James Setouchi

2025.5.17(土)読書会記録 井原西鶴

 

井原西鶴   読書会はR7年5月17日土曜。担当:Y。

 

1 井原西鶴 (最も簡単に)1642(寛永19)~1693(元禄6)。江戸前半、元禄頃の人。同時代人は松尾芭蕉、近松門左衛門。なお、NHKでやっている蔦屋重三郎や田沼意次は江戸後半の人

 彼の諸作は、武家、町人、遊女、富豪、貧しい人、男色、ケチな人、贅沢な人などなど多種多様な人びとが出てくる。舞台も大坂、京、江戸、地方都市などなど多様。しかも社会(経済など)的背景などが書き込んである。大変面白い。

 

2 どれから読んでも構わないが、とりあえず・・・

(1)(補足)遊郭について

 江戸時代、大坂の新町、京の島原、江戸の吉原が三大遊郭だ。吉原の遊女の平均死亡年齢は21~22歳だった。性病、過酷な労働、粗末な食事なども原因だろう。

 明治以降はどうか? 永井荷風が出入りした玉乃井遊郭はどうか。(『墨東奇譚』は1937年=昭和12年刊。)

戦後はどうか。1946年(昭和21年)にGHQが公娼廃止令を出したが、「赤線」「青線」という売買春エリアは戦後もずっとあった。「赤線」は特殊飲食店としての届け出をしているエリア、「青線」は無届けのエリア。1956年(昭和31年)の売春防止法でそれらは廃止された。同法の施行は1958年(昭和33年)。その後も非合法で営業している店があり、今日まで続いていると言われる。非合法です。

 

(2)『諸国ばなし』1682年=天和2年刊。その一つ1-3「大晦日(おほつごもり)はあはぬ算用」は、武士のあり方の話でもある。武士とは何か? 話はそう簡単ではない。「花は桜木、人は武士」と言うほど武士の生き方が素晴らしいとされるのは、山鹿素行(士道論)や新渡戸稲造『武士道』からあとで、それまではそうではなかったかも? 

 

宮本武蔵:有名だが自分より弱い相手と戦って勝ち続け、有名になる。侍大将を夢見た? 江戸には時代おくれ。「遅れてきた戦闘者」と言うべきか。

忠臣蔵:作戦を練って相手の油断を突いて勝ち、できれば再就職を狙った? 忠臣と騒がれ、名誉の切腹。徳川綱吉の時代。

『葉隠』(山本常朝):計算してはいけない。遮二無二(しゃにむに)突入しなければならない。儒学不要。ケンカ武士道。実は譜代(ふだい。先祖代々その主人に仕えている)だからできることか。

『三河物語』(大久保彦左衛門):「御譜代の衆ハ、よくてもあしくても、御家之犬にて、罷出ざるに・・・」なお、家康のキャッチフレーズ「厭離穢土、欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど)」も面白い。本来は浄土系の言葉のはずだが。

山鹿素行(やまがそこう):儒学を学ぶ。為政者である以上人格も立派でないといけない。(士道)(和辻哲郎参照)

新渡戸(にとべ)稲造『武士道』:「義」を最重視。キリスト教的士道と言うべきか。

映画「ザ・ラスト・サムライ」:何をもって「サムライ」とするのか? 疑問。

サムライニッポン、サムライブルー:何をもって「サムライ」とするのか? 疑問。野球やサッカーの選手が殺人をしてはいけないよ。

 

(3)『本朝二十不孝』1686刊 (5-4 古き都を立ち出(いで)て雨

 親孝行は中国儒学では最重要の徳目で、『二十四孝』という本があり、日本でも読まれた。それをパロディにした。親不孝のハナシが続くが、本作のみ親孝行のハナシ。

 

