★既述ブログ・各テーマ 一括・21「阿呆の戯言」(上) | 獏井獏山のブログ

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「神が仕掛けた罠…食」

・前々から不思議に思っていることがある。「あらゆる生き物は食わないと生きていけない。それは「神」が仕掛けた罠ではないか。」と。

・よくよく考えてみると、人は3日食わなくても、10日食わなくても、人によっては1ヵ月近くも食わずに生きていける。水分だけ摂って1年ぐらい生きた例もあると聞く。しかし長期間の断食は苦痛を伴っている。

・どうして「神」は人が…いや、あらゆる生き物が何も飲み食いせずとも、苦しむこと無く生きていけるようにしなかったのか。この世の創造主である「神」の力を以てすれば至極簡単なことなのである。しかし、それでは「神」の目的が叶わないのだ。

・食わずとも長生き出来るとしたら、人間は苦役を怠って楽な生活しかしないに違いない。それでは態々地球を創造し、人間という肉体に「神聖天国」に浮遊する1つの魂を潜入させ、その魂の成長を図るための人生修行をさせる事が出来なくなる。それでは地球を創造した意味がない。

・「食わないと生きられない」という重荷を背負わせれば、食物を確保するため、延いては食物(五穀)を産み出すのに必要な「土地」を確保するために、人間はあらん限りの手段を講じるだろう。…つまり、生きるために必要不可欠の土地を奪い合うために人と人は戦わざるを得ない…人を殺めるという「ごう」を背負って生きて行くしかない。…こうして苦労に苦労を重ねて生きて行くところに初めて修行の意味が生じると「神」は判断したに違いない。

・「喰わなければ生きられない」事こそ「神」が仕掛けた罠なのだ。

・そして「食」以外にも様々な事で人と人の間には「争い」や「競争」が日常茶飯事に生じているが、これらは全て「食」を根源として派生したものである。

・派生的現象の1例としてここでは「ヤクザの抗争」を取り上げて検証してみる。

「ヤクザの世界」は将に抗争に明け暮れる人生そのものだ。縄張り争いの為に命を張り、抗争に勝ったところでそれを守るために日夜、相手の「組」の動きを警戒して気を緩める暇もない。高が渡世の意地を通す為に、だ。高が抗争と抗争との間に得られる僅かな時間、怒らせた肩で風を切って街角を居丈高に歩く喜びを味わう為に、だ。生きるために争い、命がけの争いの結果に得たものの詰まらなさを証明するような一例…ほんの一例だ。

              ★

 ・この世が 「神」が私だけの為に映し出した幻、であるにせよ、 幻でなく、私の肉体が朽ちた後も現実にこの世が存続するにせよ、…「喰うための争いを余儀なくすること」は、魂の成長のためとはいえ、酷い仕掛けと云わざるを得ない。

 

 

「毛を吹いて疵を求む」       
・広辞苑を引くと「他人の小さな欠点をわざわざ探り出したりすること。」と云った趣旨の説明がある。簡単にいえば「あら探し」である。「あら」は魚などの良い所を除いた残りの骨や頭の事である。  即ち、辞典によれば「あら探し」とは標記とほぼ同じ意味であるが「殊更に人の言動を捉えて欠点を指摘する事」とある。

・こんなのは最低、と思っていたが、まだ下が居た。というのは、探してもありもしない「あら」自体を創り上げて吹聴する輩が居たのだ。

・つい先達ての事、女性ばかり集まる何かの集会から帰った妻から聞いた話だが、その会で色んな話をしているうちに花見の話になった時、1人の女性から「近々、自治会の花見があるようですが、ウチの人は飲めないし所用もあって行かないのよ。でもお宅の御主人はお酒がいける方で賑やかに楽しまれた後、いつも誰かに送って貰われるそうですわね。」と云われたというのである。

 下には下が居ると云ったのはこのことである。俺の場合、楽しく過ごす事までは事実だが、送られたことは唯の1度も無いのだ。例えば、花見の他にも元勤め先のOB会などで俺は年に2~3回は宴会に出席して司会をしたり、各人と話したり、唄ったりして楽しく過ごすが、どの会でも終了後に送って貰った事は無い。況してや「何時も送られる」などと飛んでもない巫山戯たことを抜かすから呆れを通り越して怒りさえ覚える。なお云うと逆に「気分が悪い」という人を送った経験はあるけどね。

…どうやらこの御仁、見もしない事でも誰かの冗談を小耳に挟むとこれを針小棒大に吹聴する癖があるのではないか、もっと穿った見方をすれば変な想像癖があって己自身の頭の中で状況を創り上げて吹聴する癖があるのではないかと考えられる。又それが昂じて、他にも何人もの人達の事を漁りに漁って吹聴しているかもしれない。それが趣味であり、こういう輩の身に沁みついた悪い趣味は簡単には治らないのではないだろうか。

