James Setouchi
2025.5.23
丹羽文雄『一路』 人間が罪深い存在だとは? 宗教思想小説
1 丹羽文雄
1906(明治37)年三重県四日市市生まれ。父は浄土真宗高田派の僧侶。家庭の事情で母が家を出た。文雄は幼少時得度(とくど)した。県立富田中(現四日市高校)を経て大谷大学に行かず早稲田の第一高等学院から早稲田大学文学部国文科へ進む。尾崎一雄らを知る。卒業後一時僧職に就くが家出、上京、創作に専念した。昭和10年代には国策で漢口やソロモン海戦に従軍。昭和28年『蛇と鳩』で第1回野間文芸賞。昭和30~31年『菩提樹(ぼだいじゅ)』連載。昭和35年『水溜り』。昭和37~41年『一路』連載。昭和39年『汽笛』。昭和40~44年『親鸞(しんらん)』連載、昭和45年仏教伝道文化賞。昭和46~56年『蓮如(れんにょ)』連載。2005(平成17)年没。(集英社日本文学全集の年譜や解説などを参照した。)
2 『一路』1962(昭和37)~1966(昭和41)年連載。作者56~60歳。
丹羽文雄文学全集(講談社)第14巻(1976年発行)で読んだ。
書店で買えず、図書館で借りた。2段組全497頁の長編だが、一気に読んだ。私にとって非常に面白く、内容のある作品だった。特にラスト辺りはそれまでの伏線が一挙につながり、圧倒的な迫力で読ませる。
丹阿弥市が舞台。架空の町だが、丹羽文雄の生まれた四日市を連想させる立地だ。檀家三百の寺があり小さな町があり町はそのまま農家と田畑に続く。
物語の前半は浄土真宗の教えの入門書にもなっている。お寺の嫁としてきた加那子が本を読み夫の住職に質問しまた疑義を申し述べる会話形式なので、一方的な説明に終わらず読みやすい。前半の人間関係で紡(つむ)ぎ出した伏線(因縁、業(ごう)と言うべきか? 「宿業(しゅくごう)」という言葉はラスト近くで初めて出てくる)が後半で結び合わされ大破局に至る。(それはまたひとつの始まりでもあるはずだ。)丹羽文雄は小説の構成がうまい。いや、うまくて面白い小説だというだけではない。親鸞および浄土真宗の教えに触れながら、人間存在とは何か、罪業とは何か、救いはどこから来るか、を問うた思想小説(宗教思想小説)であって、私には大変面白かったとは、上記の前半、後半、全て面白かった、という意味だ。(抹香臭いのが全ていやだという方には無理かも知れない。)
作者・丹羽文雄は浄土真宗高田派の寺の家に生まれたが僧にならなかった。その丹羽文雄が、自分なりに浄土真宗高田派の教えと格闘した作品だ、としばしば言われる。
(登場人物)(なるべくネタバレしないように)
伏木加那子:主人公。割烹(かっぽう)旅館「煙波楼」の女中頭だったが、乞われて称名寺の院主・伏木好道と結婚し、坊守となる。ものごとを巧みに処理し、檀家(だんか)の信望を集める。和服の似合う妖艶な女性。父親は旧制中学の校長。寺の外から来た者として、浄土真宗の教えについて夫に質問したり書を読んだりしながら学んでいくが・・・
煙波楼のおかみ:加那子のおば。加那子を見込み称名寺の伏木好道のもとに嫁にやる。
暁子:煙波楼の女中の一人。義弟と不倫し不義の子を産んで悩み、加那子に相談する。
加藤均:もと大臣。煙波楼に勤める加那子と無理矢理に関係する。
さる貴人:やはり煙波楼時代に加那子と無理矢理に関係する。冒頭で出てくる。この段階で、この世の貴人なるものの正体が既に暴露されているとも言える。
伏木好道:東海道に近い丹阿弥の町(架空の町?)にある浄土真宗高田派の末寺、称名寺の院主。穏やかな人柄だが本山で出世したいとの野心を持つ。
常念:称名寺の院代。先代住職の従兄弟で高齢。信心篤く、絶えず口に念仏を唱え寺の仕事をしている。
おとき:寺の台所を預かる女性。
おしの:称名寺の檀家の女人講(婦人会)の有力者。
