ボースがベルリンに着いたのは1941年4月3日でした。

到着後、ボースはドイツ政府に「インド独立運動に関する覚書」を提出しました。

 

そのなかで2つのことを要求しました。

1.自由インド・センターを設立、ラジオ放送を行う

2.インド独立軍を組織、アフガニスタン国境からインドへ進攻する

 

当時のドイツはヨーロッパ戦線で優勢でボースの前途も光明に包まれているかに見えました。

ドイツ外務省と軍部はボースの要求を受け入れましたが、インド独立を呼びかける宣言には冷淡でした。

 

センター設置とラジオ放送も直ぐには進まずようやくセンターが設置されたのは11月2日でした。

またボースはヒトラー総統との会談を強く要望しましたが、実現したのは1942年5月になってからでした。

 

しかし、ヒトラーはインド独立には関心がなく、ボースは会談ではほとんどなんの成果が得られずにいました。

 

 

その頃1941年10月下旬、太平洋をはさんで日米間で一触即発の険悪な空気がみなぎり始めました。

同じ時期、駐ドイツ陸軍武官補佐官の山本敏大佐は大島浩大使と共にボースに初めて会いました。

 

すでに2ヶ月前、日本の陸軍参謀本部から、対英戦の場合のインド工作の参考として、

「ボースの人となりを直接観察して報告せよ」

との訓令が届いていたからです。

 

山本大佐はたちまちボースに惚れ込んでしまいました。

 

亡命者にありがちな卑屈さはみじんもなく、ときに腹の底から声を高くして笑う明朗さ、インド独立への激しい闘志を秘めながら、大言壮語するでもなく、自己を顕示することなく、あくまで教養豊かな紳士として振る舞うその風格に魅せられたのです。

 

その後、ボースは10日に1度くらいずつ大使館に現われ、山本大佐らと歓談しました。

 

1941年12月8日、日本は米英に宣戦を布告しました。

 

戦勢を注意深く見つめていたボースは、日本軍のマレー進攻作戦の進展ぶりを見てクリスマスの翌日、日本大使館を訪れ切々と訴えました。

「私はインド脱出の際、もし日本が英国と戦っていたら、万難を排しても日本行きを強行していたでしょう。いまや日本軍マレー占領は必然であり、やがてビルマに入り、インド国境に迫る日も遠くはない。私はいままで独立運動の次善の策としてドイツで二階から目薬をさすような努力をしてきました。ここで私はなんとかしてアジアへ赴き、祖国インドの解放のため、日本と手を携えて戦いたい。たとえ一兵卒としても英国と直接戦いたいのです。どうかこの切望がかなうよう、日本政府へお取り次ぎいただきたい」

 

それまで一度もボースに日本行きを勧めたことはありませんでした。

東京からはボースの人物調査の訓令だけでそれ以外の指令は何1つ受けていなかったからです。

 

しかし、大使らはボースの真摯な申し出に動かされ、即座に東京へ伝達する事を約束しました。

 

翌年1942年2月15日、シンガポール陥落のニュースを聞いてボースの懇願はますます熱気を帯び、毎日のように督促してきました。

 

下記、ブログ記事参照

真珠湾奇襲によって壊された日本の戦争戦略 | 時間が無い人でもサクッとわかる現代社会の仕組み (ameblo.jp)

 

 

しかしもともと日本大本営は開戦当初からインド進攻計画はありませんでした。

 

1941年11月15日に大本営政府連絡会議で決まった、

「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」

には第二項に「日独伊三国協力してまず英の屈伏を図る」とあり、方策として(ロ)「ビルマの独立を促進してその成果を利導してインドの独立を刺激す」と記載があります。

 

しかしこの意味は日本がインドに進攻するのではなく宣伝謀略の一環としてインドの独立気運を煽り、英国の力を削ごう、というものに過ぎませんでした。

 

現実的にインドは日本から地理的にも遠すぎるし開戦当初の日本の最大の目標はシンガポール要塞の攻略でした。

その後はイギリスから中国大陸への補給路の要である援蒋ルート(ビルマルート)を遮断する為にビルマ攻略を主眼としていました。

 

陸軍はビルマを抑えて、海軍はインド洋の制海権を取りイギリスを兵糧攻めにするのが目的だったのでインドに進攻する意図は当初からありませんでした。

 

しかし、実際にはこの時期の日本軍はまだ軍事力があり、ビルマ攻略後すぐにインドに進攻していればある程度の成果は得られたという専門家は多くいます。

 

米英はアジア方面での戦時体制が整っておらず、実際に1942年1月4日にシンガポール、1942年5月末にビルマまで日本軍に占領されていました。

 

1942年6月22日、ドイツ海軍のブリッケ作戦部長はベルリン駐在の三国同盟軍事委員、野村直邦中将の来訪を求め、テーブルを叩きながら日本海軍が即刻インド洋へ進出するよう熱烈に要望しました。

 

しかし、その後の日本海軍は米海軍と決戦しようと太平洋方面へ進出し、兵力を消耗してしまったのです。

日本が太平洋方面へ海軍に引きずられて兵力を消耗してしまった経緯は以前のブログに書きましたので、そちらを参考にして頂ければと思います。

 

下記、ブログ記事参照

秋丸機関の戦争戦略を壊した三本の矢 | 時間が無い人でもサクッとわかる現代社会の仕組み (ameblo.jp)

 

 

結局、日本は1942年8月末になってやっとボースの招致に「原則的に同意する」との返答をしました。

しかし、ボースを日本まで送る交通手段が問題となりました。

 

当時の世界情勢では海上での移動は危険率が高かったため、飛行機か潜水艦を利用するしかありませんでした。

様々な案が検討された結果、軍事技術交換のため、インド洋で日本潜水艦とランデブーする計画のドイツのUボートに便乗することに決まりました。

 

しかし、この計画実現は日独両海軍の細かい打ち合わせが必要で、ボースがUボートに乗り込むのは1943年2月まで遅れる事となりました。

 

もし、1942年の早い段階でチャンドラ・ボースを日本に招き、ボースを頂いたインド国民軍と共にベンガルへ進撃していれば、全インドは騒乱となり戦況はまったく違うものとなっていたであろう。

 

この1942年という”至宝の1年”にボースを日本に招致出来なかったのが、日本にとってもインドにとっても悔やまれる事となります。

 

 

※参考文献