James Setouchi 

2025.11.29

トルーマン・カポーティ

  『花盛りの家』『ダイヤモンドのギター』『クリスマスの思い出』

     新潮文庫 村上春樹・訳Truman Capote アメリカ文学

 

1 トルーマン・カポーティ 1924~1984年

 本名トルーマン・ストレクファス・パーソンズ。ニューオーリンズ生まれ。幼くしてアラバマ州の山奥のモンローヴィルの親戚に預けられる。カポーティは養父の名前。そこでは年の離れたいとこたちと生活した。両親は離婚、NYの母のもとで暮らす。(文春文庫『誕生日の子どもたち』2009年版の村上春樹「訳者あとがき』による。」高校卒業後自活し、様々な職業を経験、21歳の時短編『ミリアム』でオー・ヘンリー賞受賞。『遠い声、遠い部屋』(1948)が絶賛される。戯曲や映画のシナリオも書いた。『ティファニーで朝食を』(1958)はオードリー・ヘップバーン主演の映画となり大ヒットした(注1)。『冷血』(1966)は実在の事件に材を取り、詳しく調査したのちノンフィクション・ノベルとして提示したもの。これもベストセラーとなり映画化された。また「ニュー・ジャーナリズム」流行の先駆けとなった。他に『叶えられた祈り』など。1957年には来日し三島由紀夫とも会った。晩年はアルコール中毒に苦しんだ。(集英社世界文学事典の宮本陽吉の解説を参考にした。)(この集英社世界文学事典は私どものような初心者には有益である。(高価だが)一冊常備しておくといいかもしれない。各図書館にはあるとは思うが・・) 

        (注1):『ティファニーで朝食を』は映画と原作では随分違う。

 

2 『花盛りの家』“House of Flowers” 

 1950年出版、1954年ミュージカルになる。舞台はハイチ。主人公オティリーはハイチの山地の出身で今は首都ポルトープランスで売春婦をしている18才。その友人のベイビーとロシータは隣国のドミニカ共和国の出身だが今はハイチで売春婦をしている。

参考までに、ドミニカ共和国(ドミニカとは別の国)とハイチについて書いておく。作品当時のデータではなく外務省による現代(2025年)のデータである。二つの国は、キューバの東のイスパニョーラ島にある。東半分がドミニカ共和国で、西半分がハイチだ。

 

ドミニカ共和国:48000平方キロ。九州と高知県を合わせた広さ。人口1133万人(2023年)。首都サントドミンゴ(人口103万人←wiki)。混血73%、ヨーロッパ系16%、アフリカ系11%。言語はスペイン語。宗教はカトリック。

 

ハイチ:27750平方キロ。北海道の3分の1。人口は1158万人(2022年)。首都ポルトープランス(人口は市域98万人、都市圏で262万人←wiki)。アフリカ系95%、その他5%。言語はフランス語、ハイチ・クレオール語。宗教はキリスト教(旧教、新教)、ブゥードゥー教。

 

同じ島の東半分がドミニカ共和国でスペイン系の色が濃く、西半分がハイチでフランス系。

 

(登場人物)(ややネタバレ)

オティリー:ハイチの山で育った。母は死亡。父は入植した農園主だったが本国のフランスに去った。オティリーは山の農家に育てられたが、幸福な少女時代ではなかった。14才で都会のポルトープランスに出てきてシャンゼリゼという娼家に雇われた。美人で客に人気がある。17才。

ベイビー:オティリーの親友。ドミニカ共和国の出身。

ロシータ:オティリーの友だち。ドミニカ共和国の出身。ベイビーとロシータは、自分たちはこの国(ハイチ)の黒人たちより上位だと思っている。

シャンゼリゼの女将(おかみ):娼家の女将。オティリーが稼ぎ頭なので重宝している。

ブゥードゥー教の呪術師:オティリーが出会った呪術師。ハチをつかまえて刺されないか確かめて御覧、そうすれば・・と言う。

ミスタ・ジャミソン:オティリーの客。金持ちで50才過ぎ。

ロワイヤル・ボナパルト:山育ちの男。ポルトープランスに闘鶏にやってきてオティリーと再会、恋に落ちて結婚する。山の花盛りの家に住む。

ボナパルトばあさん:ロワイヤルの家に同居するばあさん。謎の呪術師で、オティリーをいじめる。

(あらすじを簡略に)(ネタバレ)