喜代:加那子の母親。称名寺に同居することに。夫は旧制中学の校長だった。
妙子:加那子の姉。大人しい。母の世話をしてきた。称名寺に同居したが福井の寺に嫁す。
鸞堂(らんどう):浄土真宗高田派の説教師。証善寺の僧。非常に人気がある。女性に手が早い。
お清:米屋の泉屋の未亡人。鸞堂と道ならぬ関係にある。その秘密の逢い引きは称名寺で行われる。
梅村悠良:浄土真宗高田派の僧。伊賀の東誓寺の出身。常忍が没し、代わりに院代としてやってきた。加那子より5才若い。やがて・・
おきぬ:おときの代わりに来た称名寺の台所係の女性。
春然:通仙院の尼で、托鉢(たくはつ)をする。男と道ならぬ関係になり妊娠、加那子に相談に来るが・・
伏木得之:好道と加那子の長男。大人しく勉強好き。京都の仏教大学に進み、僧侶となって称名寺に帰る。
伏木聡:好道と加那子の次男。乱暴で我が道を行くタイプ。東京の大学を出て貿易会社に勤める。やがて・・
伏木哲也:好道と加那子の三男。
塩谷慎一:伏木聡の幼なじみ、親友。
塩谷琴:慎一の姉。結婚していたが夫が実家に戻った。聡より8才年上。聡と・・
立花村の信納庵の庵主:夫が一代で説教所を築き、自分は僧の資格もやっと得たが、息子が新興宗教に刺激を受けて説教所のものを破壊した、これでは生活できない、と加那子のところに相談に来た。
稲子:伏木得之の妻。大迎寺の出身で、称名寺の伏木得之に嫁入りしてくる。
千家のぶ子:称名寺の檀家代表の資産家、千家の娘。美しく、人柄の良いお嬢さん。学習院に学ぶが・・
千家の夫妻:称名寺の檀家筆頭。資産家。
沼田尚子:のぶ子の大学の寄宿舎の同室者。恋人があり、中絶経験がある。
(主なあらすじ)(ほぼネタバレ)
加那子は割烹料理店の女中頭だったが寺の住職(院主)の伏木好道から乞われてその妻となる。同時に寺の坊守となる。浄土真宗の教えについて自分なりに探究し知ろうとするがどこまで分かっているか自分でもあやしい。その過程で様々な男女の愛欲を見聞する。加那子もまた、夫が北海道に赴任(ふにん)している間に院代の悠良と男女の関係になり、妊娠してしまう。女児を出産するが世間には死産したことにし、檀家の千家に引き取って育てて貰う。夫との間には他に三人の男子が生まれ、育ったが、加那子は悠良との秘密の関係を続ける。次男の聡は東京でのぶ子という美しい女学生と恋に落ち、のぶ子は妊娠するが、実はのぶ子は加那子と悠良との不倫の子で、聡とのぶ子は実の兄妹だった。加那子は二人の仲を裂きのぶ子を中絶させ辛うじて世間体を繕(つくろ)うが・・・
(コメント)(完全ネタバレ)(長くなった。もっと整理した方がいい。)
男女の愛欲・不倫が複数描かれる。丹羽文雄は他の作品でも男女の愛欲・不倫を描いている。そこだけみると愛欲・不倫小説であり、どろどろしたメロドラマシリーズと言ってもよい。だが、そこに、罪の自覚、他力の救いという宗教的テーマを絡める。人間はいかに生きるべきか、あるいは、人間はいかにうまく生きえない存在であるか(人間はいかなる存在であるのか)、を問うた作品であるとも言える。物語全体の中で加那子の賢(さか)しらな知恵は完全に打ち砕かれ、加那子は無力な存在として倒れ伏して呻(うめ)き続ける。それは残酷なほどだ。
本作中に出てくるいくつかの男女の例を見ておくと、
加那子が女中頭時代に相談を受けた暁子の場合(暁子が年上のようだ)は、暁子は義弟の子を産んで悩んでいた。加那子は暁子が婚家に戻るのもよいと考えた。夫のこと言い張ればよいと。だが、そこで義弟が再び関係を迫り暁子が不義の子をさらに産むかもしれないとは予想していなかった。(その恐れに脅えていたのは暁子だった。)加那子は甘かったのだ。