 奈良の徳三郎は刀屋徳内のせがれ。小器用だが喧嘩好きの親不孝。一族から勘当され江戸へ。麹町の請人屋の九助をたより、まずは天秤棒をかついで大根の行商から始めた。昔は良かったと思うことしきり。さて貧しい家の少年に大根を与えさらに米や味噌を持っていくと、その家の親はもう餓死していた。徳三郎は哀れに思い一緒に弔ってやる。それから10日ほど毎日世話をするうち、信濃(長野)の田舎から少年の実父で立派な武士がやってきて、「養子にやった子だったがよくぞ孝行を尽くした、さあ、家に帰ろう」と少年を連れて帰る。徳三郎にはお礼で100両をくださった。徳三郎は日本橋通町に店を出して商売も成功、奈良の親を迎え、孝行を尽くし、人のために慈悲善根を尽くしてまっすぐに世渡りをした。家は栄え江戸に安住して悦びを重ねたことだ。

・・・徳三郎は変わった。才気があって喧嘩早く周囲に憎まれて奈良に地元を逐(お)われたが、江戸では変わった。彼を変えたのは、まずは親切な九助との出会い。次に天秤棒をかついで大根を売る生活。そういう辛抱の生活の中で鍛え直された。そういう辛抱の数年間があった方がいいということか。もともと才のある賢い人だったかも知れない。自分が辛かったので、他の人のつらさにも共感して、人助けをした。人助けをできるほどわずかな蓄えがあったのもよかった。そこから先は偶然だ。「この人を助けておけばあとでリターンが大きいから」という打算で助けたのではない。たまたま相手が大金持ちの子どもだっただけだ。でも、真面目に暮らせばいいこともある、という「成功体験」になっただろう。彼はその後、身を慎しむ。富裕になればたちまち身を持ち崩す人も多いが、彼はそうではなかった。貧しい時代の初心を忘れなかった。

 みんながこういう目にあうだろうか? 天秤棒を担ぐ人は多い。でもみんなの運命が劇的に好転するわけではない。彼は体力があった。天秤棒を担ぐうち体を壊す人もいるだろう。今の若者のブラック・ワークは改善しなければならない。失敗しても再チャレンジできる社会にする。

 

(出た意見)

徳三郎は、困っている人を放っておけず助ける。若い頃喧嘩っぱやかったのも、他の人のことを放っておけない性格で、但し解決の手段が暴力だっただけで、彼は若い頃から大人になるまで、他者と関わって生きていく姿勢(隠遁者ではない)では一貫しているのかも

請人屋の九助とは? 今で言えばハローワーク、または人材派遣会社、あるいは地方出身の若者を集めて貧困ビジネスをする悪徳業者? 

・いやこれは、九助自身が若い頃は不良で、大人になって改心した人では? だから九助は徳三郎の世話をしたのでは?

・困っている人を助けるべきだが、具体的にできるか? と言うと、得手不得手がある。「夜回り先生」は夜回りに強く、貧困やDVに苦しむ人には同じ苦しみを舐めてきた人の方が、相談に乗りやすいかも知れない。個人のボランティアでは限界があり、だから社会システムで包摂すべきなのだろう。

・人助け、と言うが、「超人思想」ではない、「隣人愛」でしかないのでは。

・いや、「隣人愛」はいいものだ。アメリカに行けば普通の若者や大人が大量に愛の精神でボランティアをしている。それはすごいものだ。アメリカ人は銭ゲバばかりではない。

・「神の見えざる手」が働けばいいのであって、みなが利己主義を貫けばうまく全体が回るのではないか?

・それは間違い。「神の見えざる手」が働かず貧富の差が拡大したから、マルクスやケインズが出てくる必要があった。ケインズを批判して新自由主義が出てきたが、ダメだ。

新自由主義はどうしてダメなのか。

・小さな政府という割には軍事費は膨大だ。まずそこが疑問だ。富裕層に減税をし貧しい人を痛めつける。これもおかしい。(日本では規制緩和の新自由主義で毎年3万人が自殺し10年間で30万人が自殺した。アメリカで新自由主義を唱えていた高名な経済学者も、日本に帰国してこれは間違いだった、と言っている。)

