時代は終わった、米英の時代は終わったとする論調が広がり、全体主義や国家社会主義を受け入れる土壌が形成されていきました。

 こうした状況において、関東軍の一部が満州事変を起こし、わずか1年半ほどで日本本土の数倍の土地を占領しました。新聞はこれを大々的に報道し、多くの国民はこれに幻惑(げんわく)され、ナショナリズムは更(さら)に高まりました。

 日本外交について、吉野作造は満州事変における軍部の動きを批判し、清沢洌(きよし)は松岡洋右(ようすけ)による国際連盟からの脱退を厳しく批判するなど、一部鋭い批判もありましたが、その後、1937年秋頃から、言論統制の強化により政策への批判は封(ふう)じられ、戦争を積極的に支持する論調のみが国民に伝えられるようになりました。

(情報収集・分析の問題)

 当時、政府を始めとする我が国が、国際情勢を正しく認識できていたかも問い直す必要があります。例えば、ドイツとの間でソ連を対象とする軍事同盟を交渉している中にあって、1939年8月、独ソ不可侵(ふかしん)条約が締結(ていけつ)され、ときの平沼騏一郎(きいちろう)内閣は「欧州(おうしゅう=ヨーロッパ)の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」として総辞職します。国際情勢、軍事情勢について、十分な情報を収集できていたのか、得られた情報を正しく分析できていたのか、適切に共有できていたのかという問題がありました。

(今日への教訓)

 戦後の日本において、文民統制は、制度としては整備されています。日本国憲法上、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならないと定められています。また、自衛隊は、自衛隊法上、内閣総理大臣の指揮の下に置かれています。

 内閣総理大臣が内閣の首長であること、内閣は国会に対して連帯して責任を負うことが日本国憲法に明記され、内閣の統一性が制度上確保されました。

 さらに、国家安全保障会議が設置され、外交と安全保障の総合調整が強化されています。情報収集・分析に係る政府の体制も改善されています。これらは時代に応じて、更なる進展が求められます。

 政治と軍事を適切に統合する仕組みがなく、統帥権の独立の名の下に軍部が独走したという過去の苦(にが)い経験を踏まえて、制度的な手当ては行われました。他方、これらはあくまで制度であり、適切に運用することがなければ、その意味を成しません。

 政治の側は自衛隊を使いこなす能力と見識(けんしき)を十分に有する必要があります。現在の文民統制の制度を正しく理解し、適切に運用していく不断の努力が必要です。無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家としての矜持(きょうじ)と責任感を持たなければなりません。自衛隊には、我が国を取り巻く国際軍事情勢や装備、部隊の運用について、専門家集団としての立場から政治に対し、積極的に説明し、意見を述べることが求められます。

 政治には、組織の縦割(たてわ)りを乗り越え、統合する責務があります。組織が割拠(かっきょ)、対立し、日本の国益を見失うようなことがあってはなりません。陸軍と海軍とが互いの組織の論理を最優先として対立し、それぞれの内部においてすら、軍令と軍政とが連携(れんけい)を欠き、国家としての意思を一元化できないままに、国全体が戦争に導かれていった歴史を教訓としなければなりません。

 政治は常に国民全体の利益と福祉(ふくし)を考え、長期的な視点に立った合理的判断を心がけねばなりません。責任の所在が明確ではなく、状況が行き詰まる場合には、成功の可能性が低く、高リスクであっても、勇ましい声、大胆な解決策が受け入れられがちです。海軍の永野修身(おさみ)軍令部総長は、開戦を手術にたとえ、「相当の心配はありますが、この大病を癒(いや)すには、大決心をもって、国難排除に決意するほかありません」、「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である」と述べ、東條英機陸軍大臣も、近衛文麿(このえふみまろ)首相に対し、「人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と迫ったとされています。このように、冷静で合理的な判断よりも精神的・情緒的な判断が重視されてしまうことにより、国の進むべき針路(しんろ)を誤った歴史を繰り返してはなりません。

 政府が誤った判断をせぬよう、歯止めの役割を果たすのが議会とメディアです。

国会には、憲法によって与えられた権能(けんのう)を行使(こうし)することを通じて、政府の活動を適切にチェックする役割を果たすことが求められます。政治は一時的な世論に迎合(げいごう)し、人気取り政策に動いて国益を損なうような党利党略と己の保身に走っては決してなりません。

