・公害、怪我、天災など、あらゆる悪玉を排除して完全無害、且つ最良の生活環境(食材、機材、土地など)を自由自在に入手できる完全無欠、の状態を保って生活を送ることが出来れば、人間は200才まで生きられるらしい。(何時か何かで読んだ気がする。)
・しかし、地球で自然な生活をする限り完全無害・無欠という訳にはいかない。それ故に何人も命を縮めて生きているのだ。生まれた瞬間から空気中の毒素に犯され、母の授乳に犯され、食物に犯され、物や人との接触に犯されて日一日と少しずつ命を削っている。
・最近、インドネシア人が146才で死去したとのネット報道を見たが、それまでの世界最高齢者(故人)は121才、日本では120才だそうで、平均寿命は世界で71.4才、日本は83.7才となっている。
・このような事を知ってか知らずか大概の人は自分の寿命は長くて80歳か、高々90才ぐらいと考えているようだ(これまで会った人から耳にした範囲での勝手な判断)。
・その考えは内心「それで満足」と思っているように取れたが、私に言わせると、心の裏に「諦観」の2文字が隠れているのが透けて見える。どうせそんなに長生きできる筈がないという諦めである。
・人間いつ死ぬか誰にも分からない。分からないならいっその事、持って生まれた時の寿命「200才」まで生きてやろうか、と考えた方が愉快ではないか。
・若しかして今からでも200才近くまで生きられる可能性があるかも知れない。毎日食べる食材の組み合わせによって悪環境を中和して毒性を緩和しているかもしれない。米と肉と苦瓜と忍辱と、湧き水と、窒素が多目の空気と…等々の組み合わせを摂取して知らぬ間に命を伸ばしているかもしれない。良い食材と毒素を含む食材、共に毒素を含む食材と食材が化学反応を起こして命を削る要素を駆逐している事も無いとは限らない。
・食生活は国、地方、家庭、ごとに異なっている。家庭内でも長年に亘る食材の摂取の組み合わせが同じものはない。これが寿命の長短に拘わっている事は間違いなかろう。地球的は大気や水温の変化も場合によっては思わぬ長寿を齎す可能性が無きにしも非ずだ。どうせ死ぬまでは生きている身体、何はともあれ自分は200才まで死ぬ気はしないと思って生きていくことにしよう。こう考えてみると気が楽になる。今の自分はまだ寿命の半分にも遠い状況にある。ついこの前まで、あと10年以内にはやり遂げなければならない、と焦り気味に考えていたことが、十分余裕でやれるとゆったりした気分になる。
・ただ、年を取ると足腰が弱り、独りではどうしようもなく、人の世話にならずには済まなくなってくる。これには精神的な苦を免れない。肝を据える必要がある。どうせこの世は苦の世界だ。人生の苦という苦を舐め尽してやろうというぐらいの「覚悟」をしなければならない。
・考えると色々あるが、ともあれ今日からは「自分の寿命は200才」と[覚悟]を決めて生きることにしよう。