・なお、標記の「毛を吹いて疵を求む」の2つ目の解釈には「人の欠点を暴こうとして反って自分の欠点を曝け出すことのたとえ」との説明がある。 

よく見ると、この「所謂御仁」外見上は上品に見える。しかし中身が上記のような輩だった事を重ね合わせて見ると、どうやら上品は装いのようだ。他人の「あら探し」をしていて自分が弱点を曝け出してはいないかと考えるとゾッとして上品を装うようになったのではないか、と推測される。

・この所謂御仁の他にも「あら探し」が趣味の人間を知っているが、その御仁はあっけらかんとした性格なので「あら探し趣味」が丸見えである。勿論、この御仁も人の風上におけない輩だが、上品を装う「所謂御仁」よりは余程マシだ。それに幾ら装っても悪趣味は他から容易に見え透いている事を知らないのは本人だけだろう。

 

「戦争」         
・戦争は人握りの施政者を除く「全ての国民」を100%、寸分の違いも無く地獄のどん底に突き落とす出来事なのである。勝っても負けても、勝ち負けの行方に関係なく国民は間違いなく確実に苦しみのどん底に突き落とされるのだ。

・「勝ち負けに関係なく」というのは「戦争をしている間中・間断なく」という意味である。「国と国が戦争を始めてから終わるまでの間、ひと時も途切れることなく」という意味である。

・先の太平洋戦争がそうだった。当時、日本の主たる敵だったアメリカと戦争を始めた昭和16年から戦争が終わった20年までの約4年間に生きていた全ての日本人、もう少し詳細にいえば、「東条という頭目とその取り巻き連中」を除く「全ての日本人」が…兵隊に徴用された男子だけではなく、家に残った幼児から老齢者まで1人残らず心身ともに苦のどん底の生活を強いられたのだ。

・そして昭和20年8月に戦争が終わった。日本は戦争に負けはしたが「戦争が終わったお蔭で」それまで背負わされ続けた「苦」という重い荷物を背中から振い落とす事ができ漸く人々は地上に立つことが出来た。「戦争が終わった」それだけで国民は自由を得た。日本中の土地は荒れ果てていたがその日から再生のスタートを切ることが出来たのだ。

・例え話として若し仮に、ここに「世界列強の中の一国」…少なくとも「日本より相当強い国」があり、且つそれが「鬼畜のような人間が治める国」だとして、その「鬼畜の国」と戦争を始めたらどうなるか、想像しただけでも恐ろしい悪夢が脳裏を過る。戦争中は先の戦争の時と同様に苦のどん底生活を強いられるし、結果的に核兵器で全滅させられる可能性もある。万一、生き残った人々が居たとしても、鬼に依って酷い蹂躙に遇うだろう。

・「日本は決して戦争はしない」「軍隊は保持しない」「交戦権は認めない」と憲法で定められている。しかし自衛隊を作り、国を守るための最小限度の武器を持つようになった。万が一、鬼畜国が攻めて来た時に備えて国を守るとの見地から已む無きことかなと思うし、長年の既成事実もあれば今さら異論を唱える余地はない。「専守防衛」の姿勢が破られなければ否定すべき事ではないだろう。

・しかし、「自衛隊」の域を乗り越えて仮にも「軍隊」と呼称される組織を置き、形なりにも、その気になれば他国を攻めることの可能な軍備を整えたら鬼畜国に開戦の口実を与えることとなり戦争になる可能性が出てくる。若し戦争になれば、そして国力が非勢であればあるほど国家一団となって戦うことを上部から強いられるだろう。徴兵制が当然だった日米戦争の二の舞である。駆り出される兵士はもとより、兵士以外の全国民は戦争が続く間中、地獄の生活を強いられ、その結果、爆死するか蹂躙されるのが落ちである。

・ここまで考えると、矢張りこの70年間日本が築き守ってきた戦争放棄の姿勢を維持しなければならない。それでも武器も持たず戦いもしない日本に対し、国際的な常識・良識を破って攻めてくる鬼国があるかも知れない。攻められれば国は防衛力で食い止めるだろうが状況によっては一瞬にして壊滅するかも知れない。しかし戦争を起こしてその間中、苦しみに苦しみあぐねた上に(まだその上に)爆死や蹂躙に遇うような結果を招くよりはマシだ、と先の戦争体験者の多くが思うに違いない。