 山育ちだが都会で人気の娼婦オティリーは、何かが満ち足りなかった。それは、恋が足りないのだろう。あるとき山出身のロワイヤルと恋に落ち結婚する。山の家は花が美しかった。だがその家のボナパルトばあさんがオティリーをいじめ、猫の頭や蛇や蜘蛛やトカゲで嫌がらせをする。オティリーはそれらを黙ってばあさんのシチューに入れた。ばあさんは真相を知って憤死。だがばあさんの幽霊が出る(ような気がする)。オティリーはロワイヤルに相談した。ロワイヤルはオティリーを罰するために木に縛る。そこに友だちのベイビーとロシータがやってきて、オティリーを助けて都会に戻らせようとする。だが、オティリーは誘いを断り、ロワイヤルと暮らすことを選ぶのだった・・・

(コメント)

 このあとどうなるのだろうか? オティリーはロワイヤルと山中のこの美しい花盛りの家で幸せに暮らしていくのだろう、と私は感じた。だが、本当に? ばあさんの呪いは解けたのか? 

 娼婦というのは辛い仕事だが、その点は本作では書いていない。オティリーは恵まれた若さと美しさゆえ客に人気で、貧しかった子ども時代に比べれば都会で華やかに暮らせて幸せだった、とも言える。でもオティリーがロワイヤルとたちまち恋に落ちたのは、都会暮らしで何か満ち足りず、対してロワイヤルの持っている山の雰囲気がオティリーにとって親しみ深かったからだ、と書いている。最後に友人の誘いを断り山で暮らすことを選ぶのも、もともと山の静かな暮らし(決して安穏ではない、日々の仕事が山ほどある)の方が都会の派手派手しい暮らしよりも性に合っていたからだ、とも言える。都会の娼家に戻ってもやがて年を取ると客に捨てられる日が来ると考えれば、賢明な選択だったかも知れない。ロワイヤルを愛していたとも書いている。もうひとつ、町で出会ったブゥードゥー教の呪術師の教えに従いハチを握ってみたらロワイヤルが運命の人だとわかった、またロワイヤルの言うとおりにしてばあさんを死なせた罪の償いが出来た、とオティリーが考えたとしたら、オティリーはブゥードゥー教の教に従った(無意識に?)とも読める。都会で消費生活を送るよりも、好きな人と結婚し、山の中で働き、迷信とも見える古い慣習に従って生きる方が幸せ、という世界観を提示した作品とも言える。それは都会の市場経済(消費生活)への批判でもあるのかも知れない。

 だが、ロワイヤルは結局闘鶏に夢中で都会に出て金を浪費するかも知れない。ばあさんの呪いは復活するかも知れない。どうなのだろうか? その先は書いていない。

 上田秋成の怪談を連想させるホラーめいた話だが、オティリーは、実力でばあさんを撃退した。また、ロワイヤルの命ずるままに木に縛られていたわけではなく友人と共に繩を抜け出し酒で乾杯している。最後はロワイヤルを脅かすために死んだふりをする。村上春樹の訳で読んだので、「魅力的な女性だ」と村上春樹が言う声が聞こえてきそうだが、本当か? と、やっぱり考えてしまった。

 ベイビーとロシータがドミニカ共和国出身ゆえハイチの黒人よりも自分たちの方が上と考えている、という記述の意味はよく分からなかった。アフリカ系黒人ではなく、白人系クレオールだと言いたいのだろうか? では、白人から差別される側はどうなるのか? ドミニカ共和国とハイチは隣国だが歴史が少し違う。ハイチは黒人国家としてフランスから1804年に独立。だが現在(2025年)も貧しい。ドミニカ共和国は1804年に黒人国家ハイチとしてフランスから独立したが分離してスペイン領になることを選んだ歴史もある。これを白人による黒人に対する差別意識(レイシズム)のゆえだと論じている人があった。(結局いずれもアメリカの支配を受けるのだが。)ベイビーとロシータはそういう意識を持った存在ということか。対してオティリーはハイチでフランス人の父親の子として生まれたが父親は本国フランスに帰った。オティリーはハイチの山の農家で育てられた。ひどい目にも遭ったが、結局オティリーはハイチの山でロワイヤルと暮らすことを選ぶ。フランスの父(ヨーロッパ)に去られた白人が(母親がフランス系かアフリカ系かなどは書いていない)ハイチの島(都市部は消費文明に汚染され、山間部は貧しく迷信が残っている)でクレオールとしてどう生きていくか、の問題意識が、本作には隠されているかもしれない。 一見ホラーで、また夫とのハッピーな愛の物語に見えるけれども、実は社会批評意識の高い作品なのかもしれない。

