James Setouchi

 

R6.6.1 アイルランドの小説 ジェイムス・ジョイス『ダブリナーズ』 

James Joyce“Dubliners” 

(新潮文庫、柳瀬尚紀 訳)

 

1      作者 ジェームズ・ジョイス(1882~1941)

 アイルランドのダブリン郊外に生まれる。イエスズ会の名門校に学ぶが信仰が薄れる。医学校に入るが経済的理由で中退。学校の教師、銀行業、映画館経営などもしながら文筆業に。その過程でダブリンを離れ、パリ、ローマ、トリエステ、チューリッヒ、またパリなどに住んだ。第2次大戦下、チューリッヒで病没(59才)。第1次大戦、第2次大戦のドイツ侵攻も経験した。(集英社文庫『ユリシーズ』第1巻末年譜(結城英雄・編)ほかを参考にした。)

 

2 『ダブリナーズ』(同上『ユリシーズ』第1巻末年譜ほかを参考にした。)

  “Dubliners”は、『ダブリンの市民』『ダブリン人』『ダブリンの人びと』等の訳もあるが、新潮文庫の柳瀬訳は『ダブリナーズ』。この柳瀬訳は細かい注がなく、読みやすい。細かい注を併用して精読するにはちくま文庫の米本義孝訳がよいと言われる(未読)。ダブリンの街の人々の群像を描いた、全15話の連作短編集。『ユリシーズ』にも重複する人物が出てくる。本作から始めた方が『ユリシーズ』が少し読みやすくなるかも。ここに出てくる市民たちは、農林水産業ではない。水夫や軍人でもない。高級貴族や怪盗でもない。サラリーマンであり、アルバイターである。つまらない欲望や意地もある、職場で嫌な思いもする、気弱で自己主張ができない、酒飲み仲間がいる、ちょっとした信仰心もあれば芸術も愛好する、普通の都市生活者だ。都市生活者の私には近しい。本作は、第15話の『死せるものたち』以外で一度1905年にロンドンで出版しようとしたが失敗、1906年に第15話を書き始め、今の全15話の形で1914年にアメリカで出版。ここに掲載された短編の多くは1905年頃(ジョイス23歳)までに書いており、第15話のみ1906年(ジョイス24歳)以降に書いたということか。ジョイスは20歳以降ダブリンを出てパリやローマに出ており、そこでダブリンを思い出しながら書いたことになる。20世紀初頭のダブリンは、人口50万。大英帝国の圧倒的な力の前に、グレートブリテン及びアイルランド連合王国を形成していた。イギリス寄りの人々と、アイルランド(ケルト人)の独自性を守ろうとする人々とがいて、政治的にも文化的にも論争があった。但しここではそうではない話を少し紹介する。(ネタバレ有)

 

第14話『恩寵』

 カーナン氏は飲み屋で泥酔して頭にひどい怪我をした。友人たちが介抱し、彼をアルコール依存症から抜け出させるために、皆でイエズス会の静修会に参加しようということになった。イエズス会のパードン神父が世俗生活の人々にも及ぶ神の恩寵を語る。→実はここでジョイスは教会批判をしている、とする解釈がある。例えば金田法子「短篇集『ダブリンの市民』の中の「恩寵」に見るジェイムズ・ジョイスの教会批判」(岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第35号(2013.3))は、カトリックの正統教義の代表とも言える聖トマス・アクィナスの『神学大全』の記述と、ジョイスの記述とを比較し、様々な点でカーナンとその友人たちのカトリック理解が妥当でない等から、ジョイスは教会批判をしている、と結論づける。そうかもしれない。確かに登場人物たちのカトリック理解は素人の私から見ても何か違和感がある。教皇によって方針が変わったり、イエズス会が教皇に次ぐ第二の地位だと言ったりするのは、素人目にもおかしい。だが、彼らに正統教義への正しい理解がなくとも、彼らが友人を思い立ち直らせようと一肌脱いでいることは確かだ。ダブリンの人々は世俗的には苦しんでいるが友だち思いの善良さがあることをやめていない但しその善良さが、不正確な知識と愚かな慣習のため、真の解決に結びつきにくい。そのジレンマをも作者は見ている、ということではなかろうか。

 

第15話『死せるものたち』

 ゲイブリエル・コンロイ妻のグレッタとともにモーカン一家のパーティに来ている。モーカン一家は音楽一家だ。パーティは楽しく進み、散会となった。ゲイブリエルは美しい妻に若々しい欲情を抱く。だが、妻から、若い頃に愛しあっていた恋人がいたが17歳で死んでしまったとの告白を受ける。ゲイブリエルは混乱するが、寛大な愛の思いが生まれる。西の方にその17歳の少年は葬られている。自分もまた西へ向かう旅に出るときが来る。雪(ダブリンでは珍しい)が降る。「雪がかすかに音立てて宇宙の彼方から舞い降り、生けるものと死せるものの上にあまねく、・・かすかに音立てて振り落ちるのを聞きながら、彼の魂はゆっくりと感覚を失っていった。」このラストの叙述は素晴らしい。ぜひお読み頂きたい。ゲイブリエルは生きることを大事にしようとのスピーチをパーティーで行い、喝采を受けた。だが、妻の告白を聞き、死者の世界に思いを馳せる。全ての人は死ぬ。死者は彼方で生き、我々生者と共にある。生者もまた彼ら死者とともにある。そういう感覚であろうか。吉津成久「James Joiceの“The Dead”から聞こえてくる「暗闇にかそけく降りしきる雪の音―「ケルト的アイルランド性」に関する一考察」(『梅光言語文化研究』第6号(2015年)は、このに注目する。かつ、ジョイスとラフカディオ・ハーンの親近性に言及していて、面白い。「西の方」は、東洋では西方極楽浄土のあるところだが、英語でも“Go west”の語には死ぬという意味もあるとか。ジョイスの意図はいかに。

 

 例えば以上のような話が載っている。他の短編もそれぞれにいいのでお薦めします。『ユリシーズ』もそうだが、登場人物たちはそれぞれに名前と顔を持ち、超人・英雄ではなく、多少の長所と欠点と個性、愛や悲しみの記憶を持った都市の人々だ(例外は『ユリシーズ』の名前なき「市民」)。そう、彼らは確かにそこにいるダブリンの人々であり、わたしであり、わたしの隣人であり、あなたであるのだ。

 

 日々を生きて辛いとき、あなたにはダブリンの隣人がいることを想起できる。彼や彼女もどうにかして生きてきた。私やあなたも、どうにか生きていくことができる。