・口実を与えない方が戦争を仕掛けられる可能性が大幅に少ないことだけは確かである。意地を張ったり見栄を切ったり恰好を付けて済む話ではない。

・重ねて云う。何度でも云う。もし戦争が起これば、国民がバラバラにならないように決定権を持つ何人かの人間が指揮することになるのが必然だ。その人数を少なく見積もって仮に100人とした場合、これら上に立つ人間だけ少しは意気揚々と出来る余地もあるだろうが、残る1億2千600万人余り(国民総人口の約99.9999%…やや誤差有り)の国民は苦しみのどん底に突き落とされることになる。前の大戦時のように一握りの人間に生・命を弄ばれては堪ったものではない。堪ったものではなくても戦争が起これば必ずそうなるに決まっている。戦争とはそういうものなのだ

「戦争・2」       

・俺がまだ幼い頃の事、大半は9才上の兄貴に聞いた話であるが…

・住んでいたのは大阪の南にある郡部の田舎の村だった。数百メートル離れた隣村との間に兵舎があった。その周囲には田圃が広がっていた。

・この兵舎には100人ぐらいの兵隊さんが住んでいたらしい。その兵隊さんが行軍と称して村の目抜き通り(と云っても石ころだらけの砂利道)に整列して入ってくる。時刻は決って昼前で、指揮官の号令で兵列が歩を止める。そして次の号令で通りの両側に分かれて座り込むのだ。すると門前の道端に座り込まれた家の母親や女子は炊きたての高粱米(偶には麦飯)を釜の儘、表に出して、兵隊さんが差し出す弁当箱におかずを添えて次々と装うのだ。隣家もその隣も居並ぶ十数軒の家々も同じことをするのだ。

・理由は「お国の為に働いて(戦って)いる兵隊さんには真っ先に飯を食べてもらう」ためである。ご飯を出している家族(殆どが農家)では若い者が徴兵に取られて大概は大陸の南方方面で戦っているので、せめて地元の兵舎の兵隊さんを大事にするのが当たり前だったのだ。兵隊さんは飢えているので与えられた飯をガツガツ食べる。飯を食べ終えた兵隊たちは再び整列して一応、村外れまで進んだ後、回れ右して兵舎に帰って行くのである。

・こんな事が月に2回はあった。…兵舎から半径1~2キロ以内には10~20の集落がある。各集落で月に2回ずつ同じことをすれば1カ月間の昼食は行軍で済ませられる計算である。ということは年間を通じて昼食は行軍で賄えることになる。

・ご飯を釜ぐち拠出し、おかずも出した家々ではその日だけは残った釜底のご飯をお粥などで量を増やして食うしかなかった。

・思い返すと、兵隊さんは皆んな温和しかった。彼等も何処かの府県の農家等から徴兵された若者なのだ。

(これらの幾つかは子供の頃の俺の頭に今でも残っている記憶である。序でに付け加えると、18才上の兄と、15才上の兄は大陸で戦死した。母親は近所の人が訪ねてくる度に泣いていたのが幼い頭にこびり付いて鮮明に覚えている。)

 

「小人閑居して不善を成す」
・今の世の中は技術が進歩し、物質的に豊かになり、人工頭脳なんかも開発され飛躍的に進化した。

・一昔前、世の中が進化の途上にあった頃、俺は大きな夢を抱いていた。

 日本が経済的な大躍進をしていた時(後にバブルといわれた時代)だ。

「もし、このまま経済が発展し、また同時進行的に機械化・人工頭脳が進化して労働効率が高まれば、余力を得た人力、『即ち、短時間労働だけで生活を全う出来るようになった人々』は、人類の歓喜をもっともっと満喫できる世の中を作るために力を注ぐ事が可能になる。人類が嘗て抱いた夢以上の楽園を創出することが出来る。…それこそが人類が努力に努力を積み重ね、目標とした理想の世界だ!…そんな夢が実現するかも知れないと期待を膨らませた。

・現に今やそんな楽園を実現しようとすれば出来る環境が整ったといっていい。

 …しかし、古来から現在に至る多くの人類が夢見た理想郷はこの世で実現できなかった。

・今ほど、遣ろうと思えば成し得る環境が整った社会状況はないだろう。この時代チャンスを逃してのうのうと過ごせば状況は徐々に美形を歪めるしかなく、今後二度と「理想の世界」を実現できるチャンスは到来しないだろう。

・大昔、人類の歴史の激動期に「闘いを好む種」が生き残った分岐点と大差ない人類の分岐点に、いま再び現代人類が立っているような気がする。

 

★余裕を得た人間が、その余力を「理想世界の構築」に注がず、己の為に平気で人を傷つける行為に走っている。悪事を働く輩はもとより、表向きは立派に見える政治家・実業家・教育家などもその例に漏れない。将に「無数にして雑多な小人が閑居して不善を成す」地獄絵を見ているようだ。