・規制緩和で競争が激化し、運送会社が過重労働になり、交通事故が増えて若者が多く死んだ。車体の薄い乗り物を使いバスや鉄道車両がペシャンコになって多くの人が死んだ。地方のローカル鉄道が廃線に追い込まれ交通の便がなくなる。地方の郵便局がなくなると宅配業者はやってくれないので地方は捨て置かれる。上下水道も直らない。学校も民営化して競争すれば普通の人が教育を受けられなくなる。消防や警察も来てくれなくなる。自衛隊を民営化したらどうなるか? 私兵=マフィア的武士団の支配する社会になる。このように、人間の生活にとって必要不可欠なものは、民営化してはいけない。税金を投入してでも皆で支えるべきものがある。規制緩和しさえすれば世の中がよくなるというのは、形而上学でしかない。

・大学のサークルも補助金を打ち切られた。全部自腹でやるしかない。

・中学や高校や大学のサークルや部活動を公教育から切り離し、民間に任せるべきか?

・中学や高校で歌舞伎や弦楽や剣道をしなかったからと言って自分の人生が大きく損をしたとは思わない。学校で勝ち数にこだわり競争しすぎているのでまじめで優秀な生徒が酷使されて潰れる。教師も潰れている。部活動などは学校から切り離し、勝つためではなく楽しく体験できる場所を、市役所や区役所で老若男女が和気藹々と集えるように、税金で確保すると良い。陶芸や読書会や合気道も無料(実費だけ)で参加できるものがある。どうしても五輪に出たい人はカネをかけてどこかよそでやる自由があってもいいが。(普通の人間は五輪など出なくていい。普通の人間の幸せはどこにあるのか?)

体験格差は人間の人生にとって大きな意味を持つのか? 多くの人はどうでもいいと思っているのではないか?

・いや、体験格差と人脈の差が就職やその後の世俗的成功を左右する、という見方は、有力だ。『「東大卒」の研究』(本田由紀)を読んでみよう。調査してデータを蓄積すべきかも。

・いや、そんな世俗的な成功を目指して、スポーツやお茶やお花や陶芸をしているのだろうか? それは貧困だ。

・本文に戻って、虎之助の養父は子に「そんな家庭内のことを言うな」と厳しい。これはどう取るか?

さすが武士で、落ちぶれても気位は高い、体面が大事、ということか。

その気位の高さを、西鶴は感心せずに、妙なものだというスタンスで書いているのでは? 武士とは妙な存在?

・これは養父は死にかかっていて判断力が落ちているのでは?

・いや、これは、落ちぶれても武士、という気位の表れだろう、やはり。

・江戸時代は武士が土地や戦闘から離れたので精神の純化が起きたと聞いたことがあるが?

・それはもう少し詳しく論じないといけない。本来の武士なるものが果たしてどんな存在だったかどうか。平安や鎌倉の武士はマフィアと同じ私的武装集団と言う方が近い。あいつは強いという名前へのこだわりは平安武士にもあるが、実利的なものだ。倫理性、精神文化を重視するのは、武士だからと言うよりも江戸の儒学の影響と言うべきかも知れない。

・虎之助の養父は、浪人して貧窮した現実を見ることができずぜいたくに暮らしていたのでは?

・ぜいたくとは書いていない。紙製の衣類を着るなど貧乏暮らしだ。

・この虎之助は養父母のもとで3年くらい孝行を尽くしたのは立派だ。

徳三郎は親に孝行しなかった。虎之助は養父母に孝行した。両者は対照されている。徳三郎は自分が親不孝だったので身につまされて虎之助に親切にした。

虎之助は信州の実家に連絡したのでは。タイミングよく助けが来ると知っていたのだから自害はポーズでは。

・自害がポーズとは、芥川のような小説にするのならおもしろい。でも本文はそうではないのでは。

・徳三郎が虎之助を助ける。結果は良かった。これなら「隣人愛」もいいものかもしれない。

・「隣人愛」がそもそもダメというのがよくわからない。

・100両とはいくらくらいか? 時代によるが、1両3万円なら300万円、1両13万円なら1300万円。

徳三郎は店を出してからはうまく行ったとあるが、そううまくいくものか。

・徳三郎は行動を慎んだのだ。実際には、一度成功してもまた没落するケースは、『世間胸算用』『日本永代蔵』にはいくらでも出てくる。遊郭で使い果たしたとか。

 

