東京で大きな成果を得たチャンドラ・ボースは、ビハリ・ボースと共に1943年7月2日、シンガポールに行きました。
空港にはインド独立連盟、インド国民軍の首脳陣が勢揃いしていました。
日本側からも南方総軍司令部職員、山本大佐らが出迎えました。
ボースは白い背広姿で機上から降り立ち、インド少女から首に花束をかけてもらい、インド国民軍の将兵を閲兵しました。
7月4日、インド独立連盟の大会で、ビハリ・ボース総裁からチャンドラ・ボースを新総裁に推挙するとの提案が出され、満場の割れるような拍手で可決されました。
チャンドラ・ボースは新総裁として演壇に立ち、自由インド臨時政府樹立の計画を発表し、インド国民軍の最高指揮官として訴えました。
「われわれの前途には冷酷な戦闘が待っている。自由を手にするための、この最後の前進において、諸君は危険と飢渇と苦しい強行軍と困窮と、そして死に直面しなければならない。この試練を乗り越えたときのみ、自由が得られるであろう」
聴衆はもはや我を忘れて拳を振り上げ、絶叫した。
「自由インド万歳、ネタージ万歳」
これ以降、チャンドラ・ボースはネタージ(指導者)の称号で呼ばれるようになりました。
参加者が印象づけられたのは、ビハリの年老いて背中をまるめた弱々しさにくらべチャンドラが堂々とした体格で働きざかりの精気にあふれ胸を張った姿でした。
ビハリはこのころ独立運動と国民軍の間の内紛からくる心労で重い病にかかっており、彼は1年半後、ロウソクが燃え尽きるように亡くなりました。
インド国民軍は、日本が大東亜戦争を起こして東南アジアのマレー半島やシンガポールで英軍と戦闘中に捕虜となった英印軍将兵の中から志願者を募って編成されていました。
また、元捕虜だけでなく、東南アジア在住のインド人からも志願者を募ったため、総兵力は約45,000人に達しました。
このインド国民軍が「自由インド」「インド解放」をスローガンに、日本軍とともに1944年3月から始まるインパール作戦に参加したのです。
ボースがまず着手しなければならなかったことは、インド国民軍の組織固めでした。
士気・団結心を奮い起こすことだったのです。
7月5日、ボースは東条首相と共にインド国民軍を閲兵しました。
そこでボースは高らかに叫びました。
「兵士諸君!これからの我々の合い言葉は”チェロ・デリー”(デリーへ進軍)としよう。我々のうち果たして幾人が生き残って自由の太陽を仰げるか、私は知らない。しかし私は知っている。我々は最後の勝利を得ること、そして我々の任務は、生き残った英雄たちがデリーのレッドフォートで、勝利の行進をするまで終わらないことを」
レッドフォートとは英軍総司令部のある場所で、第2次世界大戦後、インパール作戦に参加したインド人将兵を裁判にかけた場所です。
レッドフォートはインド人の歴史的怨念の象徴でした。
1857年のセポイ(イギリスの傭兵)のイギリスに対する大反乱の最後の拠点であり、インド最後の皇帝、バハードゥル・シャー二世が勝ち誇った英軍によって裁判にかけられ、廃位と流刑を宣告された場所でもありました。
東条首相はこの格調高い演説に耳を傾け、ボースに対する信頼をいっそう増したようです。
次に東条首相は演壇に立ち、日本はインドに対し、領土的、軍事的、経済的野心を全く持っていないこと、インド解放のため全力をあげて援助することを約束しました。
ボースはインド国民軍の再組織にとりかかりました。
彼は卓越した大衆扇動家であると同時に天性の組織者でもありました。
インド国民軍を単なる軍隊ではなく、独立運動の中核として機能するようにしました。
各部門の責任者に予定されていた人物には、時間をかけて話し会い、活動の目的と範囲を明確にしました。
ボース自らは最高指揮官としましたが、わざと階級を持ちませんでした。
それは軍内部で無用の摩擦が起こる事を避ける為でした。
インド国民軍に参加しているインド人は、元英印軍の将校クラスから軍事経験のない一般人がいたので過去の軍歴などの階級を意識して混乱を起こさせない為に、ボースみずからが階級の無いことを示す事で軍を1つにまとめようとする目的がありました。
ここで、作戦部長にシャ・ヌワーズ・カーン中佐が選ばれました。
彼は、第2次世界大戦後、レッドフォートでの裁判で重要証言をする事になります。
陣営は整いましたが、装備、兵力、人的構成にはまだまだ問題がありました。
ボースはことあるごとに日本軍に日本製兵器を供給してくれるよう強く要請しましたが、日本軍自体が兵器不足に苦しんでいたので簡単には解決しない問題となりました。
7月9日、シンガポールの中央公園で開かれた集会でボースは演説しました。
この集会には、マレー、シンガポール在住のインド人6万人以上が集まりました。
この集会でボースは女性も独立への戦いに参加できるよう、婦人部隊を編成する計画を明らかにしました。
若い女性たちはその場で続々と志願しました。
婦人部隊はジャンシー連隊と名付けられました。
ジャンシー連隊は後方勤務だけでなく戦闘にも参加できるように訓練を受けました。
これは日本軍関係者には理解を絶することだったので、
「女など戦力になりっこないから、そんな部隊になけなしの武器弾薬を支給できない」
と反対しましたが、ボースは、
「女性まで独立戦争に銃を執って立つというインド人の決意を示すために必要なのだ」
と強行に押し切りました。
※参考文献