★既述ブログ・各テーマ 一括・21「阿呆の戯言」(下) | 獏井獏山のブログ

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 「自己批判の効用」      
・俺はしょっちゅう自己批判をする。何かをやらかすごとに「アホか!お前は」と自分に向って云う。時には誰も居ない部屋で大きな声を出して言う。何でこんな屁の突っ張りにもならない事を考えたり、動くと物に突き当たるような失敗ばかりするのだろう、と腐る。

・しかし自己批判が齎すプラスも少なからずある。…次の失敗を食い止める力にもなり後で考えると、より大きな失敗を防止できたことに気付く事が少なくない。

・また変な言い方だが、失敗する自分自身の行為を「他山の石」的に活用できる面もある。物を見る目や考え方が一段上がるというか、他人の行為の良否を見分ける力がホンの少しだが付くのも確かだ。

 

「事故に備える覚悟」       
・40年超の原発を再稼働始めたが、電力会社のトップは覚悟して掛かって欲しい。万一、事故を起こした時の姿勢として、決して他社幹部の例をモデルに描いて真似することを頭に置いてもらっては困るのだ。もっと厳しい覚悟を持つ必要がある。

・事故処理の表舞台から雲隠れし、税金で事故の尻拭いをする国に責任を投げ出すような人道に悖る格好だけはしてはならないぞ、という覚悟だ。

・もし万一、事故を起こしたら、私財一切を投げ出して被災者と同じ仮設住宅に入り自ら率先して事故処理に当る、という覚悟だ。それが人間としてなすべき事であろう。

・一定期限の過ぎた古い原発はトラブル発生率が高いのではないかと思われる。それを再稼働するからにはそれ相応の覚悟は持ってほしい。

 

「自己責任・事故の責任」   
冬は雪山の事故で犠牲になる人が毎年出る。天候の悪戯の所為で事故に

遭い誠に気の毒だ。気の毒ではあるが自らの趣味として危険と隣り合わせにあることを承知の上で為した遊びであれば万全の捜索援助の結果については受け入れざるを得ないだろう。

 これに対し、危険と隣り合わせの事をして、その結果ひき起こした事故による犠牲を負うのは関係の無い人々で、事故った張本人は安全というのは許せない。そんな事を平気でやっている輩が居る。1例を挙げようとして直ぐに脳裏に浮かぶのは電力会社の幹部だ。福島原発事故の処理が終わらないばかりか寧ろ広がりつつある(表立ったもの以外に、目に見えない且つ自然消滅するまでに3万年も掛ると云われる放射能が全国に広がりつつあって雨で土地に沈着し堆積している不安がある。空中の放射能の増加状況を微量であっても常時監視して欲しい…全国的に)。隠し切れなくなった高濃度汚染水の漏出や処理しきれない汚水タンクの山を作って解決の見通しも立たない中で、再稼働を始めたり、原発稼働を開始した後になってから再稼働許可の条件だった免震棟の建設を止めたり、と一般の人々の安全の事を全く考えていない正体を丸出しにして平然と「再稼働しなければ我々独自の判断で決められる電気料金を上げるぞ。」と云わぬばかりの面をしている。これが幾つもある許せない例の中のNO1である。

 

「不必要な『を』の濫用」   
・2~3日前のテレビで気象予報士が「〇〇地域では低気圧が発達しています。」と云ったのを聞いて俺はウンザリした。「を」の使い方が文法的には正確ではない。上記の場合、正しくは「…低気圧が発達しています。」だろう。「を」を付ける必要はない。

・しかし、よく考えると予報士だけを責めることは出来ないようだ。偉そうに身を反らせている政府高官もチョクチョクそんな使い方をしているのを思い出した。例えば「エネルギーサイクルの一環として原発再稼働を推進したい云々…」とか「…次の選挙でも勝って一強体制を維持したい…」など。この他でも不要な「付き言葉」を吐くのを何度も聞いた。

・「発達」や「推進」や「維持」などは「状況を表す言葉」である。「○○が」とか「○○を」とか「○○に」等の表現の次にくる「状況を表す言葉」の後に「」を付ける必要はない。例示すると「低気圧が発達している」「再稼働を推進する」「体制を維持する」「期間を延長する」「授業を短縮する」「台風が通過する」「元気を回復する」等々も同じだ。まだまだ挙げれば幾らでもある。