(少年が働く)

林芙美子『放浪記』と佐多稲子『キャラメル工場から』では小学校6年くらいの年で働いている。

椎名麟三『重き流れの中に』では少年は末端の鉄道員として働く。椎名麟三は両親に不幸があった。

西村賢太『苦役列車』は大変だった。破れかぶれの生き方だ。これも父親に悲劇があった。

砂川文次『ブラックボックス』はロードバイク便で働く若者。結構大変だ。

いとうみく『車夫』は浅草の人力車を引く少年。(未読)

曽野綾子『生贄の島』では沖縄の空襲下で女学生たちが従軍看護師として働く。

ディケンズ『デビッド・コパフィールド』も少年時代から働く。ディケンズの実体験に基づくだろう。

シュリーマン『古代への情熱』も少年時代から働く。自伝。

森村誠一『悪魔の飽食』もよく見ると731部隊は少年を働かせている。

 

(親孝行について)

・モーゼの十戒にも「汝の父と母を敬え」とある。箴言1・8-9にも「わが子よ、父の訓戒に聞き従え。母の教えを捨ててはならない。・・」とある。

・新約聖書のエフェソスの信徒への手紙(パウロ著?)6章1~4にも「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。『あなたの父と母とを敬え』。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、『そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう』・・」とある。。

・イスラム教では。コーラン(クルアーン)17-24に「両親に孝行せよ」とある。

・孔子(儒教)は「孝」重視。生きている親を大事にするだけではなく、亡くなったあとも先祖祭りを大事にする。一般的な言い方では、帝舜はDV親に対して孝養を尽くした。曾参(孔子の学団の継承者)は「孝」を大事にした。中江藤樹(とうじゅ)が「孝」を大事にした。母親のために仕官を辞めて(武士の身分を捨て)田舎に帰り刀を売って金に換えて母親を養った。内村鑑三『代表的日本人』の四番目の人だ。

・仏教はどうか。江戸初期の儒者は仏教を家族倫理を否定するものとして批判したが、諸々の経典に親孝行を説いている。アルボムッレ・スマナサーラ長老(テーラワーダ仏教)は「お釈迦さまは、まず子が親になすべきことを五つ挙げられています。お釈迦さまは「親孝行」という言葉の意味を、五つの項目で具体的に教えられたのです。・・・」と説く。さらに、我々は生まれかわるので、全ての生きものが親であり子であることになる。空海『三教指帰』はまず仏になってから父母をも根本から救済する、とする。親鸞『歎異抄』で「父母の孝養のために念仏は申さず」とするのは、まずは儀式や呪術に頼らず念仏で阿弥陀如来に直結することが第一義ということだろうが、先祖祭りで当時の鎌倉武士が集まって団結しもめごとを起こしていた社会を批判したとも。 

 

(感想)

・先祖供養をしないということは、どういうことか。

・貴族や金持ちは財力でお寺に寄進し、高位の僧をずらりと並べて法要(マジカルな儀式)をする。藤原頼通は宇治平等院鳳凰堂を作った。でも貧しい凡人はそんなことはできない。いわゆる「念仏行儀」などのマジカルな儀式もできない。それでも念仏ひとつですくわれる、と法然や親鸞は考えた。それは呪文のマジカルなパワーに期待したのだろうか? 阿弥陀如来の圧倒的な救済力ゆえに、他には何も要らない、と考えたのでは? (金がなくても救われる、人間の自力の努力がなくても救われる。)(一遍はお札を配ったが、お札も要らないのでは?)しかも武士たちは先祖供養を口実に一族で集まって決起集会をしては戦争をしている。それはおかしい、ということだろう。

