James Setouchi

2025.5.28

 

滝井孝作『邦男と二宮と』『彼の周囲』『責任自殺』  短篇      

 

1        滝井孝作

 1894(明治27)年岐阜県飛騨高山町に生まれる。祖父は大工の棟梁、父は指物師。12才で母が病没、魚市場の店員となる。15才で俳句に出会う。18才で大阪に出て特許事務所の事務員となる。20才で東京に出て特許事務所の事務員となる。この間俳句を創作。大正8年25才で時事新報社文芸部記者。榎本りんと結婚。このころから文芸時評や創作を発表。大正9年『改造』記者。志賀直哉と会う。大正10年創作一本で立つため『改造』退社。大正11年妻病死。千葉の我孫子に転居。大正12年篠崎リンと再婚(志賀直哉の媒酌)。大正13年京都市上京区に転居。大正14年奈良に転居。昭和5年八王子に転居。昭和6年『邦男と二宮と』発表。昭和10年『彼の周囲』『責任自殺』発表。昭和12年それまでに発表していた『夢幻抱擁』を刊行。昭和13年従軍文学者として中国へ。昭和27年『松島秋風』発表。1984(昭和59)年没。(集英社日本文学全集の年譜他を参照した。)志賀直哉を尊敬し、私小説が多い。

 

2 『邦男と二宮と』昭和6年、37才で発表。短篇。客観小説。

(あらすじ)(ネタバレ)

 邦男は地方都市の金持ちののんびりした息子で、遊んで暮らせる身分だが、体裁のため分家して店を出している。同級の二宮は貧しい出身で、学生時分東京で邦男と同じ下宿にいたが、車を引きながら苦学していた。邦男にとって付き合いにくい相手だった。やがて二宮は医学部に合格し、スポンサーもできて、立派な医師となり、地方都市に帰ってきた。

 ところが二宮は酒乱で評判がすこぶる悪いと分かった。妻との仲も険悪だ。邦男は友人代表で何かと相手をしなければならないが、迷惑を感じてもいる。

 やがて二宮は妻とうまく離婚し、資産家の娘と結婚したと言う。邦男は自分の山に「首陽山」と名づけて松茸(まつたけ)を取りに行ったりする。

 

(コメント)

 ラストで「首陽山」を出したのはなぜか。首陽山は、その昔、伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)が俗世に暴虐が満ちたのを嘆いて隠棲した山。邦男はみずからを伯夷・叔斉に擬(ぎ)し、俗世を乱れたものとして批判しているとも言える。どのような俗世か。二宮は医学生の頃援助してくれた糟糠(そうこう)の妻を去り、若い資産家の妻を手に入れる。(障害となる邦男をわざと誤診して危険な薬を与えた疑いもある。)二宮の悪口を言っていた連中も今となっては二宮の結婚を言祝いでいる。悪辣な男がのさばり、世間もそれに迎合する。このような不正義のまかり通る俗世に対して、邦男は暴虐なる濁世(じょくせ)だと考え、みずからを首陽山の隠士に喩えてみている、と取ったら、取り過ぎであろうか? 同時に、金持ちの分家でうかうかと過ごす我が身への自嘲(じちょう)・自虐(じぎゃく)も半ばはあるかもしれない。

 本作は(本作に限らないが)助詞を抜かす、読点(「、」)を抜かす、方言を使うなど、独特の文体で、作者は意図的にこの文体を採用しているのだろうが、読みにくかった。内容は、上記のように深読みすれば面白いが、当否はわからない。

 

3 『彼の周囲』昭和10年、41才で発表。

 本作も助詞を抜かし、読点を抜かし、方言を使う。読みにくい。かつ親戚の人間関係が説明不足。(重要でないのかも知れないが。)一読、何の話か分からなかった。

(あらすじ)(ネタバレ)

 晋(すすむ)は地方都市在住の画家の卵で、親のすねかじり。体格は太っており「だるま」と呼ばれている。従兄弟の初平は東京で車掌をしていたが肋膜を患い養生していたが、家出騒ぎを起こした挙げ句に上京した。背後に若い女性の影が見える。初平は東京で喀血してこの地方都市に連れ戻された。親戚一堂が世話をする。晋も出て行かざるをえない。だが、結局初平は病が重く、亡くなってしまった。葬儀の日、晋にとって見知らぬ若い女が泣いている。どうやら初平の恋人(シヅ子)らしい。多くの人は彼女の純情に泣いた。