・この「付言葉」を流行らせるきっかけになったのは大分前の首相、竹下昇さんだったように記憶する。同氏が何度も使った当時、俺は「余計な「」を付けるなぁ」と思い、耳障りな話し方が気に食わなかったが、同氏が政界を去ってのち暫くは「付言葉」が聞こえなくなったので、これは彼独特の言い回しに過ぎなかったと理解し、まさか真似する者が出てくるとは思わなかった。年を経てのち真似し始めたのは誰だったかはよく分からないが、いつの間にか複数の政府高官が使う場面に遭遇して唖然とした。何せ当時の首相と云えば今と違って「品格を備えた偉い人」というイメージがあったから今になって真似をする者が増えたのではないかと思う。何か、このような「」の使い方をすれば少しは人の目に偉いと映ずる、品位が上がったように見える、と錯覚しているのではないか。…兎に角、テレビで記者会見、定例記者発表をする政府高官が頻繁に使うのを最近よく見かける。矢張り耳障りだ。

・では、「」を付けるべき言葉にはどんなものがあるかというと、例えば人が起こす「行動を表す」場合だ。幾らでもあるが,卑近な用例をあげると「○○と対局をする」「公衆の前で演説をする」「皆と一緒に体操をする」「奴と喧嘩をした」「誰彼と握手をした」などがある。(敢えて付け加えると、このような「を」を付けて然るべき場合でも「を」を付けない云い方が近頃よく見られる。「…喧嘩した」「握手した」のように。厳密にはこれは間違い。ただ、話し言葉としてはあり得るかも…)

 (上記は以前に書いた文章であるが、令和5年現在、多くのアナウンサー等が日常茶飯事に平気で不要な「を」付き事場を使っている状況である。)

 

「眉唾モノの超能力」   

・テレビで見た超々々能力の話は「やらせ」ではないかと推測する。

しかし、あんなに真顔で熱心に話す姿を見た以上は単にボンヤリした頭での推測でハイ終わり、にする訳にはいかない気がしてきた。もう少し突っ込んだ分析が必要だという思いが脳裏を掠めた。

・まず、亡くなった先祖との会話だが、五感を持って生きていた当時の人間の脱け殻と話せることなどはあり得ない。何故なら、人が死んだ瞬間に五感を持つ肉体は朽ちるか焼却されて影も形も無くなるのだ。無に帰したものと話が出来る訳がない。しかし、あくまで仮の話だが、「先祖と仮定した或るもの」と交信する道はあり得るのだ。「或るもの」とは天に昇った「魂」である。人は寿命を終えるとその人の肉体の中(膏肓)に潜んでいた「魂」は屍となった肉体を抜け出して天に還る。永劫不滅の魂は何時でも宇宙の一角に浮遊している。その魂と交信する事は不可能ではない。それは現に生きている人間も膏肓の中心に肉体と融合した「魂」を持っているからだ。だが肝心なのはその先である。天に還った先祖の「魂」と交信できるのは、超能力者の膏肓に潜む「魂」との間に限られるということだ。如何に超々々能力者と雖も、‟魂が有する億兆分の1”の能力しか持たない“人間の五感”を以て対応する事は不可能である。唯一、交信可能な手段があるとすれば「先祖の魂と地上の魂」即ち「魂対魂」の直接交信だけだ。

 もし万一、その超々能力者が自己の「膏肓に潜む魂」を、肉体が本来的に保持し認識・活動の根源として働かせている「五感」の力を以て「意識の表面」に引き出すことが出来れば、その魂が先祖の魂と交信した内容を把握することが初めて可能となるのだ。

・口でそうは言っても、五感が膏肓に潜む自己の魂と繋がるのは至難の業と云わなければならない。少なくとも長時間に及ぶ瞑想によって無の境地に達するか、熟睡時に夢枕という形で天啓を受けるしかないだろう。

・人を見た瞬間にその人の先祖と話しが出来るなんて想像もし得ないことである。真に、その超々々能力者が天の魂と会話できるとしたら、超々々能力者「自体が魂そのモノ」ということになる。それこそ「億兆分の1の奇跡」という外ない。つまり、あり得ないということ。

 

「有害極小生物にとっての黎明期」  2017-08-16

・今や世界は混乱し不穏な動きが膨れつつあるが、他にも不気味な変化が起こりつつあるような気がする。「不安に包まれた巨大な幻(人と人の殺し合い)」と「極小生物による危機」とでもいおうか。…

・前者はさて措き後者について、今までの常識では、熊、イノシシ、猿、アライグマ、毒蛇、小さいもので百足、雀蜂、などが身近な危険性生物の中心だった。これらに対しては対処法が普及しているお蔭で自己保身も可能になってきている。数年前に日本に上陸したとみられるセアカゴケグモも生息箇所の特定や徹底的な駆除によって影を顰めているようだ。

・しかし最近ではヒアリやマダニによる生命の危険性が広がっていてテレビなどで注意を促している。①ヒアリに関しては、桁外れの繁殖力のある女王アリには羽があり飛翔能力も強いため、一旦、日本の各地に広がると手の打ちようがないようだ。特に個人的には見付けにくく襲われた時は凄く痛いというだけで被害判定能力や対処法には限界がある。②マダニは人家には生息しないというから注意して野外の草叢などに近付かなければ被害を避けることは出来そうだが、家畜や飼い主の衣服に接触することで噛まれる可能性はあり得るだろうし、噛まれると約1週間の潜伏期間の後に発症するのも厄介だ。…しかし、ここまでの範囲に止まれば過去の危険生物のように一定期間のうちに対処法が開発される期待はある。

