James Setouchi
2025.5.19
円地文子『なまみこ物語』
1 円地文子 明治38年(1905年)~昭和61年(1986年)
明治38年、東京市浅草区向柳原町に生まれる。本名富美。父は上田万年(東京帝大文科大学国語学教授、のち文科大学長)で、家はまず裕福だった。父は尾張徳川の家臣の系列で江戸っ子。周囲には馬琴などがあった。家は松浦伯爵家の借家。麹町、下谷などに転居。東京高等師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)の付属小学校、日本女子大付属高等女学校に学ぶ。オスカー・ワイルド、ポー、泉鏡花、荷風、谷崎などを読む、4年で退学。英語、漢文、フランス語を個人教授で学ぶ。新劇に関心。演劇雑誌『歌舞伎』の顕彰脚本に応募し入選。プロレタリア文学の影響を受けたことも。昭和5年(1930年)東京日日新聞記者の円地与四松と結婚。鎌倉、小石川句、中野区に住む。戯曲をいくつか発表。同人雑誌『日暦』同人となり高見順、矢田津世子、田宮虎彦らと知る。武田泰淳らの『人民文庫』に合流。小説を多く書くようになる。昭和14年『女の冬』。昭和16年昭和16年海軍文芸慰問団の一員として華南、海南島へ。昭和20年(1945年)空襲で家財・蔵書のすべてを失う。軽井沢の別荘で終戦。昭和21年から谷中の母の家に住む。子宮癌で入院。戦後療養しながら小説を書く。昭和24年『紫陽花』(『女坂』の一部)。その後小説、戯曲脚本などを多く手がける。作品『女の冬』『女坂』(野間文芸賞)、『女面』『なまみこ物語』(女流文学賞)、三部作『朱を奪うもの』『傷ある翼』『虹と修羅』(谷崎潤一郎賞)、『遊魂』(新潮の日本文学大賞)など。『源氏物語』の現代語訳は昭和42年夏頃~昭和47年。昭和61年没。(集英社日本文学全集巻末の吉田精一の年譜ほかを参照した。)
2 『なまみこ物語』 新潮文庫(昭和47年)で読んだ。
昭和34~36年季刊誌『声』に連載、中断を経て稿を加え昭和40(1965)年中央公論社から刊行。翌年女流作者60才。
(登場人物)(ややネタバレ)
チャンバレン博士:言語学者。上田万年の師。「王堂蔵書」を上田万年に譲る。
上田万年:学者。東京在住。語り手「私」の父。実在する上田万年は、作者・円地文子の実父で、国語学者、帝大教授。
私:語り手。「王堂蔵書」の中の一冊「生神子(なまみこ)物語 栄華物語拾遺」を少女時代に読み、成人した今その記憶を辿り自分の「なまみこ物語」を書き進める。
中宮(ちゅうぐう)定子:一条天皇と愛し合った妃。一条天皇より5才年上。中宮、のち皇后。藤原道長一派により追い詰められるが、その気高い心で天皇を愛し続ける。1男2女を生むが早世。
一条天皇:幼い頃から定子を慕い愛し続ける。
藤原道長:権力を握るために定子一派を追い落とし自分の娘・彰子に一条天皇の心を向けさせようと画策、そのために三輪のあやめ、くれは姉妹を利用する。陰謀家。右衛門守、定子の中宮大夫、のち姉の詮子の推挙で関白となり権力を握る。
三輪のとよ女:春日明神に仕える巫女(かんなぎ)。自分の娘を巫女にだけはしてくれるな、と言う。
三輪のあやめ:とよ女の娘。巫女の能力を発揮し招人(よりまし)として藤原道長に利用される。
三輪のくれは(小弁):あやめの妹。中宮定子に仕え慕うが、恋人の橘行国が定子に夢中になる姿を見て定子を憎み、藤原道長に利用され、悲劇的な死を遂げる。
橘行国:下級貴族。くれは(小弁)の恋人。武人。検非違使。藤原道長の命令に従うが、定子を間近に見て恋をする。火災から身重の定子を救う。後年東国へ。変遷を経て、藤原道長の陰謀と定子の気高さの証言者となる。
藤原兼家:藤原道隆(中の関白)、道兼、道長(入道)、詮子(女院)の父親。
藤原道隆:伊周、隆家、定子の父。中の関白。兼家のあと権力を握り、一族が栄える。
藤原貴子(高内侍):道隆の妻。伊周らが流罪になった時
高階成忠:高二位。二位の新発意。藤原貴子の父。道隆が権力を握ったとき一族が隆盛。道隆死後は道長らを呪詛(じゅそ)する。
高階明順、道順、信順:貴子の兄弟。道隆全盛期に隆盛。
藤原伊周:道隆の子。若くして出世するが、道長に追い落とされる。
藤原隆家:伊周の弟。(本作では)道長の陰謀を見抜ける数少ない人物。
藤原道兼:道隆の弟。道隆の死後関白となるが早世。
藤原詮子:道隆・道兼・道長の兄弟姉妹。円融天皇の后。東三条の女院(にょういん)。一条天皇の母。弟の道長をかわいがる。息子の一条天皇が定子に夢中であることに嫉妬する。
元子:堀川右大臣顕光の娘。道長の計略で一条天皇の女御(にょうご)となるが、天皇の定子への愛を深める結果に。
義子:大納言公季の娘。道長の計略で一条天皇の女御となるが、天皇の定子への愛を深める結果に。
藤原彰子:道長の娘。政略結婚で幼くして一条天皇に入内、女御となる。のち二人の天皇を生む。
中将の乳人:定子の乳母。
右近の内侍:帝の女房。
王命婦:帝の乳母。藤原道長派。
清少納言:定子のサロンを讃える『枕草子』を書く。
赤染衛門:藤原道長を讃える『栄華物語』を書く。
(コメント)(ネタバレ)
・チャンバレン博士の蔵書の紹介から始まり、スイスのレマン湖でのエピソードを記すので、世界的な視野がある。その中に「生神子物語」を位置づけている。
・「私」は少女時代に「生神子物語」を読んだ、それを思い出す、という設定だが、実は「生神子物語」は実在せず、円地文子の創作である。
・「生神子物語」は、藤原道長を絶賛する「栄華物語」に飽き足りず、それとは別の視点で書いてある。それは何か?