・空海は満濃の池をつくったのか。

・知らない。空海やそれを継承するグループが金と人を集めて作ったことはあり得る。時代と人物名は後から付いてくることが多い。お「ダイシ」信仰も、弘法「大師」だけでなく、聖徳「太子」かもしれず、さらに「大い子」信仰かも知れない。(柳田国男など)

 

(4)『日本永代蔵』1688刊(『世間胸算用』よりも前に出した)の1-3「浪風(なみかぜ)静かに神通丸」は大坂の北浜の米市場が出てくる。「息子をも9歳から遊ばせずカネ儲けをさせた」とある。『世間胸算用』1692年=元禄5年刊の5-2「才覚の軸すだれ」では習字屋の師匠が、「子供は子供らしく遊ばせるが良い、子供のうちから金もうけをしているようではダメ」と言う。どうなのだろうか?

・学校など、もっと実業高校・専門高校を増やし、大学も専門学校化し、英米の小説ではなく商売の英語、経済原論でなく簿記の付け方、哲学や文学はなしでしつけと挨拶だけすればいい、実学重視で調理師免許、看護師免許などを取らせるようにした方がいいのではないか? という意見があるが、どう考えるか?(当然、高度の数学も音楽もスポーツも要らない。)

・その方が就職はいいかもしれないが、何か寂しい。何か足りない。

・その「何か」とは何か? それが大事なのでは?

・達磨大師は世俗の皇帝に向かって、「坐禅は役に立たないよ」と平気で言い放った。道元は山の中で少人数で坐禅した。栄西は鎌倉幕府に食い込んで布教しようとした。宗教信仰は、世間と隔絶したところで行われるのか、世間と結んだところで行われるのか? では、学問はどうか? 文化全般はどうか? あまりにも世俗化して「実用」ばかり言うのは、どうなのか?

・そこに普遍的教養への志向はない。世界への貢献の志がない渋沢栄一は『論語と算盤(そろばん)』で商人は儒学を勉強し倫理観を確立すべきだ、と言った。

・西鶴の描く世界は、実は結構まっとうな倫理観が描かれる。「金銭欲と性欲だけ」とするのは誤り。

高学歴でない人の代表選手は、松下幸之助と田中角栄だ。昔の歌手も中卒で16才くらいでバンバン歌っていた。リンカーン(大統領)もろくに学校に行かずに働いた。エジソンは小学校中退。

世界中に学校に行けずに少年労働に従事させられている子がいる。孔子は幼いとき父親が亡くなり貧しかったのであらゆるアルバイトをした。様々な世事に詳しいが、それが君子のやるべき最大事とは考えなかった。15歳で学問に志しあらゆる機会を捉えて学び続けた。「孔子には常の師なし(決まった師匠はいない、どこからでも学んだ)」と言われる。釈尊(お釈迦様)は北インドの王家の出身だったが家出して修行した。(父王が見守り隊をつけていたとの見方も。)イエスはどこで学んだのか? ユダヤ人の教会の学校で学んだのか。ソクラテスは? 平安貴族のトップ層は学校に行かない。血筋で出世できるから。その分家庭教師が沢山付く。中流どころが大学に行く。

 

そもそも原典や原文で読む意義は?

桑原武夫は、ギリシア語・ラテン語・漢文の修辞法などを延々とやるのではなく、それは一部の専門家に任せて、多くの人はもっと現代的な課題(今で言えば国際紛争、貧困、資源・エネルギー問題、感染症などなど)に取り組むべきだ、と言っている。京大2次で漢文を出さないのはそれ。(慶応で古典を出さないのはなぜ?)