・しかし、危惧されるのはここに至るまでの経緯だ。対象となる危険生物が年々小型している傾向が気になる。これらが年々、人間の手に負えないほど小型化を進めると共に増殖力を増して何千何万年後には地球を席巻するのではないか、加えて新たな極小猛毒害虫が現れるかもしれない。その結果、人類は極小生物に駆逐され滅ぼされるような気がしてならない。そして恐ろしいのは、そこに至る過程において人類は己同士が殺し合いをする戦争に匹敵する…或いはそれ以上の苦しみを背負って生きていく結果を招くことだ。

そうして今将に「極小生物の黎明期」が到来しつつあり、「人類滅亡・衰退への下り坂」を迎えつつある様相を背筋に感じているところである。

(願わくば、況してやその前に、愚かな人類の末裔が己らが開発した殺人化学物質によって自ら人類を地球から一掃するようなことのないように……)

 

「推測の重要性」  

・大事な会議(国会、府県議会、市議会、株式総会、内部定例会など)を茶化したり、国民の知りたい事を隠したり、唯一の被爆国なのに核兵器禁止条例に加入しなかったり、又か又かという程外遊して血税をばら撒いたたり、数えきれない程の国民損を招来しながら、口先で「国民の平和・安全・安心のために」などと言動不一致の事を云って人心を弄ぶ連中(頭目と若頭的子分)の云うことを直ちには信じないで、「本当か?」「鬼か蛇か?」「何故隠す?」…また、北朝鮮の核に対しても「自分ら(家族を含め)だけ既に核シェルターを確保しているのではないか?」「そんな私的な事に血税を使っているのではないか?」…等々その他、推測して、そんなことはないという説明が為されているか、何らかの形で納得できる証しがあるか、…等々の「推測と確認」を自分の頭の中で繰り返す習慣をつけることが大事である。

・「推測する事」は、心に引っ掛かる何かを見詰めるキッカケとなる。「推測」は今まで余り働かなかった頭を働かせるキッカケとなる。頭を活性化させボケ防止の訓練にもなるのだ。

・推測し、そして納得する。納得するまで推測し続け、深め、それでも答が出なければ、その疑問を解くために当事者に説明を求める。

・今の日本国民が心掛けるべき事の1つが「推測し、答えを求めること」だと思う。必要事項の極めて大きな1つである。(求めても答えずに茶化す奴が居るから困るのだが…そんな奴はその場から…拠って立つ足場から追い払うべし。)

 

・勿論、「現実直視」が第一であるが、メディアを通して知る現実には「全て明瞭」とはいかない。見えない部分、隠れた部分に「不審」があれば心を集中して「推測」することが非常に重要になってくると考える。(尚、識者による多角度の論評も参考になる。)

 

「人物像の尺度」    

・人物の「大きさ」というのは単純に判断し難い。

 中身の大きさが「見栄」という曖昧とした要素によってボカされているからだ。

・そこで私は「今まで自分が描いて人物像」(A)と「モノの言い方のデカさ・狡さ・嘘つき」(B)を比較するようにしている。

・式で表すと「(A)-(B)=0(プラマイゼロ)」となればイメージ通りの人物だった、ということになるが、「=-1」以下でマイナスが大きければ大きいほど、「中身より態度の大きいバカ者」ということになる。逆に+(プラス)が大きい(つまりBが小さい)ほど「この人は謙虚で懐が広く今まで描いていたより大きな人物だった」と評価する。

 

「驕(おご)り」  
近々の政治報道を見ていると政権を握る輩が軽々しく「暴言・失言」を吐

いたりして驕っているとしか思えない言動が目立つ。中には納税者から見てとても許せない「この 野(())郎!」と怒鳴りたくなる輩が目に付く。政治家にオゴリが出ては世も末だ。有権者はこんな輩の存在を見極めて二度と表舞台に出さないような審判を下す必要がある。そこで是非、一読して欲しい本がある。「人形の家」で有名なイプセンの戯曲「民衆の敵」だ。

…時代背景や形の上では直接関係ないように思われるかも知れないが、敷衍して解釈すればこれら輩の態度には当たらずとも遠からずの汚らしさが見えてくると思う。「腐敗」や「立場上出すべきでない下劣さ」を葬るの

 