 初平と彼女の結婚に晋は反対していた。初平の弟の俊治の言うことには、「晋は小学校の時シヅ子を階段から落としたことがあり、シズ子は今でも晋が怖い。晋は達磨みたいな顔で、シヅ子をジロジロつけ回すのもいやらしい。親戚の文子とおかしな顔で見つめ合っていて、シヅ子はハラハラした。」このようにシヅ子は言っている、と。

 

(コメント)

 伯父や叔父や叔母が多く出てきて、人間関係が分かりにくかった。もっとわかるように説明すべきだ。晋は初平とシヅ子の関係をうさんくさいものとして見ていたが、シヅ子の側から見ると、晋こそうさんくさい、という逆転がテーマであろうか? 晋はいい気なもので自分勝手な理屈を並べていたが、反対側から見ると晋こそおかしなやつだったのかもしれない。

 

4 『責任自殺』昭和10年、41歳の時の発表。

(あらすじ)(ネタバレ)

 堤泰助は58歳、非常に人望のある町長だ。だが、信用組合のY理事が金銭を使い込み、その関係で泰助も検事の取り調べを受けた。検事は新進気鋭の有能な若手。泰助は自分の潔白を神仏はわかっていてくれるが、法律ではわかってもらいないのかと感じた。辞職くらいでは足りず自裁すべきと決意、吐かん前で自裁した。彼の死を多くの人が悼み、小学生も彼を讃える作文を書いた。

 

(コメント)

 本作の狙いもよく分からない。泰助が死の決意に至るまでには、彼は日頃から立派な人間として通っていた、孫にも人さまのためになれ、と教えてきた、彼を若い検事が痛めつけた、彼は武術で鍛えていた、楠木正成戦死の詠史の書の幅を床の間に架けた、「乃木式」の小冊子を見る、「山鹿素行(やまがそこう)百話」の自害の作法を思い出す、西鶴の一家心中の物語を取り出して読む、遺言書も書いた、心は真暗闇で怖い顔をしていたが、何とか孫を抱いた、そして夜中に墓へ行って自裁した。

 この一連の動きの中に、明治・大正・昭和初期に称揚された、武士道のシンボルが連続して出てきていることに気がつく。本当の武士道とは何か? とは別に、明治・大正・昭和初期の帝国主義・軍国主義の中で偏って解釈され宣伝された、奇妙な武士道のようなもの。武術の鍛錬、楠木正成、乃木、山鹿素行(しかも自害のところ)、西鶴(『置土産』「作り七賢は竹の一よに乱れ」のよりによって一家心中のところ・・西鶴は本当は生きることを肯定する作家だ)などなど。これらのシンボルに誘導されて(日頃から思想を誘導された挙げ句)泰助は自死に至る。彼は立派だったと見るべきか? それとも? 滝井孝作は、どういうつもりでこれを書いたのか?

 ラストの小学生の作文「人のことまでに、自分の申わけをすますために、じさつなどをしなされたのは、何よりこわいことである。」にヒントがある。他人の不始末の責任を取って自裁したのは、立派である前に、「こわいこと」である。そこまでしなければならないのだろうか? 結局の所当時の、人命よりも名誉を重んじ、奇妙な武士道の名によって死を選ぶことをよしとする風潮によって、泰助は否応なく死へと連れて行かれてしまったのではなかろうか? 彼は心の中は真暗闇で顔は「三番叟(さんばそう)」の面のようにこわばっていた。嬉しいことではなかったが強烈な意志の力で恐怖をねじ伏せて、死んでいったのだ。人間をこのように追い詰めるとは、「こわいこと」だ。小学生の言葉はこのように取れてしまう。滝井孝作は、人望ある町長をこのように追い詰めてしまう当時の奇妙な武士道(帝国主義・軍国主義)の風潮を、批判的に見て、これを書いているのではないか?

 しかも、この作文を、小学校の先生は、「感心して」評価する。学校教育に至るまでが奇妙な方向にねじ曲がっている。この時代風潮への批判が滝井孝作にはある。私は、そんな風に感じた。どうですか?

 *責任を取って自裁する「立派な」人が既に(昭和10年の日本には)いない、道徳教育(「修身」)では立派に生きよと教えながら、当時(昭和10年)の政財界の指導者たちはすでに腐敗していた、そのことへの批判、社会風刺の書とも読めるが・・?

 

 以上三作、短篇ばかり。いずれも助詞が抜け読みにくい。悪文だと言いたい。皆様に強くお勧めする本ではない。