 但し、悪いことばかりではない。ノーベル賞(3年連続受賞)、スポーツ界(オリンピックメダルラッシュなど)、芸能界(結婚など)、その他幾つかの心温まるニュース。…目を覆いたくなる様な事が多々あったが故に、これらのニュースは輝きを放って見えた。

 

「多数決」      
・多数決とは云うまでもなく、物事を決める一手段である。

 例えば9人の決定権を持つ人に依って「5対4」で決まった場合は「過半数で決まった。」と表現するのが正しい云い方だ。ところがこれを「賛成多数で決定した。」と表現する輩が時々居る。こんな輩は得てして物事を針小棒大にほざき、スタンドプレイも頻繁で、余計な口を利いては問題を醸す輩である。最近では籾殻野郎が顕著な例だ。

 

「ずる」    
・口先の巧さで凄く良い事をやって呉れているように見える。アカンベの話を聞いているとそんなズル賢さを感じざるを得ない。

・人が本来の価値以上に見せるテクニックは他の人々に伝播する。この狡さが広がっているようだ。NHK、日銀、電力会社、テレビ・コマーシャル、その他、多勢の人々を対象に生きている人間達の多くが、何かと他人が培って発芽させた功績を自分の手柄のようにひけらかせたり、それを利用して人を騙して利益を得る者も現われる始末だ。

・一昔前、国のトップが現職で捕まる汚職を働いた時、これを真似る悪党が急増し、不正の金を平気で得ていた当時の世相が重なって脳裏に浮かぶ。

 

「人の本性」       
・「親切、援助、施し」等々、人は出来得ればこのような行為をしたいと思う心優しい面を誰でも生まれ乍らに持っている。そして受ける側は感謝の気持を胸に抱きこの恩は決して忘れまいと心に誓う。これは誰でも生れ持った本性だと俺は思う。(世の中には悪事を働く人間も居るが、それは已むに已まれぬ事情や周囲の環境や時代背景などが成せる業に違いない。)

・しかし、与える場合と受ける場合ではその強さが違ってくるのも人が持つ本性の端くれであることも確かだ。当初は同じ大きさだが時が経つにつれて、与えた方の記憶は中々薄れないのに対して、受けた方の感謝の気持や記憶は当初と比べ物にならないほど薄れるのである。俺自身を含め大概の人間はこの例に漏れない。以前に大きな恩を受けたに拘わらず、その人の1つの失敗に依って受けた小さな害や心にそぐわない事が生じると、受けた恩を忘れて恨んだりするのだ。

・人間というのは小さな生き物である。矛盾だらけだ。特にケチ臭いのは人が犯す矛盾は見逃さないが己の矛盾は爪垢ほどにも気付けないことである。自分の間違いは無視するが人の間違いは見逃さない。この厭らしさも又、人が生まれながらにして持っている本性である。

・だが、この本性のお蔭で恥ずかしい我が身を恥じることも無く大手を振って大口を叩きながら気楽に生きていけるのかも知れない。

「人の本性・2」     

を与える側と受ける側の人の心理について、2月18日付けの「呟⑥人の本性」で書いた。このような差は「を与える側」と「受ける側」についても同じようなことが云える。

・大きな害を受けた方は長年、場合によっては死ぬまで忘れないが、一方、害を与えた方はすぐ忘れる。それより元々、与えた当初から害の大きさを悟らず、特に自己の過失については過小評価しているから受けた方と大差が生じる。そんな事だから責任も感じない。その最も顕著な例が東北大震災である。あれは震災による被害自体、計り知れない程の大きさだったが、震災被害だけなら例えば神戸のように復興がどんどん進んだ筈である。ところが震災に伴って起きた原発事故はそれとは比較にならない「未曾有」の大被害を齎した。物的な大きさだけではない、面的な広大さと得体の知れない不気味な恐怖を人々の心を蝕んだ。然もこれは大震災の一部として生じた天災ではなく人災である。対策を講じないといけないという技術者の進言に耳を貸さず巨額を要する防災壁の設置を怠った結果である。濃度の高い汚染水漏れや空中に拡散する放射能が全土にジワジワと広がりつつあるようだ。

事故後5年も経つのに未だに仮設住宅生活を余儀なくされた人達が居り、核物質のゴミの処理の見通しも立ってないという。一体この責任は誰が取るのか、責任者は誰なのか。色んな報道を見てもはっきり言いきる文言が見付からない。実際ははっきりしているのだろうが誰もはっきり言いきらない。被害者の多くは訳のない悩みを抱え乍ら苦しい生活を続けている。この人達は事故の罪深さや背負わされた苦の大きさを一生忘れないだろうし、風評被害など実質的に悪影響を被った広範囲の生活者や、知らぬ間にジワジワと放射能が蓄積されているのではないかとの不安を抱くと同時に納めた税金を使われている全国の国税納税者も又、忘れることは無いだろう。これに対して真の加害者はどれだけ己が起こした事故の大きさ罪深さを感じているのだろうか。被害を受けた方の苦の大きさを知るには一度、被害者と同じ生活をするなど同じ立場を経験すればいい。…などと云っても与えた側には頭の端を掠めもしない考えだろう。