「小鳥の名前」   
 長男、長女が小学校低学年の頃、ハムスターや十姉妹を飼っていた。

犬猫の飼育は禁じたが小動物を籠に入れて飼う程度は仕方ないと思ってそれは許すことにしたのだ。小鳥や虫が好きな長男は畳の上に這ってきた大きな蜘蛛を鷲掴みにした事がある。小さな手の指と指の間から指の倍も長い足が蠢いているのを見て蜘蛛が苦手な私は「早く捨てろ」と怒鳴ったのを覚えている。子供はむしろ私の声に慌てて蜘蛛を縁側から庭に捨てた。時にはトカゲを捕まえてきた事もある。「そんなもの家に持って入るな。」と云うと子供が「大人しいし柔らかくて気持ちいいよ。」と云って頬ずりするのに呆れ返ったものだ。…

さて飼い始めて約1年経った或る日、可愛がっていたハムスターが相次いで死んだ。2度に亘って庭の土を掘って埋めてやったが、傍で見ていた兄と妹はその都度座り込んで泣いた。「どんなに大事に可愛がっても生き物はいつか死ぬ。その都度悲しまなければならない。もうハムスターは買ってやらないぞ。」と云うと2人は涙顔で肯いた。まだ2尾の十姉妹が元気だったから諦めが付いたのかも知れない。兄妹が1尾ずつの所有権を有していて、兄の十姉妹は「ピースケくん」、妹の十姉妹は「エレンちゃん」と名付けて、2人は朝な夕なに可愛がっていた。…しかし、然程の日時を措かずして事件は起こった。日曜日の朝だった。長女の十姉妹が、飲み水を取り替えるために籠の扉を開いた瞬間に逃げてしまったのだ。突如泣き出した長女の声に驚いて部屋に駆けつけて窓の開閉を確かめ部屋中を見渡したが、ガラス戸上部の小窓から逃げたらしく後の祭りだった。新たに買い求めないことを先日悟っている妹が泣き止まないのを見た兄が「僕の十姉妹を仲間してやるよ。」と云って一応、事は収まった。   (注:「仲間する」とは、「共有する」という意味である。)

しかし、その時点で新たな問題が発生していた。残った十姉妹の名前である。「ピースケくん」の儘では仲間して貰う意味がないと、長女が拗ね始めたのだ。これには弱った。親も一緒になって解決策を考え、一案として「隔日」に、「ピースケくん」と「エレンちゃん」と呼び替えるようにしたらどうか、という意見も出たが、それでは十姉妹が可愛そうだということで取り消しになった。 …そして2日後の夕食時、自室を出た兄妹がニコニコ顔で食卓の前に座った。「2人で相談して決めた。」と長男が云った。「何だ。そんなに良い名が見つかったのか。」と聞くと2人が口を揃えて云った名前は「ピースケ・エレン・くんちゃん」だった。聞くなり私と妻は込み上げてくる感動を抑えるのに苦労した。こんな名は大人の固い頭では思い付きもしない事だ。子供ならではの回転の柔軟さに感動させられた一幕だった。

 なお、後年2人が成人してから何度か笑い話として、当時を懐かしく思い返したものである。

は民衆の力だという事を自覚するのに役立つ本だと思う。

 

「強気と弱気」   
人間は相反する2面を内包している。「強気」と「弱気」だ。

「いざ」という時…特に身の危険に曝された時、「弱気」を出してしまうと溺れてどん底に沈んでしまう。死を招くこともある。こんな時こそ「強気」を出すことだ。息の続く限り諦めずに足掻き捲ればいい。それが危険から逃れる最大の力となる。

 

「メモの勧め」   
 

私は謂わば「メモ魔」である。毎日、最低1回はメモする。

 …私は文章を書くことが好きだ。日記などは大学ノートに5~6行が普通だが、面白い経験をした時などは、熱が入って5ページ以上になる事も偶にある。

 また、1日のうちに色々の出来事があって書くべき事が多くなると、頭の中で出来上がった文章にペンが追っ付かない事もあり、また書き漏らした大事なことを夜中に思い出すことも少なくない。それに書くのは日記ばかりではない。随筆やブログの投稿、詩歌など多岐にわたるため、時には1つの事をやっている間に大事なことを忘れてしまうのだ。

 ・こんな時の為に必要不可欠なのが「メモ」である。私の場合、メモするに就いての最重要点は「思い浮かんだら直ぐに書くこと」である。何故なら、一度(ひとたび)「あれをしなければならない。」と頭に思い浮かべてからそれを忘れると、その事は(済ませたような錯覚をして)二度と(或は数日経ってからしか)思い浮かばない、という経験をイヤという程してきたからだ。

・メモする手段は色々ある。通常は紙と鉛筆など筆記用具を側に置いておけばいいが、就寝時は枕元にテープレコーダーかICレコーダーを置いておけば、暗がりでも手探りでスイッチを入れて小声で呟けば済むから便利だ。(以前は就寝時もメモ用紙と筆記用具を枕元に置いていた時期があり、物を思い

付く度にスタンドを点けてメモを書き込む必要があって苦労した。)

