ボースはつねに、苦しい闘争へ大衆を引っ張ってゆくために、彼らインド人に自信を与え、士気を鼓舞し続ける必要があると意識していました。

 

また、指導者は威厳を持たなければならないと考えていました。

どんな暑い日でも軍服姿で押し通し磨きあげた黒い長靴を脱ぎませんでした。

 

移動の際は必ず専用車を使い副官など側近を従えて乗り込み、威風堂々と行進しました。

「あまり仰々しすぎるのでは」

と批判されると、ボースは

「東南アジアのインド人は移民で本国よりさらに差別されてきた。彼らの劣等感を払拭し民族としての誇りを取り戻させるためには、彼らの指導者が日本軍の最高司令官に劣らぬ威厳を保つことが必要なのだ」

と答えました。

 

ボースはインド国民軍を急速に拡大させる為、睡眠時間を切り詰めてラジオで短波放送を聞き、情勢の分析と把握に努めました。

「自分はここへ来るのが1年以上も遅れてしまった。その間に日独伊枢軸の優勢も崩れ英米は日に日に態勢を立て直しつつある。そうなれば長い間の植民地統治で強いものにつき従っていくインド人のことだ。イギリスと妥協しようという傾向が強まるのは必至だ。急がねばならない」

 

1943年7月29日、ボースはビルマのラングーンに飛び、ビルマ方面軍の河辺正和司令官と初会見しました。

 

ボースは情熱をこめて説明しました。

「直ちに海外沿いに、あるいは海路、チッタゴン、カルカッタへ進攻すべきです。その際はインド国民軍を先頭に立てていただきたい。われわれの旗が独立革命の聖地、ベンガルにひるがえりさえすれば、インド民衆はこの旗のもとに集まり、全土に反乱の火が燃えひろがり、大混乱に陥るでしょう。そうなれば英軍も必ず逃げ出します」

 

河辺軍司令官や列席者は、ボースの意気には打たれましたが、既に日本軍は劣勢状態です。

別ブログでも書きましたが、ガダルカナル島の戦い(1942年8月7日 - 1943年2月7日)によって兵力を消耗しているので、インドどころではありません。

 

下記、ブログ記事参照

インド洋の戦いが太平洋の戦いへ変えられていく過程 | 時間が無い人でもサクッとわかる現代社会の仕組み (ameblo.jp)

 

秋丸機関の戦争戦略を壊した三本の矢 | 時間が無い人でもサクッとわかる現代社会の仕組み (ameblo.jp)

 

 

 

勢力を増した英海軍を相手にするのは危険が大きいと考えてボースの構想に全く取り合いませんでした。

 

河辺将軍はボースが、意思の強い反面、高い教養と礼節を兼ね備えた人物であると感心しましたが、インド即時進攻論はあまりに危険すぎる為、ボースの真意をじっくり聞くよう命じました。

 

ボースは自分の戦略的見通しを次のように語りました。

  1. この大戦を契機に、武装闘争に立ち上がらなければインドの独立はかちとれない。その必要性をガンディーに説いたが承諾しなかった。自分が国外に脱出してドイツや日本に助力を仰いだのはそのためである。従って反英独立闘争のためには、どんな国家とも手を組むつもりである。その国のイデオロギーは問わない。
  2. インド国民軍は、日本軍のなかに組み込まれて戦うのではなく、ひとつの作戦正面を担当させて欲しい。これがインド民衆に対して絶大な宣伝効果をもたらし、革命の進撃となる。
  3. この戦争は長期戦になるであろう。従ってインド国民軍をますます拡大し、精強な軍隊にしなければならない。
  4. 現下の国際情勢は日独伊などの枢軸国に分が悪い。そこでインド民衆は迷っている。だからできるだけ早くインド進攻を決断しなければならない。そうしないとインド民衆は連合国側に引きずられ、対英妥協に陥りやすい。
  5. これを防ぐ道はインド国民軍が進撃してインドの一角に独立旗を立て、臨時政府を樹立して急進分子を呼び込むしかない。またこの政府が日本の支援を受けていることがはっきりすれば、その勢力はますます拡大するだろう。

 

ボースは1万3千の国民軍を5万に拡大したいと考えていました。

そして、インド国民軍を日本軍の補助部隊としてではなく、ひとつの正面を担当する同盟国軍として取り扱って欲しいと、強硬に主張しました。

 

8月末に南方総軍司令官寺内元帥と初めて会談したときに、元帥から

「戦闘は日本軍に任せていただきたい。インドが英国の支配から解放されれば、そのとき独立した領土としてあなたがたにお渡ししよう」

と語られたのに対し、ボースはきっぱりと

「いや、われわれは先陣を務めたいのです。インドの大地に流す最初の血はインド人のものでなければなりません。」

と答えました。

 

ボースはインド国民軍が日本の傀儡だと疑われるのを避ける為様々な要求をしました。

そのひとつに敬礼問題がありました。

 

日本軍、インド国民軍が対等の軍隊としてお互いに階級の下の者は上級者に対して敬礼をしなければならないと主張しました。

 

あまりに形式的と考える日本軍側は渋りましたが、最終的にボースの粘りに負けて遂に認めました。

 

またボースは日本の援助は無償提供ではなく、インド独立のあかつきには必ず返却する借款だとする方針を貫きました。

 

日本の援助を受ける事はやむを得ないが、それは紐付きの恩恵でなく、インド独立を私心なく助けるという日本の申し出を受諾して、対等の立場で受け取っているのだとする形式を崩したくなかった為です。

 

ボースがここまで形式的な事にこだわるのを笑う日本側関係者は多くいました。

 

しかし、インド国民軍が独立した軍隊であり対等の立場で日本軍と協同作戦を行っているという状況を作りだした事は、第2次世界大戦後に英国にとって不利に働きました。

 

戦後レッドフォートでの軍事裁判で英国はインド国民軍は日本の傀儡で、戦闘に参加したインド人は日本に強制されて戦ったという論拠で戦後のインド統治を有利に進めようとしました。

 

しかし、ボースがここまで形式にこだわった事でインド人将校にボースと同様の意識を持たせる事が出来ました。

インド国民軍は独立した軍隊でインド人将校は自分の意思で戦闘に参加しているという共通意識を持たせる事が出来ました。

 

その事が、戦後も引き続きインド人の独立意識を持たせ続け、裁判に出廷したインド人将校が正直に証言する結果に至ったと思われます。

 

 

インド国民軍が独立した軍隊であるという体裁をとるための最終仕上げは、自由インド臨時政府の樹立でした。

1943年10月21日、シンガポールで正式に設立されました。

 

ボースは国家主席兼首相兼国防相・外相となり内閣も組織されました。

 

ボースは高らかに独立宣言を読み上げました。

 

10月24日、ボースは5万人が集まった大衆集会で、英米に対する宣戦布告を読み上げました。

「私は諸君にこの宣戦布告を承認していただきたい。もし諸君がこの世に持っている全てをなげうち、生命を捧げる用意があるなら、どうか起立して欲しい」

 

聴衆はこぞって立ち上がり、銃を高くさし上げ、熱狂して

「ネタージ万歳、チェロ・デリー」

と歓呼しました。

 

 

※参考文献