・とどのつまりは「被害者の思い」と「責任者の考え」の差がゼロになる事はあり得ないのではないか。それが人の本性だ。

 

「矛盾」

一国のお偉方が「賃金の安い非正規社員・派遣社員の雇用に際しての『職種制限や雇用期間の制限』をすべて撤廃し企業の自由とする。」という旨のことを決めれば非正規社員が急増して全社員の半分近くも占めるようになっても不思議はない。その原因を作った一方で「企業は正規・非正規を問わず社員には『同一労働・同一賃金』を進められたい。」などと云ったって巧くいくだろうか。

・そしてそのお偉方を支える立場の人間に「増え続ける『不本意非正規社員』を大幅に減らす方針だ」と述べさせても、元々非正規社員が増加したのは上記のように企業が業種を問わず期間も自由に延長できるようにしたのが大きな原因なのだから、これは逆の発想だろう。

・色々の角度から色々の云い方をするが何れも、「法人減税」や、ここ3~4年で倍増している大企業対象の「施策減税」を含め自分で企業の利益になる制度を次々と作る一方で、労働者を救済しようとしているかのような姿勢を見せる。云うことが矛盾しているのではなのか。お偉方が口から出任せを云われては困るのだが、な…。

・俺が思うに、この場合、大企業向けの優遇策は確実に実施されるに違いないだろうが、注視したいのは同一労働同一賃金や不本意非正規社員の大幅減少などという事が実現するかどうか、だ。…俺の目から見て相矛盾するこの2つが巧く結びつく事ってあるのだろうか、と疑問を抱く。単なる「流れ」で片の付く話ではないからな。耳目に触れるとつい、ぼやきたくもなるのだ。

 

「悪癖」       
2者択一、その他選択肢が幾つかある事柄を決め

た後で、果たしてそれで良かったのかと頭を悩ませる。それが決めた直後から始まり数日頭を離れない時もある。

・例を挙げると限りが無い。旅行の行き先と日程、数種類ある薬の選択、イベントへの参加、等のような行事日程だけではない。軽い気持ちでついつい交わした約束、一時的な感情で人と交わした激しい議論、ある場面で口に出すべきで無かったと思う事、黙って過ごしたがその場で言うべきだったと思う事、などなど…しかし後でじっくり考えるとそれで良かったのだ、と思う。別の選択をしていたらもっと悩んだに違いない、と思い直して初めて納得するのである。というのも(即座に決めなければならない事も稀にはあるものの)大概の事は吟味に吟味を重ねた結果決めたことなのだから…。

・どんなに良い行為、最適の決断であってもマイナス面を探せば1つや2つは必ずある。それは物事に付きものであり完全無欠のことなど有りはしない。頭ではそうと知りながら自分のマイナス点を漁りに漁るのは小心だと云って片付けられる。それでもそうしなければ気の済まない人間が居るということだ。これはどうしようもない癖である。払い除けることの出来ない悪癖である。人間誰でも幾つかの癖を持っている。傍から見える癖もあれば内に秘めた癖もある。また人から毛嫌いされているのに本人は気付かない行為もある。これなどは確信犯的悪癖という外ない。しかし、それは持って生まれた知恵と同様、屹度生きて行くために不可欠の要素でもあるのだろう。

(因みに本人も気付いていない良い性格・習慣は「良癖」とは言わず「人徳」という。)

 

「気合」         

「好きこそものの上手なれ」という諺がある。実に云い得て妙な言葉である。1つの事を上手になるにはある程度の素質が必要であるが、素質だけが上手下手の主たる要因ではない。もっと大きな要素は「思い入れ」即ち「気合」である。如何にその事に心を傾注して打ち込むか、ということである。そして好きだからこそ打ち込めるのだ。

・例えば、ある種の「芸」に関する大きな素質を持っていたとしても、それに興味を持って「努力の上乗せ」をして初めてモノになる。何らかのきっかけや経緯で興味を持たなければ素質は伸びない。たとえ小さな素質であっても心身込めて集中的な努力を払えば素質が芽を吹き大きく育つのである。特に、生まれ持った優れた素質を見出し集中すれば最良の道が開かれる。その大きな木には「天才」という果実が生まれるのである。

