2週間の休廷の間、民衆の抗議行動は沈静するどころか、日を追って燃えさかりました。
レッド・フォート内に留置されている国民軍将兵の意気も天を衝く勢いでした。
証人として砦のなかの幕舎に収容されていた藤原岩市は、毎朝、砦の一角から湧き起こる国民軍歌「カダム、カダム」の勇壮な歌声で眼を覚ましました。
留置中の数百人が英軍看守の制止を振り切って合唱していました。
英軍からは収監されている国民軍将兵に毛織の冬服を支給されましたが、彼らは見向きもせず、ビルマの戦いで汚れた熱帯用の薄地の国民軍の制服を着続けていました。
ネタージから授与された栄光ある国民軍の軍服と階級章をつけて法廷に立とう、敗れたりとはいえ仇敵のイギリス軍の制服は着用を拒否するという心意気からでした。
被告たちと面会した藤原は思わず、
「裁判は大丈夫でしょうか」
と聞きました。
ディロン中佐は胸を叩いて断言しました。
「ご心配は無用です。インドは1年以内に独立をかちとります。もしイギリスがわれわれの1人でも処刑したら、インドにいるイギリス人は1人も生きて帰国できないでしょう」
日本から召喚された証人は藤原のほか、軍関係者としてビルマ方面軍高級参謀だった片倉少将ほか磯田光機関長などでした。
藤原らが到着した2日後の11月20日、インド側被告・弁護団との初顔合わせがありました。
同行の沢田大使が言いました。
「ここへ来る途中の飛行機の中で考えたのですが、裁判対策としては情状酌量による減刑を狙うことに重点を置かねばならぬと思います。従ってインド国民軍は全く日本軍の手先となり、道具となってインパール作戦などに投入されたものであって、いま反逆罪に問われている国民軍将校たちも、彼らの自由意志で行動したのではなく、強制によるものであったと主張して、少しでも罪を軽くする方向へ持っていくのが良策と信じます」
インド側は仰天しました。
「冗談ではない。そんなことを証言していただくためにお呼びしたのではありません。ボース主席が終始一貫して努力されたとおり、インド国民軍は独立国である自由インド臨時政府の軍隊として、同盟関係にある日本軍と対等の立場で協同作戦を行ったのであると証言していただきたい。インド国民軍が日本軍の傀儡であったなどとは、絶対に言って欲しくありません。その結果、被告たちが死刑になっても悔いはありません」
11月21日、裁判は再開されました。
片倉少将はインド国民軍の独立性について証言し、インパール作戦の際、国民軍は日本軍の組織内に繰り入れられたのでなく、独立した戦術単位として別個の正面を担当し、作戦の進行中は日本軍の上級司令部の指揮に従ったが、それ以外のときは全く対等独立の存在であり、独自の軍事裁判権を持ち、敬礼を交換しあったと述べました。
藤原中佐はインド国民軍創設の事情について陳述し、英印軍捕虜の国民軍参加はあくまで個人の自由意志によるもので、決して強制されたのではないことを強調しました。
これらの日本側証人の証言は、自由インド臨時政府とインド国民軍が国際通念のうえで、主権国家とその軍隊として充分通用するだけの政治的・軍事的独立性を備えていたことを立証するのに足りるものでした。
これは裁判をインド側に有利に進める重みを持ったと同時に、インド全土のマスコミに報道され、ボースと国民軍に対する独立の先兵としての評価を更に高めました。
民衆の抗議行動はもはや反乱に近くなりました。
ガンディーの愛弟子として非暴力抵抗主義の忠実な信奉者であったネルーでさえ、裁判再開10日後の演説でこう述べざるを得ませんでした。
「反乱はインドの義務であり、もし自らを解放するために革命を行う用意のない民族があるならば、それは死んだ民族である」
ガンディーの呪縛は消え失せた。
全インドは反乱の薪を高く積んで裁判再開を待ち受けていました。
裁判再開の日、11月21日からインド各地でゼネストやデモが起こり警官隊との衝突で数百人の死傷者が出ました。
怒り狂った市民は英軍の施設はおろか、米軍の施設まで襲撃しました。
暴徒を満載したトラックが会議派とムスリム連盟の旗を押し立てて市内を走り回りました。
反乱はまたたくまに全土に波及しました。
藤原はレッドフォートに押し寄せる何万ともしれぬ群衆の叫びを聞きました。
どよめきが繰り返し城壁にこだましました。
うめき声が一段と高まり近づいた途端、ダダダッと重苦しい機関銃の発射音が響きました。
うめき声はウオーッという群衆の怒声に変わりました。
身の回りの世話をしていたインド人のボーイが血相をかえて城門の外へ飛び出していき、やがて息を弾ませて駆け戻り報告しました。
「死者何人、負傷者何人、郵便局と警察署が放火されて燃えている。英軍の車も焼き打ちされた」
※参考文献