ボースはベルリンでトタン屋根の上の猫のようにいらだっていました。
日本軍はインド国境に迫っているのに自分は何も出来ないでいる焦燥感に打ちひしがれていました。
いま自分が直ちにビルマに赴くことが出来れば、日本軍と共にベンガルに侵入し、カラカラに乾いたわら束に松明を投じる事が出来る。
そうなれば全インドは忽ち騒乱のるつぼとなり、弱体化した英軍はインドから放り出されて、独立の悲願も容易に達成できるではないか。
ところが自分はこの千載一遇の好機に遠いドイツで時間を空しく浪費しているではないか。
ドイツでボースが出来る事と言えば強力な海外放送を通じてインドへ対英抵抗運動を呼びかける事ぐらいである。
日本はボースの利用価値について1942年の前半頃はまだ半信半疑でした。
しかし徐々に大本営にもインド独立工作とそれに占めるボースの独立運動の重要性が認識され始めました。
このころ東南アジアのインド人で組織されたインド独立連盟(IIL)とインド国民軍(INA)が発足しました。
インドで焦燥の日々を送るボースにとって唯一の慰めは、エミリーというオーストリア人と結婚して家庭を持った事でした。
エミリーは1942年11月に女の子を出産しましたが、父親の名は明かさずにいました。
独立運動にたずさわるボースが家庭を持つ事は妻子を危険にさらす恐れがあると考えられボースとエミリーの結婚はドイツの同志たちのごく一部しか知らず、ボースがこの後アジアに行ってからも一言も漏らしませんでした。
Uボート便乗の日も迫った1943年2月はじめ、大島大使はボース送別の宴を開きました。
席上、大使は日本の参謀本部から届いた電報を見せました。
それには
「ボース氏来日するも一切無条件なり。他のインド人の下に働く場合あるべきを本人に伝えおかれたし」
と書かれていました。
この電報の背景には当時アジアでインド独立運動を指導していたラース・ビハリ・ボースの存在がありました。
ビハリ・ボースとチャンドラ・ボースは血縁上も運動面からもなんのつながりもありませんでした。
ビハリ・ボースはチャンドラ・ボースよりも一足先に日本に亡命していました。
中村屋のボースとして有名でした。
東京・新宿で菓子製造・レストランを営む「中村屋」の創始者が一家ぐるみでかくまい日本で亡命生活を送る事が出来たからです。
ヒバリ・ボースは日本人と結婚して1923年に日本に帰化しました。
ビハリ・ボースはその後もインド独立運動を行い、日本と米英との対立が先鋭化した1941年初め、参謀本部を訪れインド独立に日本の武力援助を要請していました。
そんな経緯からビハリ・ボースは参謀本部と親しく、2人のボースが運動を分裂されるのではないかとの心配があり、このような電報が打たれたのです。
ただし、ヒバリ本人はチャンドラ・ボースの声望と力量を充分承知しており、チャンドラ・ボースが来日すれば喜んで運動の指導を委ねると明言していました。
一方のチャンドラ・ボースもこの電報を見て、
「私の目的はインドの独立、これのみです。この目的のためなら、なんびとの下でも働きましょう」
と笑って答えました。
1943年2月、チャンドラ・ボースはUボートに乗艦して、その後、4月28日、マダガスカル東海上で日本潜水艦と会合して移乗しました。
その後、5月6日にインドネシアのサバン島に到着しました。
出迎えたのはドイツ亡命中にボースの日本行きを熱意をこめて工作してくれた、あの山本敏大佐でした。
ボースは山本大佐の姿を確認すると、いきなり抱きつき
「私はこの喜びを、天地と神に感謝する」
と言い、手を力いっぱい握りしめました。
ボースは山本大佐と連れだって宿舎へ入りました。
テーブルの上には長旅の疲れを癒やそうと、パパイヤ、マンゴー、マンゴスチンといった南国の珍しい果物が山盛りになっていました。