鸞堂とお清の場合(お清が年上のようだ)は、非常に哀れで愚かしいことに見えつつ、お清にとって好きな人と過ごせるならいいではないかと加那子は考えた。加那子は男女の愛欲に肯定的だ。(親鸞の妻帯とどう同じでどう違うのだろうか。読者は考える。親鸞には罪の自覚がある。加那子はこの段階では深い罪の自覚は無く、世間体をつくろえばいいくらいに考えている。)
春然尼の場合は、尼でありながら妊娠した春然尼に対し、加那子は医師を紹介し中絶させ、「うまくいった」つもりで、「利口に」生きることを助言したが、春然尼はさらに男の子を妊娠し、ついに鉄道で自死を遂(と)げる。加那子は自分の予想が甘かったことに震え脅(おび)える。
加那子自身と梅村悠良の場合(加那子が5才上)は、一度は妊娠し恐怖するが、生まれた娘を千家にひきとってもらったことで、「うまくいった」と慢心(まんしん)し、悠良とさらに関係を続ける。
伏木聡と塩谷琴の場合(琴が8才上)は、聡は若い欲望で突き進むが、琴が妊娠しないことで悲劇的な事態には発展しない。母の加那子は二人の関係を知らない。聡と琴の逢い引きと、加那子と悠良の逢い引きとが、パラレルに描かれている。しかも舞台は寺だ。これは愚かしくも滑稽な事態だが、当人たちは気付かない。(聡が東京で恋人が出来ると琴は捨てられる。琴は苦悩し再婚するだろうか。そこの苦悩は書いていない。私は、聡と琴が結婚するのが筋ではないかと思ったが? 戦後しばらくまで、田舎の男女関係はピューリタン的ではなかったと聞いたことがある。その文脈で解釈した方がいいのだろうか。)
これらの伏線はすべて最後の悲劇を招き寄せる原因となる。
加那子の息子・聡と、千家のぶ子との場合(これは聡が5才年上)は、二人が実は実の兄妹であるのにお互い知らず、聡がのぶ子を妊娠させてしまう。加那子は彼と彼女のため、また称名寺と千家のためと思い込んで(その実自分のためだった、と語り手は加那子を批判する、)自分がリードしてのぶ子を中絶させる。「なんとかうまくいった」と加那子は一安心するが、急転直下、のぶ子の自死で全てが崩壊する。寺の阿弥陀如来の前で倒れ伏して呻き続ける加那子。
加那子は今まで、自分は何事もうまく処理できたと思ってきたが、それが全て間違いだった、表面の糊塗(こと)でしかなかった、自分は全く無力だったと知る。前半では「浄土真宗の理屈を勉強しているが本当に分かってはいない」などと言っていたが、今こそ彼女は完全に無力で、突っ伏して呻きながら泣くしかない存在だ。そこに夫の好道が立ち会う。「この女を救うことが出来なければ、好道は僧であることは許されなかった。」好道は生涯の仏教信仰をかけて妻に関わろうとしている。夜明けが近づき、小鳥が鳴く。ここで本文は終わる。罪の何たるかを全身全霊で思い知って苦しむ加那子。彼女は決定的な絶望に陥(おちい)っている。だが、これから救いがくる予感で物語は終わる。加那子は懺悔(ざんげ)と念仏の入口に立っている。このあとの加那子の生き方を読みたいが、本作はここで終わっている。
(男女において女性が年上のケースが多いが、丹羽文雄はどうしてそうしたのだろうか。これは問いだけにとどめる。)
各人について見てみよう。
伏木好道は本山で出世したいと考えており、出世欲があるのだが、この点を掘り下げて問題化はあまりしない。妻の加那子にとっては好道はいい夫だと思う。妻の不倫に対しても忍耐強く許す。いつも穏やかで、浄土真宗の教えを妻に教えるときも、高飛車でない。(私は、よい人物に見える好道が実は影で決定的な悪事(不倫など)を行っているのではないかとハラハラしながら読み進めたが、そうではなかった。)ただし、出世するために北海道に赴任(ふにん)した3年間が、妻の過ちを呼んだとも言える。
