インド洋の戦いが太平洋の戦いへ変えられていく過程
当初日本はインド洋で、連合国の輸送船の撃沈を主目的として開戦を決断しました。それは昭和16年11月15日の大本営政府連絡会議で決まった戦争戦略から明らかです。しかし、前回のブログで書いたように、主戦場はミッドウェーやガダルカナル島など太平洋方面へ変えられていきました。どのようにして当初の戦争戦略は変えられてしまったのでしょうか?日本は昭和16年12月8日の開戦から昭和17年3月の時点でインドネシアの油田を無傷で手に入れて、第一段作戦は成功しました。そして昭和17年3月7日、大本営政府連絡会議で第二段作戦の詳細検討のために「今後採るべき戦争指導の大綱」が決定しました。これが決定された内容の原本の写しです。◎昭和17年3月7日大本営政府連絡会議決定第1項から第6項ありますが、重要なのは第1項です。他の項目は当初の戦争戦略と変わりませんが、第1項は戦争戦略に大きな変化を与える内容だからです。読みにくいので第1項だけ書き写します。「1.英を屈服し米の戦意を喪失せしむる為、引続き既得の戦果を拡充して長期不敗の攻戦態勢を整えつつ、機を見て積極的の方策を講ず」赤字で書かれた文言が非常に重要な意味を持ちます。本来、第二段作戦はインド洋へ向かってその制海権を奪うことが最優先事項です。特に米海軍主力に対しては、極東に誘致しつつ適時撃滅する、守勢作戦で対処するはずでした。それが、赤字の文言が加えられた事で、積極的に太平洋方面へ戦線を拡大する布石となってしまいました。実際にその後、昭和17年4月15日に日本海軍で決定された具体的な作戦計画にミッドウェーやニューカレドニア島などの文言が入ってきます。ニューカレドニア島は南半球のニュージーランドの北に位置します。日本から見ると、ガダルカナル島の少し南にいった所にあります。つまりガダルカナル島よりも遠いのです。はっきりいって日本からこんなに離れた場所を攻撃する意味はありません。戦略的意図もまったく不明な作戦が実際に作戦計画として決定されてしまうのです。昭和17年4月15日に海軍統帥部が決定した第二段作戦計画を見てみます。 陸軍と協同して「フィジー」「サモア」及び「ニューカレドニア」を攻略し、その地点に潜水艦及び航空基地を整備して、米豪間の海上交通及び航空路を遮断する 主として敵の奇襲を困難にするため「ミッドウェー」を攻略する上記の作戦計画が永野修身海軍軍令部総長の裁可を得ます。海軍統帥部の作戦計画については下記、ブログ記事参照真珠湾奇襲がアメリカ世論を参戦に変えた | 時間が無い人でもサクッとわかる現代社会の仕組み (ameblo.jp)そして実際に昭和17年6月5日にミッドウェー海戦、昭和17年8月7日からガダルカナル島の戦が始まります。戦略的意図が不明な作戦によって日本軍は壊滅的な損害を受けます。海軍のみならず陸軍までもが大損害を受けることになってしまったのです。この2つの敗戦によって日本海軍はインド洋へ進出する機会を完全に逃してしまいました。もはや日本軍にはインド洋へ進出する余力が残っていなかったからです。日本がインドネシアの油田を手に入れた直後、直ぐにインド洋へ進出していれば、まだ戦力が十分あったのでそれなりの成果が得られたと思います。陸軍も協力してインドの独立を刺激するため西進して、英国の植民地へ戦線を拡大すれば、英国は兵糧攻めにより包囲屈服させる事が出来ました。英国の輸送網を遮断すれば中国やソビエトへの軍事支援も途絶えます。重慶の国民政府の屈服も時間の問題となるでしょう。陸軍と海軍が連携して当初の戦争戦略に基づいて合理的に作戦を実行する事が重要だったのです。しかし、上記で説明したように海軍の戦略的意図が不明な作戦が決定されてしまったので、主戦場は太平洋方面へと変えられてしまいました。このような過程によってインド洋作戦を始めとする西進戦略は完全に崩壊してしまいました。※参考文献日米開戦 陸軍の勝算 (祥伝社新書)Amazon(アマゾン)624〜2,793円大本営海軍部・聯合艦隊〈2〉 (1975年) (戦史叢書)Amazon(アマゾン)2,963〜65,400円