・メモを侮ってはいけない。「こんな事ぐらい」と思う事でも面倒がらずメモすることだ。たとえ些細な事であっても、忘れてしまって「何かしら頭の中がモヤモヤする」という事態を避けられるだけでも、メモの功徳は大きい。

 

「断捨離の迷案」  
・「断捨離はしたい。」…一杯になった箪笥や押入れを見るとそう思いながら溜め息が吐いて出る。しかし「イザ」となると長年、箪笥の底で眠っている安物でも「せめてもう1回着てから…」と、また畳み直して丁寧にタンスの底に敷くことになる。

・そこで○○夫婦は1つのアイデアを出した。

「捨てる決心は付かないけど、300円(500円)で買ってくれるなら喜んで売るわ。」と云う妻の、1~2回しか着ていない衣服(型の古いブラウス・重いコート・セーターなど)を夫が3千円(5千円)で10着買い取ってから捨てる。次に妻が夫から、10年間着てないジャケット3着、腰回りがキチキチになったズボン4本、その他Tシャツなど10点を買い取って捨てる。というアイデアである。

・自分自身の物は捨てにくいが、自分にとって関心のない物は難なく捨てられる。家の中は片付き、お金も元に戻って万々歳だ。

・これを他の持ち物、取っておいた使いもしないガラクタにも応用すれば家の中は相当スッキリするに違いない。

 

「悪い癖」    
私にはどうしようもない悪い癖(欠点)が2つある。

  1つは「礼を云うのを忘れる事」である。

 家に居る時、又は出る前「あっそうそう、あの人にアレの礼を云わなければならない」と思う。ところが、その人に合うまでの間に他の用事をしてしまうと、面と向かって会う段になって礼を云うのを完全に忘れているのだ。

 原因は分かっている。…礼に限らず他の大事な用事でも、「何かしなければならない事」を思い付くとすぐに実行しないと、実行するまでの間に他の用事を挟んだり、余計な事を考えるたりすると、先に「思った」ことによってその要件は済んだものと頭脳が処理してしまうのだ。それを避けるために、私はメモ魔なのだから直ぐにメモすればいいのだが…

 

2つ目は、家を出るまでは「例の件に付いてはこうすることに決めた。」と固く決心したことでも、相手に会った際に別な事を云われると、その言葉を加味した最適な結論が見いだせず、ついつい迷わされて相手に押し切られてしまうのだ。即断力の欠如である。…別れて家に帰ってから「しまった!」と後悔する。そして、その後悔がなかなか払拭できず尾を引くのだ。仮にその件が、人に聞かれれば笑い飛ばされるような些細な事であっても同じである。忘れるのに数日は掛かる。…その事が頭の後にモヤモヤひらひらと付いて回って何とも嫌な感じである。

 

人から見ればまだまだ数え切れないほどの悪い癖があるのだろうと思うが、自分で気になる悪い癖は今の所この2つである。

 

 「猫」   
・子供の頃から犬は好きだったが、ネコは性に合わなかった。家族も皆そうだったのか私の小さい頃から大きくなるまで犬は何時も飼っていた。

・そころが、或る一時期、姉が1匹の猫を知り合いから貰って飼い始めた。猫というのは誰彼構わず近付いてきて膝の上に乗ってくる。初めて膝の上に乗られた時は少し戸惑った。丸くなって座り込んだが最後、動こうとしない。仕方なく頭を撫でると目を閉じて、幸せいっぱいと云わんばかりの良い顔をするので、それほど日も経たないうちに可愛くなってきた。

・この猫は、その時すでに中老年だったようだ。…その後何日か経って姿が見えなくなった。「どうした?」と姉に聞くと、「きのう死んだ。」と小声で寂しげに云った。

・我が家(実家)の敷地は広い。後で分かったことだが、姉も気付かない時に如何にも人目を避けるように、屋敷の角に植わっていた樫の木の影で安らかに眠っていたという。…

・最近テレビなどで猫の話題がよく出るので、たった一度の思い出が蘇った。

 

 「睡魔の頂点」の向こう側    
・北方謙三の小説「水滸伝」に出てくる「死域」という言葉を見て一昔前の事を思い出した。

行政機関の業務調査を仕事にしていた頃、調査結果を取りまとめるため徹夜したことが何度もあった。一定期間の調査を終えて調査結果の取り纏めに入るのだが、電話や職員の行き来の多い職場では気が散って思考の邪魔になるので,取り纏めは殆ど自宅で行っていた。夕食を終えて、テレビを見ていた家族が就寝するのを見届けて、書斎代わりにしている部屋に入る。机上に積み上げた「調査で収集した資料」を前にして構想を練り、調査結果報告書の執筆に取り掛かるのは大概10時過ぎになる。普通の思考が働くのは2時間ぐらいである。必要な資料を選んでは文章化する作業を続けて深夜の1時頃になると物凄い睡魔が襲ってくる。椅子の背凭れに身体を預けると瞬時に眠ってしまいそうな状況だ。ここで眠っては元も子も無くなる。睡魔と戦いながら資料に目を通していると一瞬頭が真っ白になった直後、頭の中に「シィ~ン」という‟音無き音”が生じる。それこそ頭が冴え渡る瞬間に湧きおこる波動に違いない。