欲があまりないのは院代の常念だ。いつも口に念仏を唱えて暮らしている。妙好人(学識などないが、弥陀の救済を喜んで生活している信心深い人びと)も書物から紹介される。が、妙好人は法悦に耽溺(たんでき)するあまり定職も無く社会的責任を果たしていない、と加那子は考えた。(だが、どうかな? 「社会的責任」とはそもそも何か? それは果たすべきものなのか? 親鸞聖人は果たした「社会的責任」とは? 国家や市場で何らかの「成果」「業績」を挙げることとは違うはずだ。私はそう疑問を持った。)
鸞堂と悠良は似たタイプだ。脂ぎっており、信心を説きつつ、隠れて女性と関係を持つ。善男善女が法会で集まってくる傍らで僧侶が不倫を行っている。スタンダールの『パルムの僧院』でも教会で出世したファブリツィオ・デル・ドンゴは隠れて恋人と会う。もっと、浄土真宗の教えは、教祖・親鸞その人がすでに妻帯してはいるが。親鸞は妻帯したが女性に次々と手を出したわけではない。鸞堂は各地で女性との噂が絶えない。悠良は昔二十二才年上の檀家の女性との関係があった。その後加那子以外とも不倫したとは書いてはいない。真の懺悔が誰にあるか? と言えば、親鸞にはあるがファブリツィオにも鸞堂にも悠良にもないと言うべきか。
伏木聡は、幼なじみで年上の塩谷琴と関係を持つ。作者の筆は、琴を被害者とは書いていない。琴が巧みに誘導したと書いている。だが、聡はそこで学んだことを、あとで純粋無垢(むく)な千家のぶ子に対して実行しようとする。彼こそ小賢(こざか)しい知恵(自分の性欲を満たすための知恵)の持ち主であり、これに僧の衣をつければ鸞堂や悠良になる。これは私見では実にけしからぬことであって、のぶ子を死なせたのは、聡でもある。聡はその罪におののくべきだが、本作では、それは(予想できなくもないが、)書いていない。聡は母親を恨むであろうが、自分の罪をも問いうるだろうか?
男女の愛欲以外の観点はどうか。
人間の煩悩は、男女の愛欲だけではない。食欲、物欲、金銭欲、名誉欲、支配欲、相手と争って勝ちたい欲、他を圧倒して見下したい欲などなど、人間は様々な煩悩に満ちている。その中でこの物語は男女の愛欲を特に取り上げて描く。これはどうかと思った。が、親鸞は男女の愛欲を肯定したという親鸞像が明治近代以降流行したことを受けているのだろう。(暁烏敏などを参照。)それは、明治近代以降、若い男性の目の前に若い女学生の姿がちらつくことから生じた、男性の欲望の投影でしかなかったのかもしれないのだが。
戦争の時代でもあり、空襲があり、檀家や僧も(悠良も)徴兵され戦争に行く。国家(戦争)と宗教・信仰の問題も出てくる。①国家については、親鸞思想も国家から狙われた。親鸞は本来国家や国境から自由な存在だ。仏教は本来そうだ。②殺人については、悠良は徴兵(ちょうへい)されるが外地に行く前に終戦。戦場で殺し殺されるという恐ろしい場所での罪と救済の問題は、本作では深くは追究されていない。法然の弟子には熊谷次郎直実など平家の武士もあり、戦場での殺人と罪と救済の問題が常に問われているのだが。
母と娘の関係も出てくる。加那子の母・喜代とその娘である妙子や加那子の関係は深くは語られない。加那子とのぶ子の関係は、20年間他人として暮らしたが、最後の最後に実の母として娘を見つめ指図し、娘を死に追いやってしまう。加那子は打ちのめされる。
寺の世俗的な一面も描かれる。
①本山と末寺の関係。末寺は本山に一種の上納金を納める。末寺にも序列がある。上納金の多い寺の住職は上席に座る。結局俗世と大差ない。
②寺の経営が苦しい。時代社会の変化により、寺を支えてきた農村人口が減少、戦後の家制度の崩壊で若者が家を継承せずしたがって檀家を継承しない、新興宗教が伸びてきた。仕方がないから寺は駐車場や幼稚園や宿坊を経営し観光名所化を図り現金収入をめざす。檀家の数が減るとまずいので、説教所を新しく寺に昇格するなどはなかなか認めない。・・(JS)この辺は宗教社会学だ。今や『月刊住職』で駐車場経営と納税の記事が載ったりする。
