インド各地で反乱が起こってる中、反乱側の水兵たちはボースがどこかで生存しているのではないかという期待を抱いていました。
水兵たちは自ら「インド国民軍海軍」と名乗りボースが指導者として姿を現してくれることを渇望していました。
しかし、ボースは遂に現われませんでした。
既成の政治家たちは事態の予想外の急進展に戸惑い、燃え広がる革命の火に国家の予想以上の混乱を避ける為、火消し役にまわる事態になりました。
ネルーはボンベイへ赴いて水兵たちを説得して反乱をとり静め、イギリスは反乱艦艇を取り戻しました。
1946年3月7日、デリーで英軍の対日戦勝記念パレードが催されました。
インド総督ウェーベル大将、東南アジア連合軍最高司令官マウントバッテン元帥の閲兵で、1万5千の英米軍が行進する予定でしたが、市民はこの行事をボイコットして、戸毎に弔旗(ちょうき)をかかげ、商店、工場は休業し、学校は休校しました。
式典の始まる頃、数万人の抗議デモがパレードの行われる凱旋門通りに押し寄せようとして、阻止する警官隊と激しく衝突しました。
英軍の栄光の日は、死者6人と多数の負傷者の血で染められました。
既にインドの独立は既定路線となっており、時のイギリス内閣はインドの完全独立を許すべきとの主張になっていました。
そのうえ第2次世界大戦で疲弊したイギリスにはあまりに巨大で絶えず反乱の危険性をはらんでいるインドを統治していけるだけの力は残されていませんでした。
もはやインドはイギリスにとってやっかいなお荷物でしかなかったのです。
インドの統治よりもまず、本国の復興こそ急務だったのでした。
時のイギリス内閣首相のアトリーは、イギリス議会下院で1946年2月19日と3月15日、声明を発表して、インドに臨時行政府を設置して自治権を譲渡して、さらに将来の憲法制定も、英連邦に留まるかどうかの選択も、インド国民の自由意志に任せるとの新基本方針を明らかにしました。
しかし、インドには多数の宗教や民族が存在していて統一したインドとして独立するには多くの課題がありました。
インド国内だけで20語ちかくの言語があり、宗教もヒンドゥー教やイスラム教を中心に多数存在していました。
特にムスリム連盟は分離独立の約束を取り付けようとし、統一したインドとして独立しようとする会議派との対立は解消不可能でした。
交渉の為の会談を開いてもたちまち行き詰まりました。
幾多の対立から衝突が起こり流血の惨事が起こる事もありました。
1946年8月16日、ムスリム連盟総裁ムハンマド・アリー・ジンナーが「直接行動の日」を定めると、カルカッタの虐殺が起こり、国内の宗教間対立も激化しました。
両者が歩み寄れる余地はなく、遂にネルーは1947年4月28日の憲法制定会議で、分離独立もやむなしとする態度を示しました。
1947年8月15日、インドは200年にわたるイギリスの植民地支配から脱して独立しました。
それはボースの悲願であった統一したインドではなく、ヒンドゥー国家とイスラム国家の2つに分裂しての独立でした。
インドの宗派対立、言語の異なる部族の対立は現在でも解消されておらず、深刻化しているともいえます。
もしボースが生きていたら、独立後数十年くらいは独裁政治を敷いて強権によって、しゃにむに分裂の回避を推進したかもしれません。
国民軍を編成、指揮したときにみせた、断固とした決意をみせるその指導力で分裂を回避させていたかもしれません。
デリーの中央公園の一角にスバス・チャンドラ・ボースの記念像が建てられています。
ヒンドゥー、イスラム、シーク教徒を象徴する3人の兵士を従えたボースは、大きく伸び上がって、その右手は真っ直ぐにレッドフォートを指さしています。
その死後もイギリスを震え上がらせ、インドを独立に導いたベンガルの虎は現在も悠然と佇み世界中に睨みをきかせています。
※参考文献