・頭が冴え渡り、机上に積み重なった数百枚の調査資料の、どの辺にどんな内容の資料があるかが楽に見通せ、さっさと抜き出しては文章が頭の中で出来上がってしまうのだ。それは原稿用紙に書き写すペン先が追い付かないほどの文章量である。急いで書いていくうちに指先が痺れて感覚が無くなってしまう。

 そのように冴え渡った頭の回転が朝の5時頃まで萎えることなく続くのだ。その結果、通常なら2日位は掛かる「1枚1,980字の専用用紙(B4)20枚」の報告書が一夜のうちに出来上がるのである。…20枚は報告書全体の1節に過ぎないが、一区切りついてホッとするとドッと疲れを感じる。眠気が眼の周囲に集まってくるのが分かる。

・しかし、寝転がって目を閉じても心地良い睡魔が訪れることはない。身体ごと地の底へ引き摺り込まれそうな錯覚を覚えて目を閉じ続けることが出来ないのだ。頭の中を濁流が渦巻いて気が遠くなるような恐怖に襲われるが、このような状態を堪えるしか手の施しようがない。半身を起こし、目を閉じては開いて濁流が流れ去るのを待つしかない。…考えてみると昨夜、睡魔が頂点に達した時、無理矢理それを乗り越えて頭の冴えを獲得した。濁流はその反動だった。睡魔の頂点を越えて裏側に回った頭を、逆方向に乗り越えてこちら側に戻さなければならない。その作業を終えなければ通常の眠気を得ることが出来ないのだ。

・この経験は1つの思考に打ち込む際の姿勢の有り方を示唆している。しかし、相当に重要度の高い事柄でない限り、採用する際の危険を覚悟しなければならないだろう。

 

「自分の寿命」  

・公害、怪我、天災など、あらゆる悪玉を排除して完全無害、且つ最良の生活環境(食材、機材、土地など)を自由自在に入手できる完全無欠、の状態を保って生活を送ることが出来れば、人間は200才まで生きられるらしい。(何時か何かで読んだ気がする。)

・しかし、地球で自然な生活をする限り完全無害・無欠という訳にはいかない。それ故に何人(なんぴと)も命を縮めて生きているのだ。生まれた瞬間から空気中の毒素に犯され、母の授乳に犯され、食物に犯され、物や人との接触に犯されて日一日と少しずつ命を削っている。

・最近、インドネシア人が146才で死去したとのネット報道を見たが、それまでの世界最高齢者(故人)は121才、日本では120才だそうで、平均寿命は世界で71.4才、日本は83.7才となっている。

・このような事を知ってか知らずか大概の人は自分の寿命は長くて80歳か、高々90才ぐらいと考えているようだ(これまで会った人から耳にした範囲での勝手な判断)。

・その考えは内心「それで満足」と思っているように取れたが、私に言わせると、心の裏に「諦観」の2文字が隠れているのが透けて見える。どうせそんなに長生きできる筈がないという諦めである。

・人間いつ死ぬか誰にも分からない。分からないならいっその事、持って生まれた時の寿命「200才」まで生きてやろうか、と考えた方が愉快ではないか。

・若しかして今からでも200才近くまで生きられる可能性があるかも知れない。毎日食べる食材の組み合わせによって悪環境を中和して毒性を緩和しているかもしれない。米と肉と苦瓜と忍辱と、湧き水と、窒素が多目の空気と…等々の組み合わせを摂取して知らぬ間に命を伸ばしているかもしれない。良い食材と毒素を含む食材、共に毒素を含む食材と食材が化学反応を起こして命を削る要素を駆逐している事も無いとは限らない。 

・食生活は国、地方、家庭、ごとに異なっている。家庭内でも長年に亘る食材の摂取の組み合わせが同じものはない。これが寿命の長短に拘わっている事は間違いなかろう。地球的は大気や水温の変化も場合によっては思わぬ長寿を齎す可能性が無きにしも非ずだ。どうせ死ぬまでは生きている身体、何はともあれ自分は200才まで死ぬ気はしないと思って生きていくことにしよう。こう考えてみると気が楽になる。今の自分はまだ寿命の半分にも遠い状況にある。ついこの前まで、あと10年以内にはやり遂げなければならない、と焦り気味に考えていたことが、十分余裕でやれるとゆったりした気分になる。

