もともとパラオには貨幣経済すらなく、パラオの人達は自給自足の生活を送っていました。

自分達が生きていくのに必要な食料を確保して物々交換して必要な物を得ていました。

 

1919年に正式に日本の統治領になって、1922年にコロール市に南洋庁が設置されました。

当時の南洋庁長官は現地住民について次のように述べています。

 

「我々の任務は、島民の福祉を増進することにある。風俗の変改が必ずしも唯一の目的でない。同時に、習慣や古いしきたりの保存も重要な問題ではない。そうではなく、1日も早く、人種的、民族的差別が消滅し、混然融合した同じ国民となることを願っている」

 

当時の現地住民は、男はふんどし、女も腰みのだけで上半身裸の状態で、その彼らと1日も早く同じ国民となることを願っていたのです。

 

人種的民族的差別が消滅し、日本人もパラオ人も1つにとけ合うことを望んでいたのです。

 

日本統治時代の幕上げとともに、日本との貿易が盛んになると工業が発展し始めました。

労働者の需要は広がり、日本からの移民も増えました。

 

現地の人々も労働に駆り出されるようになり、それによって金銭を労働の対価として取得するようになりました。

パラオの人達は働いて現金を稼ぎ、消費するという近代的な消費社会の中に組み入れられていきました。

 

様々な商店や会社が営まれ貿易が盛んになりました。

しかし、金を稼げる仕事の多くは日本からの移民のものであり、現地の人々が雇われることは少なかったようです。

 

当初の主なパラオ人の仕事はコプラ生産でした。

コプラは化粧品の油の原料になりました。

 

それを朝鮮や沖縄からきた仲買人に売って現金収入を得ていました。

一般のパラオ人は技術や資本がなかったので漁業や農業といった産業は日本からの移民が行っていました。

 

それでもコプラ生産以外で仕事を見つけるパラオ人もいました。

庭先で果物や魚を売ったりして日本人相手に商売をしている人もいたようです。

 

また日本の会社に雇われて仕事をするパラオ人もいました。

日本の会社が農場を作ってパラオ人を雇っていました。

 

日本人に雇われてあれこれ教わるうちに知識を得て、野菜や果物を栽培するようになったパラオ人も多くいました。

 

コロール市では少人数だが自営業を営む者も現われました。

パン屋、魚屋、床屋、食堂などを経営していました。

 

広い土地を持っていた者は日本人に土地を貸すことで思いがけない高収入を得るようにもなりました。

 

このころ日本とパラオの貿易を取り仕切っていたのは、南洋貿易株式会社という日本の商社でした。

通称「南貿」と呼ばれ島の人々から親しまれていました。

 

南貿は各地に大小デパートを開業して、ナイフ、器、鍋、ランプ、布、ゴムサンダル、缶詰などの日本からの輸入品を売り出しました。

 

そのほかにも人と荷物を運ぶ為に各島の間を結ぶ船を就航させたり、島の人々の交通手段としてバスを運行させたりしていました。

 

またパラオに多く残されていた未開の土地を開拓させる為に拓殖業も営んでいました。

北海道ほどの広さの土地を開拓しサツマイモやサトウキビ、野菜などの農園を持ち栽培しました。

 

このように様々な産業が発展していきコロールにはデパートができて、そこにいけば何でも手に入るようになりました。

 

 

経済が発展するにつれて日本人の移民も増え続けました。

1930年:約2万人、1935年:約5万人、1940年:約7万7千人、1945年:約10万人

と増えていきました。

 

日本の会社も南洋庁も生活習慣や言語の違いを理由にパラオ人よりも日本人を多く雇ったため、移民は仕事を容易に手に入れることが出来ました。

 

当時は南洋という言葉の響きもよかったようで、ロマンチックなイメージから南洋ブームが日本では起きていました。

南洋に憧れ夢を求めて渡った人も少なくなかったようです。

 

経済専門家の中には

「満州に移民として渡るより南洋の方が衣服にも家屋にもお金がかからない。海も陸も資源が豊富なため、食べることにも困らないし、将来的にも有望だ」

という者もいました。

 

こうして経済の成長とともに人も物もあふれ、繁栄の時代を迎えることとなったのです。

現地の人達が、「日本時代が1番よかった」という主な理由は、このような経済的発展が根底にあるのです。

 

現地の人達にもお金があり、自由があり何でも出来たという想いがあるようです。

なので現地の人達は統治する日本人に対して、強い差別意識は感じていませんでした。

 

文化が進んでいるものが来て統治するのは当然という意識があり、差別という感覚をもっていなかったようです。

また日本人の方でも島民を差別しないように意識的に教育されていました。

 

日本の政策が現地の人達にも評価されていました。

教育の質がよく日本統治時代はパラオ人はまじめで良く働いていました。

 

このように日本統治が成功したおかげで、パラオの人達は日本人を尊敬して憎む人は誰もいなかったようです。

 

 

※参考文献