スメドレー・D・バトラーという人をご存知でしょうか?
彼はアメリカの海兵隊の英雄で、その輝かしい活躍から1915年に連邦議会から名誉勲章を受けました。
名誉勲章とは、米国議会の名において大統領が授与する米国最高の軍事勲章です。
他にも第1次世界大戦の戦功から陸軍功労賞、海軍功労賞、それにフランス黒星勲章も授賞しています。
日本人でバトラーを知っている人はほとんどいないと思います。
それは歴史の教科書に一切出てこないからです。
そしてそれは日本に限った事ではなくアメリカでも同じです。
アメリカ人でも知らない人は沢山います。
まさに歴史から消されてしまったかのような存在なのです。
なぜ歴史から消されてしまったのかを理解するにはバトラーが残した足跡をしっかりと知る必要があります。
彼の残した足跡はあまりに影響が大きく、それをそのまま後生の人達に知られてしまっては都合の悪い人達が沢山いるからです。
しかし、20世紀のアメリカの歴史でこれほど重要な足跡を残した人物は他にいないと思います。
それは、彼が勲章を沢山もらったからではありません。
1931年に50歳で海兵隊を退役した後、平和運動家として様々な活動をしたからです。
バトラーが戦争反対を唱えるようになったのは、軍隊が政治屋と一部の資本家の手先となって戦い、彼らが国内で領土拡張と金儲けの作戦にうつつを抜かしている間に、多くの兵士はただ同然の値段で命を犠牲にし、その家族が悲しみを負わされた現実を実際に見てきたからです。
スメドレー・D・バトラーは、1898年に16歳で海軍の予備兵として入隊しました。
それから33年間にもおよぶバトラーの軍歴が始まりました。
18歳の時、士官試験を受けて合格し、海兵隊の少尉に任官しました。
そして、まもなく訓練らしい訓練を受けずキューバに送られました。
それからフィリピン、中国、プエルトリコ、パナマ、ニカラグア、メキシコ、ハイチの各地を転戦しました。
1898年米国・スペイン戦争、同年の米国・フィリピン戦争、1900年の清(中国)義和団の乱、1903年のホンジュラス蜂起、1914年のベラクルス(メキシコ)攻略、1915年のフォート・リビエール(ハイチ)攻略などで海兵隊員あるいは指揮官として活躍しました。
第1次世界大戦ではフランスで第十三海兵隊連隊を率いて戦い、これらの戦いで活躍が評価されて様々な勲章を授賞したのです。
こうしてバトラーは米国海兵隊の英雄にまつりあげられました。
彼は下級兵士と塹壕で過ごし、あるいは戦闘ではなるべく犠牲者が出ないようにしたという事もあって、とくに一般兵士の間の人気が高かったのです。
セオドア・ルーズベルト大統領は彼のことを「米国最高の戦士」と呼びました。
バトラーが1941年6月に病死した翌年には、駆逐艦に彼の名前がつけられました。
その船は、第2次世界大戦のヨーロッパ戦線と太平洋戦線で活躍しました。
ところが、その「海兵隊の英雄」が米国の対外的な軍事拡張を厳しく批判するようになりました。
1929年頃から自らの体験に照らして、ウォール街の利益のために一般兵士を犠牲にする戦争はやるべきではない、と主張し始めるのです。
こうしたことを彼は講演や小冊子で訴えました。
海外での長い戦争体験に基づく、しかも歯に衣を着せぬ彼の講演や記事は好評で、論議を呼ぶことも多かったようです。
たとえば、1929年末、バトラーは米国が「民主主義」を輸出するという名目で海兵隊を使って中米の選挙に介入したことを公然と非難しました。
海兵隊が1912年にニカラグアで、後にハイチで、選挙を操作した、と主張しました。
当然これらの主張はアメリカ政府高官に受け入れられず、彼は出世の道が阻まれ1931年に少将で海兵隊を退役するのです。
退官後のバトラーの国民的名声はさらに上がり全国の在郷軍人会などで講演する機会が増えました。
彼は様々な講演や執筆を行いました。
そして、1935年に「War is a racket」(戦争はいかがわしい商売だ)という小冊子を書いたのです。
※参考文献