・ただ、年を取ると足腰が弱り、独りではどうしようもなく、人の世話にならずには済まなくなってくる。これには精神的な苦を免れない。肝を据える必要がある。どうせこの世は苦の世界だ。人生の苦という苦を舐め尽してやろうというぐらいの「覚悟」をしなければならない。

・考えると色々あるが、ともあれ今日からは「自分の寿命は200才」と[覚悟]を決めて生きることにしよう。

 

「頑固医者ほど名医というが…」  
・シクシクと神経に食い込むような虫歯の痛みを堪えに堪えた挙句、痛みが頂点に達しグラグラと動き出して仕方なく歯医者に行く。多く人が辿るパターンだ。…歯茎に麻酔を打たれ、グラついた歯を抜き、レントゲン撮影を済ませてから神経を抜き、セメントのような仮歯をはめ込んで「1時間は飲食をしないで。…新しい歯は1週間後に出来ます。それまで硬いものを噛まないようにして下さい。」というと、医者は隣の診察台に座った患者の方に足を運ぶ。

・1週間後に行くと、仮歯を外した所へ新しい入歯が嵌め込まれる。「どうですか、痛みはありませんか?」と聞かれ「何処と云って痛みはありませんが左右の歯が圧迫されて凄く違和感を感じます。」というと「それは直に慣れますから心配いりません。少し様子を見て、痛みが出たら来てください。」との答が返ってくる。

・4~5日経っても違和感がなくならないばかりか、入歯の下部分が歯茎を強く圧迫して痛みが出てきたので、歯医者に行ってその旨を伝えた。「ああ、此処は痛みの生じ易い所でね、慣れるまで少しは辛抱しないと仕方ないですよ。…ま、折角来られたので少し削りましょうか。」そう云って入れ歯を一旦外して“シャ~シャ~”と回転ヤスリのような物で削ってから嵌め込む。「どうですか?」「いや、まだ…もう少し削って下さい。」…“シャ~、シャ~”…「これでいいでしょう。」「あ、もう少しお願いできますか。」「ここを余り削ると噛み合わせに影響するので慣れるまである程度は我慢しないと仕方ないよ。」そう云って嵌め込んでも痛みはそれ程変らないので「いやぁ、もう少しだけ削って貰えませんか。」と云っているのに返事がない。上半身を少し起こして振り向くと其処に医者の姿は無かった。

今日は隣の診察台にも患者が居ないのでゆっくり診ても貰えると思ったのに、と仕方なく歯茎に手を当てたところで看護師が「今日はここまでです。また何かあったら来てくださいね。」と云って涎掛けのような布を首から外して本日の診察は終了となる。診察台を下りて見回しても医者の姿は見えない。早々に奥の間へ入ったらしい。

・「ここの歯科医は頑固者だが腕は良い」との噂は聞いていたが、名医とは痛みを訴える患者でも煩わしいと思うと「私の言う通り慣れるまで辛抱しなさい」とばかりに突き放すものなのか、それとも此方に堪え性が無さ過ぎたのか、何れにしても黙って姿を消されたのには参った。

 

 「会話の効果」  
・大分前に「月に最低6人と会話すべし」と聞いたように思うし、「週に4人と会話すべし」だったかな?と迷っている。確かめるべくインターネットで調べると、その旨の質問者への回答で「1日に10人」と書いてあるのが見付かった。どれが正しいのか愈々迷わされたが、中を取って「週に4人」を採用することにした。そう、少なくとも1週間に4人の人と会話をすることが重要であり大きな効果が期待できる、ということである。

・ここでいう「会話」とは、①家族は除外すること。②家族以外の人でも「すれ違い挨拶」は除外すること。…これが大事な定義である。

 即ち、外で会った人と立ち話でもいい、数分間の世間話などをすることが重要である。勿論家の中に入って座り込んであれこれと話すのは大いに結構。

・会話の効果としては、その場その場での話題に頭を使ったり、身嗜みを気遣ったり、その他いろいろの効果が見込まれるが、これを逆サイドから見てみると、会話せずに思いに耽ったり沈み込んだりしていると思わぬ症状を発症する危険性がある。

・私は主に高齢者に対して、外で会った人(知人でなくとも何かの会で顔を合わせてお近付きになった人、など)と、出来るだけ「会話」の機会を増やすことを勧めている。

・そんな中、先日、病院へ薬を貰いに行った時、診察待ちの知人に会った。横に座って「久しぶりですね。」というと「私、独り暮らしでしょう。目も悪いし足も弱っているから中々病院にも来れないの。」という。時々近所を散歩する姿を見ていたので、「偶には散歩するなどして人と話すようにしないといけないですよ。」と話を向けると、「それは気にして出来るだけ散歩に出るようにしてるけど、そんなには歩けないし…だからね、」と云って継いだ話が面白かった。「私はテレビと話すことにしている。テレビの人がものを言うと返事をしてから自分の意見を返すのようにしている。」旨の事を云った。それを前の席で聴いていた見ず知らずの人が急に振り返って「それは良いですな、ええ話を聞かせても貰ろうたわ。」と云って肯いた。