③寺の後継者不足の問題もある。仕方がないから各宗派は僧の妻帯を認め後継者の世襲を可能にする方向に舵を切った。・・・(JS)寺があった方がありがたいという立場からは、お坊さんや奥様の努力は大変ありがたい。
④寺の今後のあり方も模索される。念仏三昧でいくべきか、新時代にふさわしく改革すべきか。若手をどう育成するか、寺に若者が集まるようにするにはどうするか。などなど。他方、親鸞に帰れ、と叫んだ急進改革派の若手が追放されたとも書いてある。
(JS)キリスト教の教会も同様だろう。宗派内の実情を随分描きこんでいるが、丹羽さんは宗門から叱(しか)られなかったのかしら。
そもそも「葬式仏教」などと呼ばれて形骸化したものになったのはなぜか、も問われる。織田信長が比叡山など大きな寺を複数焼いた。江戸幕府は巧みな懐柔策で寺を幕府の統治機構に組み込んだ。寺は行政の末端機構となり特権階級となり、本来の救済能力を失った。明治の神仏分離・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)についてはもっと触れてほしかった。
既成仏教と新興宗教の関係も描かれる。戦後は新興宗教が伸びてきた、新興宗教に信者を奪われる、何とかしたい、という問題意識が語られる。
巨大な寺院建築や教団・教派と、真の信仰心との関係も、語られる。本当の信仰とは無関係だとわかっているが、他方方便(ほうべん)(手段)として壮麗(そうれい)な寺院や教団・教派も有効だ。
同じ親鸞の教えから、どうして多くの教団・教派が分かれたのか。加那子は素朴な質問を投げかける。これについて本作では歴史的な説明はあるが、深い宗教哲学の説明は特にない。恐らく、信心はひとつだが、ただ人間の事情で分派しているだけなのだろう。好道もそう説明する。同感だ。法然(ほうねん)と親鸞も同じひとつの信心だ。親鸞自身がそう言っている。(参考までに、キリスト教も沢山の分派がある。そもそも福音書も相互に矛盾している箇所がある。福音書記者は学問もないおろかな人びとだが、イエスに接し、(神の霊感を受け、)自分たちなりに受け取ったものを懸命に書いているだけだ。矛盾があるのは当然だ。)(『論語』も、孔子は矛盾したことを言っているように見える場所がある。弟子によって最適の教えを垂れたからだという説明が為されて、そうだろうが、もうひとつ、伝承者・筆記者のレベルが孔子に追いつかなかった、ということもありうるだろう。)
善鸞(ぜんらん)(親鸞の子。義絶された)についてもわずかに触れられる。(384頁)ただし本作では深くは言及されない。本作の善鸞解釈の当否は私は知らない。
本当の信仰(信心)は、どういうものか。弥陀の名号は向こうから来る。如来から来る。法から来る。人間が自分で努力して勝ち得て誇るものではない。加那子の出会う人や書物の中の妙好人たちはそう言っている。加那子には勉強しても実感がついてこなかった。だが、一連の事件を経て、自己の世間体を繕う賢(さか)しら、利己的な努力の正体が全て暴かれ、加那子は無力感に震え、呻く。
実の娘・最も純真で汚れのないのぶ子の死が、加那子を打ちのめす。元はと言えば加那子の二十年前の不倫から生じたことだ。加那子は混乱のあまり、のぶ子の自死を自分への復讐であるかと恨みさえする。だが、それはあやまりだ。のぶ子は絶望して自死したのであり、加那子への復讐のために死んだのではない。加那子は絶望の呻きの中で、やがて真実に目覚めるであろう。ここに決定的な罪の自覚があり、他力にすがる信心のきっかけがあるはずだ。夫の好道はこの妻を救おうとする。だが、人間が人間を救うことが出来るのか? そんなことは好道はわかっている。救いは向こう(如来、法)から来るのだ。だが、人間がそこに立ち会うことは出来る。外は明るくなり、朝の鳥の声が聞こえる。再生の夜明けの予感がする。加那子の再生・夜明けの前夜を描いた物語だと私は思う。