90日近い海底の旅で新鮮な果物にとびつくだろうと思っていた周囲は、ボースがそれに見向きもせず、すぐさま山本大佐とドイツ語でアジアの戦況と情勢の検討をはじめたのには驚きました。
ボースが真っ先に聞いたのは
「日本はいつ、インドに進攻するのか」
でした。
5月16日、ようやくボースは東京に到着しました。
東京到着後、杉山参謀総長、永野軍令部総長など日本政府高官らと会い協力を取り付けました。
杉山参謀総長の会見でボースは開口一番
「日本はアッツ・キスカ島(北太平洋ベーリング海にある島)を占領する兵力があるのに、なぜ直ちにインドへ進攻しないのですか。日本軍の支援を得て、私を先頭にインド国民軍がベンガルに進攻、チッタゴンあたりに国民軍の旗を建てさえすれば、必ず全インドはわれわれに呼応して反乱し、イギリスはインドから出ていかざる得なくなります」
と述べました。
当然、杉山参謀総長は言葉に窮しました。
もしタイムマシンがあって私がこの場にいたら、
「それは海軍統帥部に裏切り者がいて、インド洋を封鎖するという日本の本来の戦争戦略を無茶苦茶に壊したらからですよ」
と言ったかもしれません。
下記ブログ記事参照
インド洋の戦いが太平洋の戦いへ変えられていく過程 | 時間が無い人でもサクッとわかる現代社会の仕組み (ameblo.jp)
そして、6月10日東条首相と会見し、会うとたちまちボースの魅力の虜になってしまいました。
会見後
「さすがに英雄だね、頼もしい人物だよ。インド国民軍を指揮する資格は充分にある」
と感想を語りました。
ボースにはその弁舌や識見のほかに、風采、容貌、表情、しぐさなどから来る、独特の魔力に似たものがあり、たいていの人間は初対面で惚れ込んでしまうことが多かったようです。
ボース自身もその能力を意識しており、側近に、
「私にどんな悪感情を持っている人物でも、会えば説得できる自信がある」
と語っています。
ボースは東条英機の国会演説を傍聴しました。
「われわれは日本がインドの独立を援助するために、可能な限りを尽くすよう、ここに固く決意するものであります」
と明確な約束をしました。
そしてボースは、6月19日、記者たちに声明を発表しました。
「日本こそは19世紀にアジアを襲った侵略の潮流を食い止めようとした東亜で最初の強国であった。1905年のロシアに対する日本の勝利はアジアの出発点であり、それはインドの大衆に熱狂的に迎えられたのであった。アジアの復興にとっては過去において必要であったように現在も強力な日本が必要である。インド人の対日観が日中戦争勃発によって多少悪化したことは事実であるが、大東亜戦争の開戦によって事態が根本的に変化した今日、日本はインドの敵を相手にして戦っているのであり、しかも重慶は米英陣営に加担しているのである。そのうえ蒋介石は英国のビルマ及びインド支配継続を全力をあげて援助しつつあるではないか。インド人大衆は独立問題の理論闘争には何ら関心を示さず、ただ一筋にインドの政治的・経済的解放を熱望しているのであるから、当然、インドの独立を支援してくれる勢力は全てインドの友である」
英植民地主義と戦う日本はインド独立の真の友であると熱く語りました。
6月21日、ボースは東京から祖国インドへ向けラジオで第一声を送りました。
「インド人たちよ、私はいま東京にいる。大戦が勃発したとき、会議派のある者は、圧力と妥協によって英国から自治と独立への譲歩が引き出せると考えた。しかし英帝国主義は微動もしていない。英国が自発的に植民地を放棄するであろうと期待することこそ、真夏の夜の夢にすぎない。1941年から1942年に行われたような引き伸ばし交渉は、独立闘争を横道にそらせ、インド人の独立意識を低めるために計画されただけだ。われわれの独立に妥協は許されない。真に自由を欲する者は、自らの血をもって戦いとらねばならぬ」
※参考文献