 カポーティの生育歴と照合すれば、アラバマの山奥対NYが、ハイチの山奥対ポルトープランスという構図になっている。カポーティが若き有名作家として生活している現場は後者(NY)だが、奇妙でもあり無垢でもあった懐かしい世界は前者(アラバマ)である。

 

3 『ダイヤモンドのギター』“A Diamond Guitar”

 1950年出版。舞台はアメリカの囚人農場。つまり服役者を働かせる農場。

(登場人物)

ミスター・シェーファー:50才。服役囚。殺人で服役中。この囚人農場に17年間暮らしている。周囲から尊敬されている。

ティコ・フェオ:新入り。キューバから来た18才。ダイヤモンドのギターを持っており、ギターを弾いて実何個頃をざわつかせる。シェーファーを誘って脱獄を試みるが・・

アームストロング看守:看守。

ビッグ・アックス、グーバー、チャーリー、ウィンク:囚人仲間。

(簡単なあらすじ)(ネタバレ)

 シェーファーはこの囚人農場で長年暮らしてきたが、新入りのティコ・フェオが弾くギターの音楽に何だか心がざわついている。ティコはシェーファーを誘い森の中から脱走を試みる。シェーファーは疾走するが年齢のため宇足を取られ転んび捉えられる。ティコはシェーファーをあっさり見捨てて去った。あとにはギターが残った。シェーファーはそれを下手くそに弾きながら広い世界のことを思うのだった・・

(コメント)

 上のあらすじ紹介には私の解釈が入っている。ティコのギターは囚人たちに外の広い世界への憧れを呼び覚ました。ティコが去ったあともシェーファーはギターを手にして外の世界へと思いを致すが、所詮は叶わぬ夢で、この囚人農場の中にしか彼(ら)の現実はない。こういうことだろうか。それでも、「いま、ここ」ではない遥かな世界への憧れを人間は持ち続ける。幼少年期に狭い田舎の家庭から遠い世界にあこがれ、壮年期に現実の檻に囲まれながら遥かな遠い世界に憧れ、老年期にこうでしかありえなかった現実の中にあってそれでもなお他の可能性を夢想する・・カポーティはそういうことを言っているのだろうか?

 ティコは人のものを盗み平気な人物として造型されている。あまりうれしい人物ではない。だがティコのような奴だけがどこか遠い世界に去って行くのだろうか? あるいはティコは結局人間世界には住めない、人間の世界とはシェーファーの居る「いま、ここ」にしかない、ということか?

 

4 『クリスマスの思い出』“A Chistmas Memory”

  1956年発表(←wiki)。舞台はアメリカの田舎。季節は11月の末からクリスマス。幼い「僕」(語り手)は7才。年長の(60才を越している)従妹と親友で、一緒に暮らしている。文春文庫『誕生日の子どもたち』2009年版の村上春樹「訳者あとがき」によれば、カポーティは幼い頃アラバマ州の親戚に預けられた。そこには年の離れたいとこたちがいた。その一人がスックという女性で、世間からは知的に障がいがあるように思われていた。だがトルーマン少年にとっては愛情を注いでくれる唯一の大切な相手だった。

(登場人物)

僕(バディー):語り手。田舎で過ごした7才のクリスマスのことを回想して語る。

親友:「僕」の従妹で60才過ぎ。昔「バディー」という名の仲良しの男の子がいた(亡くなった)ので「僕」のことをバディーと呼ぶ。多くの親戚と暮らしているが、問題児扱いされている。対人関係は下手くそだ。でも「僕」のことは大事にし、クリスマスになると一緒にケーキを焼いたりツリーを飾ったりする。

クイーニー:犬の名前。

ハハ・ジョーンズ:商店主。インディアン(アメリカ先住民)。闇で酒も売る。周囲からは人殺しだと恐れられているが、本当は善人のようだ。妻もある。

親戚たち:「僕」の「親友」のことをカンカンになって怒る。いわく、「正気の沙汰ではない」「滅びへの道だ」「恥を知れ」「面(つら)汚しだ」などなど。ここから、アメリカの田舎にいかにもいそうな、キリスト教徒だが偏狭で体面を気にする人びとだとわかる。