 使命感を持ったジャーナリズムを含む健全な言論空間が必要です。先の大戦でも、メディアが世論を煽(あお)り、国民を無謀(むぼう)な戦争に誘導する結果となりました。過度な商業主義に陥(おちい)ってはならず、偏狭(へんきょう)なナショナリズム、差別や排外主義を許してはなりません。

 安倍元総理が尊い命を落とされた事件を含め、暴力による政治の蹂躙(じゅうりん)、自由な言論を脅(おびや)かす差別的言辞(げんじ)は決して容認できません。

 これら全ての基盤となるのは、歴史に学ぶ姿勢です。過去を直視する勇気と誠実さ、他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容(かんよう)さを持った本来のリベラリズム、健全で強靭(きょうじん)な民主主義が何よりも大切です。

 ウィンストン・チャーチルが喝破(かっぱ)したとおり、民主主義は決して完璧(かんぺき)な政治形態ではありません。民主主義はコストと時間を必要とし、ときに過(あやま)ちを犯すものです。

 だからこそ、我々は常に歴史の前に謙虚であるべきであり、教訓を深く胸に刻まなければなりません。

 自衛と抑止において実力組織を保持することは極めて重要です。私は抑止論を否定する立場には立ち得ません。現下の安全保障環境の下、それが責任ある安全保障政策を遂行(すいこう)する上での現実です。

 同時に、その国において比類(ひるい)ない力を有する実力組織が民主的統制を超えて暴走することがあれば、民主主義は一瞬にして崩壊し得(う)る脆弱(ぜいじゃく)なものです。一方、文民たる政治家が判断を誤り、戦争に突き進んでいくことがないわけでもありません。文民統制、適切な政軍関係の必要性と重要性はいくら強調してもし過ぎることはありません。政府、議会、実力組織、メディアすべてがこれを常に認識しなければならないのです。

 斎藤隆夫議員は反軍演説において、世界の歴史は戦争の歴史である、正義が勝つのではなく強者が弱者を征服するのが戦争であると論じ、これを無視して聖戦の美名(びめい)に隠れて国家百年の大計(たいけい)を誤ることがあってはならないとして、リアリズムに基づく政策の重要性を主張し、衆議院から除名されました。

 翌年の衆議院防空法委員会において、陸軍省は、空襲(くうしゅう)の際に市民が避難することは、戦争継続意思の破綻(はたん)になると述べ、これを否定しました。

 どちらも遠い過去の出来事ではありますが、議会の責務(せきむ)の放棄、精神主義の横行(おうこう)や人命・人権軽視の恐ろしさを伝えて余りあるものがあります。歴史に正面から向き合うことなくして、明るい未来は拓(ひら)けません。歴史に学ぶ重要性は、我が国が戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に置かれている今こそ、再認識されなければなりません。

 戦争の記憶を持っている人々の数が年々少なくなり、記憶の風化が危ぶまれている今だからこそ、若い世代も含め、国民一人一人が先の大戦や平和のありようについて能動的(のうどうてき)に考え、将来に生かしていくことで、平和国家としての礎(いしずえ)が一層強化されていくものと信じます。

 私は、国民の皆様とともに、先の大戦の様々な教訓を踏まえ、二度とあのような惨禍(さんか)を繰り返すことのないよう、能(あた)う限りの努力をしてまいります。

 

令和7年10月10日

内閣総理大臣

石破 茂

 

*(以下JS)以上です。どうですか? 石破さんを軽々(けいけい)に批判する前に、これを全文読んでみて下さい。私たちがこれほど見識のある素晴らしい首相を戴(いただ)いていたのに、愚かな権力闘争で引きずり降ろしてしまったのがよく分かります。また、これはアジアのみなさんにも読んで頂きたいものですね。私たちが過去の軍国主義と訣別(けつべつ)して平和主義で行こうとしているのがわかってもらえるはずだと思います。                       R7.10.12

 

 なお、 NHK日曜討論(R7.10.12)を聞いていてあらためて確認できたことがある。石破首相はアメリカ・韓国・中国の首脳と会談し、アジア・アフリカ諸国(いわゆるグローバル・サウス)とも交わった。わずか1年の間に大事なことをかなりやっておられる。少なくともその土台(布石)は打たれた。あと2~3年任せて貰えたらもっときちんといろんなことが出来ただろう。残念ながら自民党内部の足の引っ張り合いで中途で挫折してしまったが。これからどなたが首相になるか分からないが、うまく戦争を回避し平和な暮らしが続くように外交をやっていきたいものだ。  R7.10.12