誰かに解釈を任せると、嘘を教えられることがある。嘘を見抜くべきだ。例えば「忠孝一本」は後期水戸学で、それを使ったカミカゼ1号の関大尉を「天皇陛下のために突入したから親孝行」などと言うのは、孔子が聞いたら「私はそんなことは教えていない」と激怒するようなしろものだ。古代中国では(儒教では)親孝行が大事で、親を捨てて主君をとるのはおかしい。全員が原文で読めるべきだが、事実上無理で、では人口の何割くらいの人が原文で読めるべきか? また各種の訳本や解釈本を複数参照しても、本当は秦の始皇帝の漢字の統一以前の文字で『論語』を読むべきなのに、そこまでできている訳書がいくらあるか。そう考えると、自分の聞いている訳や解釈が嘘かも知れないという謙虚な問いは常に持つべきだ。とはいえ我々は古代ヘブライ語も現代ロシア語も出来ない。すぐれた翻訳や注釈書に期待しそれを複数参照するしかない。すぐれた翻訳者や注釈者が必要だ。また訳本で読んでもロシアの小説などは非常に面白いのは事実だ。聖書なら「アガペー」など重要な語彙はギリシア語に戻って考えるとよい。

 

(5)食事をしながら出た話

・田舎に移住する人がいるが、田舎のいい点と悪い点は何か? 「良くも悪しくも人間関係が濃密で、寂しくはないが何でも噂されるのはいやだ」「都会では本屋で偶然会っても他人の振りをするのがエチケットだと曽野綾子が書いていた」「大都市だと沢山の人に囲まれているかに見えて、かえって人間関係が作りにくくて狭い人間関係の中で暮らしていることが多いとか」「田舎で用水路の掃除をたまにするくらいならいいが、さまざまな山仕事の類いにしょっちゅう駆り出されるのはうれしくない」「コンビニもない、プロパンガスを自分で担いで山の上に持っていく、上下水道インフラや交通の便がないのは困る」「水がきれいで樹木や草花や海がある。自然と閑寂が好きな人にはよい」「結局、大都市でもすごい田舎でもなく、自分の育った中小レベルの都市がいい」「村おこし、町おこしは、イベントだけやっても一過性で、住んでいる人の生活水準も上がらないし定着人口も増えない。国税を投入しても都会のイベント業者が吸い上げるだけだったら地元には落ちない」「イベントをするよりも、そのコストで川底さらえをした方が、あとで洪水にならずにすむのでは」

 

人間は見た目か、中味か、の話も出た。「上品な服装や立ち居振る舞いなどは、本人の努力と成功の表れなので、上流階級の人が人を見た目で判断するのは一理ある」「どんでもない。見た目だけ良くて中味がでたらめな奴がいる。その代表は結婚詐欺師だ」「反対に、見た目はでたらめだが中味が立派な人は誰か? 例えば、一休禅師だ」「服装の機能は何か? 暑さ寒さを防ぎ、害虫やイバラから肌を守り、ポケットでモノを運び、運動伸縮に耐え、洗濯してもいたまない丈夫さ。すると、電気工事のおじさんの着ている服が一番機能的だ」「服装には、社会的立場を示す機能もある」「それは差別を生む。百姓身分とユダヤ人と日本人は全員この服を着なさい、などと統制するのは、差別だ」「最近は女子もスボンでOKという風潮になってきた」「男子もスカートでいい、とはなっていないのか?」

 

(6)解散したあと、居残って延長で話し合った。

アートは金持ちに陶芸や絵画を1000万円で買って貰って成り立っている面もある。どうなのか。

・ゴッホは貧しいまま暮らした。では貧乏なゴッホの絵は無価値なのだろうか? 高価な値段が付いたり東京芸大の学長だったりしたら価値があるように見えるだけかも? 

・『ブラック・カルチャー』(中村隆之)という本によれば、アフリカの黒人社会のシステムに支えられていた黒人音楽だが、奴隷として西海岸に連れて行かれたとき、アフリカの社会システムも楽器も全て失い、ただ身体にしみついた記憶や音楽だけが彼らの持っているものだった。彼らはそれを歌い踊る中で慰めを得て生き延びた。世界で売れているわけではなく高名なわけではないが、人間が生きるために必要なアートというものはあるのではないか? 1000万円で投機的に売買される絵画と、値段は付かないが現に人を生かすアートと、どちらが値打ちがあるか?