・さて、ここに俺の知人でもある双子の姉妹が居る。色んなスポーツ同好会や民謡同好会などのグループで楽しく動き回ったり唄ったりしている。

・先ずスポーツであるが、姉は運動神経が敏感で何でも上手にこなし成績は常に上位である。一方、妹の方は一向に成績は上がらない。そして「私は運動神経が無いのよね。」と笑いながら嘯いている。しかし、よく観察してみていると妹も運動神経が鈍くはないのだ。姉には少し及ばないかも知れないが殆ど差が無いように見受けられる。故に時には驚くような妙技を見せるのだが「偶々、たまたま運が良かった、偶然よ。」と軽く受け流すだけである。本当は気合を入れて打ち込めば好成績を上げることが出来るものを持っているのだが失敗しても悔やまず敢えて良い結果を求めようとはしない。スポーツに対する興味や成績に対する執着心が毛ほども無いためである。気楽に楽しんで軽く汗を流して気分転換すればいい。相手に負かされても「あなたは上手ねぇ。」と云い、相手が妙技を出せば「そこらが違うのね。」と平気で褒めそやしてニコニコ笑っているのだ。 

・一方「民謡の芸」に関しては全く違ってくる。思い入れの違いである。誰にも後れを取らないぞ、という程の気合が入る。唄い慣れた人に対しては節の違いや間のとり方が少しでも狂うと歯に衣を被せずビシビシと指摘して正確な節や間の取り方を教える。一方、初心者に対しては嫌って逃げないよう興味を持たせ、やる気を出して付いて来るように優しく教える。傍から聴くと、とてもまだまだ唄になってないな、と思うようなレベルでも「いやぁ、民謡を始めたばかりだというのに凄いねぇ…いける、いけるよ。」とべた褒めをする。こうして数カ月経つと一応は民謡の唄い手に成ってくるから偉いものである。このような教えの姿勢には将に「気合」を感じる。慣れた唄い手は9分9厘まで正確に唄っている。ここまで来れば少しの狂いがあっても殆ど分からない。残る1厘の狂いを見付けるには長年の経験だけではない、心を込めて聴き取る姿勢が必要である。詰まりは「気合」だ。少しでも正確に唄わせてやろうという心使いが無ければここまでの指摘は不可能だろう、と思う。

また、初心者にこれ以上ない程の優しさで対応するのも「気合」に他ならない。普通なら…「教えるだけは教えて上げるけど此方はどうでもいいのですよ。」と思っているのなら…「ダメ、駄目ね。節が違うでしょう、分かりませんか。それに間が成ってないですよ。間というのは民謡の命と云ってもいいほど大事なのだからキチッと覚えて下さいね。」と正論だけを厳しく云うだろう。そうすると初心者は「民謡って余り面白くないね。」と云って直ぐに止めるに違いない。その辺を見極めるには心を込めて相手を観察してやる親切心が要る。気合が入って無ければとても出来ることではない。「気合」を入れて聴くから各人の素質の有無や仕上がりの程度を見抜く事が出来るのだ。

・要約すれば、長年の経験と勘と気合を入れることに依って各人の素質や進歩の状況を細々と見極めて夫々にあった指導が出来るのである。

また、その人に合った曲を選んで自分が持っているプロ民謡歌手のカセットテープをダビングして与えることもする。将に気合の入った指導である。しかも、そんなにエネルギーを注ぎ込んでも芯から好きな道だから気にも掛けず人のために尽くすのである。

・俺自身スポーツも民謡も好きである。とは言っても競技種目や曲目は数え切れないほどあるので気に入ったものを選んでやっている。そしてやる以上は100%気合を入れて臨む。その代り嫌いな事や自分に合わない事は一切やらない。やらないと決めたら人がやっているのを見ても全く無関心で見向きもしない。やっている事に口出ししたり批判したりしない。「面白いですよ、あなたも遣りませんか。」と云われれば「そうですか。考えておきましょう。」と軽く受け流すだけである。

 

・以上の例は身近な趣味の話であるが、人には生きていくために否が応でも遂行しなればならない事や付き合わなければならない義理など、避けて通れない優先順位の高い事が幾らでもある。それらをこなす日々の労苦を解(ほぐ)すのが趣味の役割である。好きな事を好きにやればいい。

・辺りを見回すと、俺と同様に気合の入れ甲斐のある物事しかやらない人も居れば、ただ付き合いでグループ活動に参加して全体の流れに任せて動く人もいる。それぞれ人の気質は多様であるが、何かに抜きん出る人の行為には気合が入っていることだけは確かである。「気合」は物事の出来不出来を左右する原動力である。 

 