他にいくつか補足。
*のぶ子は、加那子に何事かを教えようとしてやってきた、如来使だった、と信仰の立場からは言えるかもしれない。続編を書けばそうなるかもしれない。
*称名寺ももう一人の主人公と言っていいほど存在感がある。がらんと広く静かで人の気配がない。寺の廊下に深夜、足音が聞こえる。幽霊の足音のようでもある。誰かが秘密の逢い引きに忍んでくる音のようでもある。もしかしたらはるか昔からこうして誰かがここに忍んで秘密の逢い引きをしてきたのではないかと思わせる。裏の墓の描写もリアリティがある。その墓を乗り越えて塩谷琴が伏木聡に逢い引きに来る。がらんと広く静かな仏教寺院、しかして深夜の男女の愛欲の現場とは。
*浄土真宗高田派は、親鸞の高弟・真仏とその系統の顕智の流れ。但し蓮如が本願寺を大きくしたのに対し、蓮如と同時代に高田派には真慧(しんね)という偉い人がいて本山を関東から伊勢に移し強化を強め、蓮如のグループになびかなかった。(本文63~64頁の好道の解説。)
*道元(禅宗)については触れてある。
*「往相」と「還相(げんそう)」、また「悪人正機(しょうき)」については触れている。「発菩提心(ほつぼだいしん)」と「自然法爾(じねんほうに)」については触れていなかったように思う。私が見落としているのかもしれないが。
*近親相姦(そうかん)と近親婚とは違う。
近親相姦は罪か? というと、古来忌(い)まわしいタブーとされているが、日本にはこれを罰する法律はないそうだ。(前近代においてはあった。「国つ罪」など。木梨軽太子と同母妹の軽大娘皇女との近親相姦譚(たん)は有名。)但しDVや強制わいせつ、不同意性交、児童虐待などなどについては明確に法律があり、罰則もある。近親相姦罪が法律に明文化されている国もある。
近親婚については、今の日本の法律では、兄妹はもちろん結婚できない。叔母と甥(おい)、伯父と姪(めい)なども結婚できない。いとこ同士は結婚できる。『源氏物語』では叔母と甥などは当たり前に結婚している。
本作では、聡とのぶ子は兄妹だと知らずに関係を持ち、結婚しようとする。それは法律では不可能だ。二人の子は中絶されてしまったが、本当は出産して里子(さとご)に出してもよかったのではないか? カトリックやアメリカ福音(ふくいん)派の保守派では中絶は禁止だ。どう考えるか。中絶禁止を道徳的に叫んで人を責めるだけでなく、生まれてきた子(神様から授かった子)を大事に育てる世の中の仕組みを作っておくべきでは? アメリカには熱心なクリスチャンがいてどんどん養子を貰(もら)う文化がある。日本はそれは乏しい(養子制度はお家の継承の為にしか使わない)。よって日本では行政的にやるしかない、ということか。
*丹羽文雄は『一路』よりも前に『菩提樹』という作品がある。昭和30~31年の作で、父親をモデルとする。また『一路』に続き『親鸞』『蓮如』という作品がある。
*山本有三の『真実一路』とは別の作品。
*三浦綾子『氷点』も人間の罪を見つめた小説だと言われる。こちらはキリスト教。どう同じでどう違うか。
*夏目漱石『こころ』にも「人間の罪」という言葉が出てくるが、どうか。やや違うような気がするが。
*私はイノセント(無罪、潔白、無垢(むく))だ、と言い切る方が楽だが、本当にイノセントと言い切れるだろうか? 自己反省能力が欠落している人は結構迷惑な存在ではある。他方、自己反省能力ばかり高くて我が身を切り刻む人もある。結構つらい。とりあえずお笑いでも見た方が楽になるかも。五井(ごい)昌久は『責めてはいけません』という本を書いている。道徳心が強くて我が身を責めるタイプには反省を強要しない方がいい。樺沢紫苑(しおん)のサイトをお勧めします。