(あらすじ)(ネタバレ)

 「僕」は7才で60才過ぎの従妹「親友」と仲良く暮らしている、クリスマスの季節になると二人はケーキを焼き遠国いる誰かれに送る。ウイスキーを飲んで親戚からこっぴどく叱られた。森からツリーを取ってきて飾り付けをする。お互いに凧を贈っては凧揚げに興じる。幸せな日々だった。だが、「僕」はやがて寄宿舎に送られ、彼女は一人残されて死んでいく。

(コメント)

 田舎の「親友」との幸せな日々を回想して描いている。カポーティはこのような幼少年期を送ったのだろうか? だが、成長すると寄宿舎に送り込まれ軍隊式の教育を受ける。彼女との日々は「僕」にとって本当に幸福な日々だった。

 彼女はどうか。「僕」を大事にする。だが、親戚たちからは嫌われている。恐らく彼女は、当時の田舎の「常識」からすれば対人関係が苦手で不器用で社会に対して少し不適応な人間だったのだろう。だがアメリカ先住民のハハ・ジョーンズに対しては偏見を打ち破ることが出来る。(これは、子ども故の偏見が実際に接してみると偏見でしかなかった、と読むべきか、それとも、大人たちの偏見に対して、子どもであり子どもの心を持った彼女だからこそ偏見を打ち破れた、と読むべきか?)

 彼女と「僕」はクリスマスケーキを焼き、近隣の友人にも配るが、大統領、ボルネオにいる牧師夫妻、年に一度来る包丁研ぎ、バスの運転手、カリフォルニアの若夫婦など、近隣で暮らして密接な関係を持っているわけではない人たちにも郵送する。これは隣人を愛するキリスト教精神によるとも言えるし、近隣では不適応だから遠い世界の人とつながりたいと考えているとも言える。「活気に満ちた外の世界に結びつけられたような気持ちになれるのだ」(新潮文庫247頁)とある。

 幼い「僕」も彼女も自由に使えるお金がほとんどない。市場経済(貨幣経済)の只中に暮らす人間ではない。多くのものを周囲の自然から取ってきて手作りで作り上げる。今の日本ではケーキもツリーもデパートやスーパーでお金を出して買えるが、彼らはそうではない。手間暇をかけて手作りで作り上げていく中に幸せを感じている(と読める)。NY的な消費生活のオルタナティヴが書いてある

 但し市場や貨幣から完全に切断されているわけではない。つつましく暮らしわずかなお金を貯めて必要なものは買う。お酒も買う。「僕」は10セント貰って映画を見る。自転車を買うお金はない。

 「僕」は将来タップ・ダンサーになりたいと思っている。タップ・ダンサーなどどこで知るのか? 恐らく、映画の中で。「僕」はこの小さな世界にあって幸福だが、同時にスクリーンで見るどこか遠い都会に憧れ、またケーキを送る相手の住むワシントンやボルネオやカリフォルニアに思いを馳せる

「僕」は成長しいつかこの世界を出て行くが、出ていくのは自分が田舎で育んだ憧れのもたらす必然であるのかもしれない。でもそれが「軍隊式の獄舎」という形になるのは、「わけ知り顔の連中」のせいであって、「僕」はその結果に満足してはいない。「軍隊式の獄舎と、起床ラッパに支配された冷酷なサマー・キャンプを惨めにたらいまわしにされることに」(261頁)なってしまったその後の「僕」の青春、それに続く「僕」の今の人生を、語り手「僕」は今現在決して肯定してはいない。今現在から見ると7才当時の「親友」との共生がいかに素晴らしい日々だったか、を「僕」は思い出して描いている。それは同時にアメリカ社会の「軍隊式」の窮屈さへの批判でもあるに違いない。発表当時の1956年(作者32才くらく)は東西冷戦の只中だ。朝鮮戦争もあった。太平洋戦争終結(作者21才くらい)からでも10年少ししか経っていない。読者は「軍隊式」の言葉にピンときたに違いない。

カポーティは『あるクリスマス』という作品を晩年の1982年に書いている。文春文庫『誕生日の子どもたち』(2009)に載っている。

 

 中勘助『銀の匙(さじ)』は幼い「わたし」を伯母さんが溺愛する。舞台は東京。

 井上靖『しろばんば』も小母さんと幼い洪作が蔵の中で共生する。舞台は伊豆湯ヶ島。