「夢と空想」      
以前よく見た「超能力者になった夢」が2つ、そし

て散歩しながら思い描く「超能力を保持する空想」が1つある。この空想も又、起きていながらにして見る「夢」に他ならない。

「ビルからビルへ飛び回る夢」

・何者かはよく分からないが得体の知れない悪い奴に追われて逃げ回るうちに袋小路に迷い込む。悪い奴が迫ってくるのが怖さに目を瞑って無我夢中で「エイッ!」とばかりに飛び上がって目を開けると何と数十階もあるビルの上に立って下の悪い奴を見下ろしているのだ。しかし敵も然るもの同じように飛び上がって4~5メートル先に立ったかと思うやこっちに向って追っ掛け始める。こっちも捕まってはならじと林立するビルからビルへ飛び跳ね乍ら逃げるうちに目が覚めるのである。尚その後、逃げ回る場面ばかりではなくビルからビルへ楽しく飛び回る夢も何度か見た。

「眼力で物を引き寄せる夢」

・道を歩いていて不図見上げた大木の高い場所でひらひらと風に揺れている青々とした葉っぱに見惚れて「あの葉っぱが欲しいな、でも取るのは無理だなぁ。」と思った瞬間、プチットという音がしたかと思うとその葉が枝から離れてあっという間に自分の掌に乗っている。「凄いな。」と驚きつつ「もう1枚千切ってやろう。」と、今度は視線に力を込めて狙うとその葉が千切れてきて掌に乗った。…その後、木の葉以外の物も引き寄せられる夢を何度か見たが、葉っぱを千切るのが一番容易く何となく心が落ち着くのを感じては目を覚ました経験がある。

「他人の脳を自在に操る空想」

・毎日、ウオーキングをしているとマナーの欠いた人間とすれ違うことが偶にある。心の中では、呼び止めて「おい、ちょっと待て。お前、人に迷惑を掛かるような真似をするんじゃないよ、分かったか。今後気を付けろ。」と云いたいところだが、何せ相手は背の高い骨太男であれば喧嘩になって暴力沙汰に及べば小柄でチョロっこい身体の俺には勝ち目がない。悔しいが「チェッ、くそっ!」と舌打ちして行き過ぎるよりない。若し舌打ちを聞いて逆切れした相手が「待て」と態々呼び止めて襟でも掴んで居丈高になった場合は勝負するしかない。

・その時は次のような啖呵を切る心算と覚悟は持っている。「悪いお前が謝りもせず逆に喧嘩を売るというのなら受けてやってもいい。その代りこれだけは云っておく。やる以上は、俺はお前を殺すまでやる。殴りあって何方かがダウンした程度の状態…即ち中途半端な状態で止めるような喧嘩ではこっちに勝ち目は先ず無い。しかし殺し合いとなると勝負は分からない。メロメロになっていても何かの拍子に俺がお前を殺せる可能性はゼロではない。お前も俺をノックダウンした状態で立ち去るような事はするな。俺の息が止るまで殴るなり首を絞め付けるなりして殺すまでやるのだ。結果は負けた方は死に勝った方は刑務所行きとなる。そこまでの覚悟を持ってやると約束するなら喧嘩を買おうではないか。」と。

しかし、もし俺に天の神様が自分を利することや悪事には絶対使わないという約束で「人の脳を自在に操ることが出来る超能力」を授けて呉れたなら命がけの喧嘩をせずに悪い奴を窘めることが出来るのだがなぁ、と夢のような空想をする時がある。若し、そんな超能力を、1日に1回30秒以内しか使えないという条件付きでもいいから授かれば、一定地域の住民に迷惑ばかりかけて毛嫌いされている悪い奴や弱い者苛めをする奴を見付けた時に、「テンテケテンノアッハッハ」などと口走りながら馬鹿踊りをさせたりして、その人間が恥らい改心するまで罰してやるのになぁ、と時々思いながら毎日の散歩を楽しんでいる。

・(余談)上記のような話を夢占師や深層脳医学者に聞かせたら、良きにつけ悪しきにつけ俺の身体の中心(膏肓)に潜む深層心理を探り当てられるだろうか、と余計な気を使ったりもしている。

 

「恐竜の頭脳」   

パソコンで恐竜に関する質問や解答を呼んでると可笑しくて笑い出しそうになる。見てきたような口を利くなっちゅうねん。自説を述べるのは一向に構わん。…が、決めた云い方をしたり、それ以上に他者の推測を否定するのは止めろっちゅうねん。