・もう1つ大事な心得は「会話」とは「対話すること」である。 

・「会話」で得られる大きな効果は「話を聞いて貰う」ことにある。しかし、一方的に喋るのはダメだ。聞いて貰うためには「人の話を聞く」姿勢が大事だ。人の話を聞かないで勝手に喋り捲る人間の話など真面目に聞く人は居ないと思わなければならない。(こういう人間こそテレビを活用すればいい。)

 

「人の長所を探す」   
・人は誰でも例外なく欠点を持っている。欠点は表に出易く目立つものだ。

それを鬼の首を取ったように「あの人は好かん」と悪口を云う人間が少なからず居るのも確かだ。

 要するに人の欠点・弱点は見付けることは容易く、探せば隠れている弱点が大袈裟だが幾らでも出てくる。どんなに欠点が少ないといわれている人でも探せば幾つかは必ず出てくる。そんな事を一々(あげつら)っても話として何の価値もない。況してや本人の居ない場所で声高に言い触らす輩も偶に居るが冗談にもならない。

・大事なのは人の長所を見出すことである。一目でそれと分かる人格者も居れば、慎ましやかで自ら表には出さないが何とも言えない品格を内に秘めた人も居る。また一見これらの人とは真逆に見える人でもその人なりの長所を持っているのだ。人というのは純・不純を織り交ぜた未完性固体なので、誰でも持ち合わせている欠点が長所を隠していることが多いが、探せば必ず見付けることが出来る。誰かがそんな人の欠点を云うたなら「あの人は欠点の多い人ではあるが、良い所もあるんだよ。」と長所を紹介する事は価値ある行為ではなかろうか。

(ただ、人にはどうにも虫の治まらない煮ても焼いても食えない人間というのが存在する。そんな相手は当初から無視すればいい。頭の中から滅却すれば話の対象にすることも無くなるだろう。)

 

「考えもの」(クイズ     
(8月末なお猛暑が続く中ほんのひと時、凌ぎ易さを感じる空気が流れてきたので序での暑気払いに、童心に還って昔やった考え物を1つ2つ。)

 

(問題1)

・ここに「同色同大のメダル」が8個ある。●●●●●●●●

 このうち1個だけ重いメダルがある。(他の7個は皆、同じ重さ。)

・そこで問題だが、上皿天秤(中心棒の左右に伸びた棒の先端に付いてある皿は同じ重さ)を2回」使って、重い1個を見付けるにはどうすればいいか。

1回目に何個ずつ乗せ、その結果を見て、2回目に何個乗せるか、を考える。)

3回」使えれば、1回目に4個ずつ乗せ、2回目は重りの下がった方の4個を2個ずつに分けて乗せ、3回目に1個ずつ乗せれば、下がった方が重い、と分かる。)

 

(問題2)

ここに「同色同大のメダル」が12個ある。

●●●●●●●●●●●● このうち1個だけ「重さの違うメタル」がある。但し「重いのか」「軽いのか」分からない。

・そこで問題だが、(問題1)と同様に上皿天秤を3回」使って、重さの違うメダルを見つけ出し、なお且つ、それが他のメダルより「重いのか」「軽いのか」まで判定するにはどのように測ればいいか。…難問だ。

(※これも4回」使えれば割に簡単に分かるのだが、「3回」なので…)

ヒント:最初は4個ずつ載せて計る。そして次の区分で考える。

  天秤が傾かなければ「残りの4個」の中に多さの違ったのが1個混じ

っていることが分かる。

傾けば、下がった方に重いのが混じっているか、上がった方に軽いのが混じっているか、のどちらかである。

2回目、3回目にどんな組合わせにするか、この問題のポイントである。

1回目の測定が終わった段階で、重さの違うのが混ざっている4個は仮に色を変えたメダルを使うと便利である。つまり、重い可能性のあるグループ(4個)、軽い可能性のあるグループ(4個)、重いか、軽いか分からないが、重さの違うメダルのあるグループ(1回目の測定で残った4個)】

 

問題3

・机上(平面上)にマッチ棒4本(同じ長さ)を使って形作った「塵取り」がある。塵取りの中には「ゴミ」が1つ入っている。(下図参照)

左図のマッチ棒「2本」を動かして、ゴミが「塵取りの外にある形」を作る。(3本動かすなら簡単だが)

 

(問題4)

・マッチ棒4本を使って、「田」という字を作る。(マッチを折ってはダメ。)

     

(問題5

・机上(平面上)にマッチ棒3本を使って「正三角形」を作る。 

 その上で、他のマッチ棒3本を使って正三角形を4つ作る。

                                  (完)