英印軍がチンドウィン河西岸に進出したのは、1944年11月末になっていました。

 

英印軍は12月中旬までに相次いでチンドウィン河を渡河して、日本軍を追撃しましたが、日本軍は既に10月初めからイワラジ河の線まで後退を始めていました。

 

チンドウィン河で英印軍の追撃を食い止めようにも、ビルマ方面軍には有力な予備兵力もなく、インパール戦線から身ひとつで辛くも撤退してきた兵士たちには、もはや防御戦闘を行う気力も体力も残されていませんでした。

 

後はイワラジ河の線で防御を固めるしかありませんでした。

そこでそれまでは戦闘力に対する不信から、補助的あるいはゲリラ的にしか使おうとしなかったインド国民軍をマンダレーとプロームの中間の正面の防衛を担当させることにしました。

 

雨季が明けて乾季に入ると共に、英印軍は本格攻撃をかけてきました。

 

1944年11月末、ラングーンに戻ったボースは早速、総司令官としてイワラジ河防衛のための国民軍拡張と再編成にとりかかりました。

 

インド国民軍は以下のように再編成されました。

第一師団(シャ・ヌワーズ・カーン大佐)

 第一遊撃連隊(シャ・ヌワーズ・カーン大佐兼任)

 第二遊撃連隊(I・J・キアニー中佐)

 第三遊撃連隊(グルザラシン中佐)

 

第二師団(アジズ・アーメッド大佐)

 第一歩兵連隊(S・M・フセイン中佐)

 第二歩兵連隊(P・K・サイガル中佐)

 第四遊撃連隊(G・S・ディロン少佐)

 

イワラジ河防衛の主力は新鋭の第二師団でした。

 

新編成の歩兵連隊を2個配属して兵員を600人増員して野戦に耐える形に装備を整えました。

ボースの呼掛けにこたえて東南アジア各地から志願した、新兵が多数入隊して士気は高かった。

 

1945年1月中旬、英印軍はイワラジ河に迫りました。

インド国民軍第二師団はマンダレーとエナンジョンの中間に位置するポパ山とその周辺に布陣することになりました。

 

1月末、ミンガラドン飛行場で出陣式が行われました。

ボースの激励を受けた第二師団はポパ山まで700キロに及ぶ徒歩行軍を開始しました。

 

ところが、2月11日、師団長のアーメッド大佐は出発を翌日に控えて、ラングーンで大空襲に会い、そのショックで寝込んでしまいました。

 

ボースは直ちに第二連隊長のサイガル中佐を師団長代理に任命しました。

サイガル中佐の第二師団は2月13日、ラングーン北方の日本軍司令部に到着しました。

 

日本軍参謀長はインド国民軍第二師団は優れた装備を持った野戦集団だと説明を受けていて、それを真に受けていました。

 

実際には武器・弾薬は乏しく、英印軍と比べあまりにも貧弱な装備しかしていませんでした。

しかし、それは日本軍とて同じで、分けてやれる武器・弾薬は皆無でした。

 

内情を知ったところでどうする事も出来ないのが現状でした。

 

参謀長は地図でインド国民軍の作戦区域を示し、

「国民軍は独立して作戦してもらう。この区域には日本軍は一兵も置かぬ」

と断言しました。

 

サイガル中佐は、

「それこそ我々がかねて主張してきたところです。誓ってご期待に応えます」

と意気天を衝く勢いでした。

 

2月10日ごろ、イワラジ河が大きく屈曲するポパ山近くのパガンの対岸、パコークに敵の有力な部隊が現われました。

インド国民軍の第四遊撃連隊は急遽、パガンの防衛を命じられました。

 

連隊長のディロン少佐は命令に従い12日、パガン守備につきましたが、陣地をつくるどころか、態勢を整える時間もないまま、対岸から敵の攻撃を受けました。

 

14日、英軍機と有力な砲兵を伴う本格的な攻撃を受けると、ディロン少佐の叱咤激励のかいもなく、連隊は夜には壊乱してしまいました。

 

この時、1個大隊は投降したが他の生き残り約500名は、ばらばらになりながらも師団司令部のあるポパ山まで後退しディロン少佐の指揮下に復帰しました。

 

ディロン少佐は実直で責任感溢れる軍人でした。

彼は、18日朝、師団長代理のサイガル中佐に報告しました。

「任務を果たせず多くの部下を失い誠に申し訳ありません。今度の敗戦の責任は私にあります」

少佐は声を詰まらせ、頬には涙が流れた。

 

サイガル中佐は、

「貴官の責任ではない。そもそも全く火力の支援がなくて防ぎきれるわけがない」

とあえて日本軍の責任であるとあてこすった。

 

日本軍の作戦計画が場当たり的で準備が全く出来てないので、ディロン連隊への支援が皆無だったことなどは弁解のしようもありませんでした。

 

しかし、当時の日本軍も戦闘力はかなり落ち込んでおり防衛計画も至る所で突き破られるのは必至というのが実情でした。

 

ディロン連隊壊滅の報を聞いたボースは1945年2月15日、第一師団長から第二師団長に補任したシャ・ヌワーズ・カーン大佐を伴い、第一線部隊視察と激励に出発しました。

 

ボースはかねがね、インパール作戦が失敗したのは、自分が陣頭に立たなかったからだと日本軍首脳に公言しており、今度は万難を排しても前線へ赴きたいと熱望していたのでした。

 

ボース一行はラングーンからメイクテーラへ車で向かいました。

しかし、メイクテーラが近づくと英軍機の爆撃音が大きくなり、随行している連絡将校の高橋少佐は、危険を感じて引き返しを提案しました。

 

2月21日朝、集落の入口にさしかかると英軍機の爆撃を受け危険がますます増大したと感じ、ピンマナまで後退するよう勧めました。

 

ボースはディロン連隊がパガンで壊乱したことを聞いていたので、承知しませんでした。

「最高司令官がここまで来て危険だからという理由で後退はできない。どうしても第一線へ行って将兵を激励したい」

 

「ディロン少佐はいま後方にさがって兵をまとめているときですから、そこへ最高司令官が行かれてはディロン少佐が可哀そうです。もう少し時期を待って彼がなんとか名目が立つようになってからいらっしゃってはいかがですか」

 

「こういう戦状の悪い時こそ、最高司令官が前線へ赴かねばならないのだ。私は戦死してもいい。アイルランド独立の歴史を読んでも、指導者は全て志なかばで非業の死を遂げている。しかしその精神は脈々と受け継がれて今日の独立が成就できたのだ。私がいま、ポパ山で第二師団を陣頭指揮して戦死しても、独立運動の精神はインド人の間に力強く残るだろう。ここで最後の決戦をやらねばならぬ」

 

しかし、シャ・ヌワーズ・カーン大佐もポパ山が猛烈な爆撃を受けているとの情報を入手してボースに危険だから思いとどまるよう懸命に説得したので、ボースもやっと後退に同意しました。

 

シャ・ヌワーズ・カーン大佐はボースとわかれて、深夜ポパ山に向かいました。

シャ・ヌワーズ・カーン大佐は22日、ポパ山に到着しサイガル中佐から報告を受け、翌日ボースに状況を報告するためメイクテーラに戻りました。

 

 

※参考文献