・で、俺も自説を述べる。皆と同じように憶測の域は出ない。専門家だって何者か分からないような物の骨の欠片を見て「これは大発見だ。何十億年前の恐竜の化石かも知れない。」と大騒ぎしているように思う。一般人は何を言われても「我が人生に」にとってはそれこそ、大空の一角で何か見分けも付かないぐらい遠方を飛んでいる鳥程にも関係ないから「あっそう、凄い。昔の生き物ってのは想像もつかないほど凄かったんだナ。」と差し障り無く頷いているだけなのだ…っちゅうねん。 

・だからこそ逆に、時には頭の休憩に突飛もない事を想像してしまうのだ。考古学研究家の実績のうち、地層などからどんな骨組みのどんな大きさの何本足の生物が何時(いつ)頃から何時(いつ)頃まで生きていたようだ、というのは俺も概ね信じられる。地質学の研究が重ねられ引き継がれることは大いに可能だと思う。しかし、日々の生活実態を見たこともないのに、生き物同士がどう触れ合い、どんな交信術を持っていたかは分からないだろう。言葉を出して話し合っていたかも知れない。勿論、人間は「あ、い、う、え、お」とか「A,B,C」とか言って会話しているが、例えば恐竜は想像も好かない声(又は人間的に云うと音)を出し合っていたか、或いは脳波と脳波だけで交信していたかも知れない。生きるために必要なら食物を作っていたかも知れない。食物を作るというのは稲作をしたり果樹園を拵えたり、というのは人間のやる事だが、彼らは「まさか」と思うようなやり方でやっていて「まさか」というような物を収穫していたに違いない。また「肉食」というか「骨食」というか「皮食」とかそれに適する生き物か、地中の埋葬物などを巧く使っていたかも知れない。物を食う生き方以外もあったかもしれない。人間は「生きるために食う」ことしか知らないから「恐竜は小動物の肉や高い木の上の葉を食していた、彼らは生きるにはそれしかなかった」などと思っているが、そんな物を食わなくても長寿を保ったかもしれない。特に頭脳の働きに至っては掴み所が無いではないか。要するに俺の云わんとするのは恐竜は途轍もなく高い知性を持っていたのではないか、という憶測だ。(骨折の治療や仲間に餌を分け与えた分析結果もあるようだ。)

パソコンの質疑応答で誰かが「脳の性能は体格と脳の大きさの対比で決まる」などと云っていたが、決め手はないようだ。それもそうだろう、恐竜の頭をかち割って調べない限り脳の実際の大きさは決められないし、性能に至っては「大脳より小脳辺りが発達していたようだから運動神経は発達していたらしいが知能は大したことがなかったらしい」と云った旨を述べているが決め手はない…当然。

・どうも、恐竜たちのことについては大きくて厳つくて肉食で大暴れしたこと、など目に付く大まかな事しか分からない状態だけで推測して…その段階で、「地球の誕生以来、地球上では我々人間が最も進化した知性的な生物である。」と決めて掛っているのではないか。

・人間は今後、何年~何億年生き続けるか、地球表面自体どれだけ壊されることなく続くのか、又は大破壊があるのかは知らないが…これまでの歴史は人類誕生以来(各説あるが概ね)600万年で、人間らしい能の働きを持つホモ・サピエンスの起源は約20万年前とされている。稲作など自ら食物を作るようになってから約1万年ぐらいしか経ってないらしい。

・これに比べ恐竜の生息期間は約1億8千万年、数ある恐竜の中の1種ティラノサウルスを例に上げても約300万年もの生息期間がある。隕石落下など地表の大変化で絶滅しなければ(下司の勘繰りだが)今頃あの巨体がもっともっと合理的な生き方と平和な社会を作っていたかも知れない。現在のように、偉そうな顔をし乍ら矛盾ばかり生み出す人間のような無様な社会とは大違いだったかもしれない。

・物事に「もし」はない。歴史も同じく「もし」はない、と俺も思う。しかし、そう云ってしまうのは非常に容易(たやす)い。矢張り今でも俺は「もし」という仮説は必要だと思っている。それしか…そう考えない限り現状の悪を駆逐する思考は生れないように思う。今の人間は可成り付け上がり過ぎているように思えてならないのだ。

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・もし、恐竜時代が続いていたなら、今の時点で我々(恐竜)は今の人間社会を上回る豊かで明朗な人生(竜生)を送っていたに違いない。うん、屹度そうだ。(…ああ、暗さと暑さを吹っ飛ばす良い夢を見た。)

・…で、ここまで憶測した上で、専門学者や識者を自認する人の説を見ると面白い。何だか色んな説の真偽を見分ける力が少しは付いたような錯覚を覚えるから面白い。「成る程そうだったのか。」と思う説もあれば「まさか」と思うのもある。なかなか面白い。  

(暑さが募って益々訳の分からない事を書き出してしまった気もするが、俺自身は少し涼しさを感じているのだから…面白い。)