1945年12月30日、シャ・ヌワーズ・カーン大佐ら3人の裁判は結審しました。
軍法会議は英国王に対し反逆した罪で3人に無期流刑を言い渡しました。
しかし、この判決はインド民衆を刺激する事を恐れて公表されませんでした。
そして、翌年1月3日、英国総司令官オーヒンレック大将は次の声明を発表しました。
「被告3名を有罪とした軍法会議の判決は正当なりと認めるが、インド総督政府の方針にもとづき、総司令官の権限において刑の執行を停止する」
シャ・ヌワーズ・カーン大佐ら3人はただちに釈放されて、ニューデリーで3人の釈放祝賀集会が盛大に催されました。
ボースの巨大な肖像画が飾られた会場のガンディー記念グラウンドには大群衆が詰めかけ、たくさんの花輪を首にかけられた3人が壇上に上って3人の一語一句に万雷の拍手と歓呼が送られました。
大佐ら3人は獄舎の疲れを癒やす暇なく、全国へ遊説の旅に出発して各地で熱狂的歓迎を受けました。
それは、この国民軍将校の釈放が、200年にわたるイギリスの支配のもとでインド民衆の心の檻のようにこびりついていた、英国に対する畏怖と憎悪の入りまじった感情を払拭して独立への自信を与える生きた教訓であったからでした。
ボースが独立運動を指導したカルカッタでボースの長兄でベンガル州政界の指導者、サラット・チャンドラ・ボースが主催者となり、シャ・ヌワーズ・カーン大佐を迎えて開かれた歓迎集会は、かつて見ぬ華やかで盛大を極めたものでした。
イギリスは失墜した権威を回復するために、第2回軍法会議を開き、今度は国民軍のインド人に対する残虐行為を立証して、国民軍のイメージを低下させようと試みました。
反逆者である国民軍がインド民衆に英雄視されるのを放置しては、インド統治のうえからも、英印軍の規律維持のうえからも、耐え難いことだったからです。
標的に選ばれたのは、国民軍での軍規粛正の責任者、アブドゥール・ラシード憲兵少佐でした。
少佐はイスラム教徒だったので、今度はムスリム連盟が大々的な抗議行動を展開して、ヒンドゥー教徒と共闘を組みました。
2月11日から14日までカルカッタ、ボンベイ、デリーで、今まで見られなかったスタイルのデモが頻繁に行われました。
それはヒンドゥー教徒とイスラム教徒がスクラムを組んで行進する姿でした。
カルカッタでは戒厳令が布かれ、警官隊の発砲で19人の死者と約500人の負傷者が出ました。
止めを指したのは軍隊の反乱でした。
ラシード少佐の裁判の進行中、5200人の空軍兵士がストライキに突入していましたが、その後、有罪判決後の2月18日にはボンベイ港外に停泊中の練習艦で反乱が始まりました。
反乱はあっという間に広がり20日夜には全インド海軍のインド人水兵がイギリスに反旗をひるがえしました。
ボンベイ、カラチ、マドラス、カルカッタ、コーチン、アンダマンの軍港の78隻の艦艇が反乱水兵に乗っ取られ、ほとんど全ての軍港施設でユニオン・ジャックが引きずり降ろされました。
反乱は空軍、陸軍にも広がり、25日、ボンベイとマドラスの空軍基地で兵士たちはゼネストに入り、ジャバルプール駐屯の第27インド師団の兵士たちがこれに続きました。
ボンベイに反乱鎮圧のために派遣された英印軍のインド兵は発砲を拒否して、いくつかの都市では警官すらストを始めました。
主要都市のボンベイとカラチでは、水兵の反乱と呼応して大規模なゼネストが始まりました。
ボンベイでは会議派左派と共産党の指導で60万の繊維労働者が同情ストに突入して、鎮圧に出動した英軍と3日間にわたって市街戦を演じました。
戦車と機関銃を装備した英軍に対し、労働者は手当たり次第の武器、旧式の銃やサーベルを使い、ときには舗道から引き剥がした敷石を投げつけて戦いました。
その結果、労働者居住区のいくつかは廃墟となり、270人の死者と1300人の負傷者をだしました。
カラチでは2日間にわたって銃撃戦が続き、英軍は増援部隊を呼んでやっと鎮圧しました。
まるでボースの魂が全インド人に乗り移ったかのように、、
ボースが生前主張していたようにインド人は立ち上がり、自由を求めて闘い、反乱の火が燃えひろがりインドは騒乱状態となったのでした。
※参考文献
シャ・ヌワーズ・カーン大佐
プレム・クマール・サイガル大佐
グルバクシュシン・ディロン中佐