・藤原道長は陰謀家として描かれる。多くの人は彼の権力のための陰謀の網の目に絡め取られ、コマとして使い捨てられる。
・その中で、ただ一人道長に屈せず、汚い打算や欲望にまみれず、美しい精神を持ち得た人は、定子その人だった、と描く。橘行国は「あのお方だけは関白どのの政治の糸に縫いこまれぬ唯一人の強いお方であった」と言う。(新潮文庫178頁)行国が実在しているかは知らない。恐らく架空の人物。行国は間近に見た定子に恋をしてしまう。道長の陰謀を察知し火災の場で身重(みおも)の定子を助ける。結果として恋人のくれは(小弁)の怒りを買うことに。最後は道長がいやになり東国へ。
・三輪のあやめ、くれは姉妹も虚構だろう。道長の政治的陰謀に使われ、悲劇的な人生を生きる。姉妹の親は巫女の人生に悲劇がつきまとうことを経験上知っていて、巫女だけにはしてくれるな、と願ったが、道長は姉妹を招人(よりまし。生霊や死霊を乗り移らせその声を代弁する、霊能者)として利用する。
・あやめは長生きして東国に流れ着き、歴史の目撃者となり、橘行国と再会する。
・くれは(小弁)は最初定子のそば近く仕え定子を慕うが、自分が道長に利用されていたと知り怒る。が、恋人の橘行国が定子に心を奪われたのを察知し、定子を憎み、道長の陰謀に加担する。いよいよ定子の死が迫る。その時・・・? (完全ネタバレ)それまでは定子の生霊の演技をしていたのだが、最後の一回だけは演技ではなく本物の定子の生霊だった。しかも、定子の、心底天皇を思う無私の愛の表現だった。ここは感動的だ。くれはは、かつて自分が慕った定子に対し、道長の陰謀に加担してニセの生霊事件を起こし続けてきた自分自身に悩み、悲劇的な死を遂げる。
・本作は、あやめ・くれは姉妹という「なまみこ」(本物のよりましではなくニセモノのよりましという程の意味か?)が、政治権力の争いに巻き込まれ引き裂かれる、という物語を重要な要素として含む。
・同時に、道長の陰謀にもかかわらず、美しい心を持ち続けた定子を、天皇も愛し続けた、という物語が、重要である。
・結構面白かった。但し古文が訳なしで出てくる箇所が多く、古文の苦手な人には読みにくいだろう。読者として想定しているのはある程度古文の読める人。また平安中期の(『枕草子』『大鏡』などに出てくる)人名や系図に詳しい人なら読みやすいが、詳しくない人にはわからないだろう。それで上記の登場人物の表をつけた。
・『枕草子(まくらのそうし)』『栄華物語』『大鏡(おおかがみ)』『源氏物語』と同時代を扱う。本作では道長の汚さと定子の人格の美しさが際立つ。
・道長のような陰謀家の出現を防ぐためには、どうすればいいのだろうか? 『民主主義の源流』『古代ギリシアの民主政』(橋場弦=はしばゆずる)に見るような、独裁を防ぐ為の装置を持っておくのがいいかもしれない。あの国やその国を見ると、現代には独裁者がたくさんいる。いや、国内のいろんな場所にも。
・男女の嫉妬(しっと)の物語を絡めている。母や乳母の、嫁に対する対抗心も。
・田辺聖子『むかし、あけぼの』も面白かったが、本作の方が一見考証学ふうに書いてある。