1943年11月5日から東京で大東亜会議が開かれボースは出席しました。

 

オブザーバーとしての出席でしたがボースの動静や演説は他国の代表よりも日本の新聞は大きく報道しました。

 

ボースの不眠不休の活動で、インド臨時政府とインド国民軍の組織固めが終わりました。

 

このころ態勢を立て直してきた英軍はビルマ奪還のため戦力をビルマ戦線に投入してきました。

英印軍のビルマ奪還の策源地がインパールでした。

 

インド進攻に消極的だった日本軍関係者はこのインパールを攻略してビルマでの防衛線を前進させようとするインパール作戦を検討し始めます。

 

実際、日本軍は1943年初め頃から演習を行いインド北東部の要塞インパールを攻略して防衛戦を前進させる構想を進行させました。

 

各師団長はあまりに放胆な構想に驚き、国境地帯の険しい山脈越えの補給の困難さや英印軍の侮れぬ戦力などを指摘して難色を示しましたが、陸軍司令官は強引に押し切ろうとしました。

 

日本陸軍内部でも強固に反対する意見があり、作戦の危険な要素を指摘する者がいました。

 

しかし、河辺方面軍司令官の強い希望もあり1943年12月28日、作戦決行を決め大本営に報告しました。

参謀本部作戦部は懐疑的でしたが、杉山参謀総長の強い意向で1944年1月7日、認可し、作戦実施命令を出しました。

 

インパール作戦認可の背景には、東条首相、杉山参謀総長らの戦局打開のためどこかで華々しい戦果を挙げたいという強い希望が働いたことは確実です。

 

また、ボースのインド進行への熱望になんとか応えてやりたいという気持ちが、東条、杉山、さらに河辺方面軍司令官を動かしたことも否定出来ません。

 

河辺方面軍司令官は戦後、インパール作戦の発動について以下のように述べています。

「インパール作戦の発端は全く戦略的なものであって、もっぱら英印軍のビルマ奪還企図の射殺を目的としたものであった。従って、その発端に不純なものがあるやに非難されるのは実情を知らぬ妄断であって、この截然区別して考慮せねばならぬと協調したい。初めから不首尾と判っている無理な作戦を冒険的に始めたなどの批判は全く当たっていない。

ただ、丁度時を同じくしてボースのインド政府が熱願したインド国内進行の希望をなんとかこの作戦と協調させ、協同の形でこれを支援することに極力策案をめぐらしたことは明らかな事実である。」

 

 

しかし、もう少し大局的な見方をすると、そもそも日本がなぜ大東亜戦争を起こしたのかを考える必要があります。

 

下記、ブログ記事参照

戦前、日本には戦争経済研究機関が複数あった | 時間が無い人でもサクッとわかる現代社会の仕組み (ameblo.jp)

 

 

それは自存自衛が第一義的な目的であり、それには日本の周辺地域のほとんどが欧米列強に植民地支配されていた当時の世界情勢を無視する事は出来ません。

 

自存自衛を確立するには、必然的に欧米列強と戦闘状態になる事は避けられず、最終的な到達地としてアジア各国の独立を視野に入れる必要が出てきます。

 

そしてボースはインド独立を第一義的な目的としていました。

つまり日本とボースの目的は極めて近いものがあり、到達地としての景色はほぼ同じものを見ていると言っても過言ではないのです。

 

つまり、日本とボースの協力はある種の必然から導き出された結果であるともいえ、お互いの目的を達成する為に補強し合う関係性であったとも言えます。

 

日本が戦争を遂行する為に掲げた理念をボースが具現化し、その象徴的存在であったとも言えます。

この必然的といえる強固な結びつきがインパール作戦の危険性を曇らせ、軍部を前のめりにさせた事は否定出来ないと思います。

 

 

自由インド臨時政府は、シンガポールからビルマの首都、ラングーンに1944年1月7日に移動しました。

インド国民軍は12月からビルマへ移動を開始しました。

 

自前の輸送機関を持たないインド国民軍の先発隊は殆どが足だけがたよりの行軍でした。

重い装具を背負っての強行軍は、しばしば飢えや渇き、マラリアなど風土病に悩まされました

 

しかし、いよいよデリーへの進軍も間近いと将兵の士気は高く、「チェロ・デリー」とおたがいに励ましあいながら進軍しました。

 

ボースは日本軍がインド国民軍の輸送に協力しなかったことに強い不満を持ち、厳重に抗議しました。

しかし、既に物量不足の日本軍は自軍の移動すら兵士の足にたよっていたのでした。

 

1944年1月7日、大本営はインパール作戦実施を命令しました。

 

その日午後4時、ボースはラングーンのビルマ方面軍司令部を訪れ、河辺ビルマ方面軍司令官が、

「いよいよ日本軍とインド国民軍が手を携えてインドに進軍するときが来た」

 

と挨拶すると、ボースはしんみりした口調で、

「いまここに神に祈ることがあれば、それは1日も早く祖国のために私の血を流さしめたまえの一念に尽きる」

と決意を述べました。

 

ボースは河辺軍司令官に、できるだけ早くインド国民軍部隊を前線へ出動させて欲しいと懇願しました。

 

インパール作戦の開始は3月8日に決まりました。

作戦開始を間近に控えて、ボースは日本軍、インド国民軍、ビルマ国軍合同の幕僚会議設置を要求しました。

 

各国軍が対等の立場で作戦を協議しようというのである。

ボースはインド国民軍の指揮権を日本軍が持つ事を反対していました。

 

対等の軍隊同士の連合作戦である以上、日本軍の兵団長以上がインド国民軍部隊を指揮することは認めるが、下級指揮官の指揮権は認めないと譲りませんでした。

 

その経緯から、日本側もボースの要求を容れ、3月1日に合同幕僚会議をつくりました。

幕僚会議では、インパール攻略後の占領地行政の問題が議題に上がりました。

 

ボースは、占領後は日本軍が軍政を布くのではなく、直ちにインド臨時政府に行政を移管、警察権も含むすべての行政権を与えることを要求しました。

 

これには日本側も従来の根本方針、ボースを助けてインド人のインドを作らせるという方針に照らして異存はなく、全面的に認めました。

 

さらにボースは占領地では日本軍軍票を使わせず、臨時政府発行の紙幣を使うよう要求して、これもビルマ領内では絶対に使用しないという条件つきで認められました。

 

また、英印軍から得たインド兵捕虜は、インド国民軍が一括管理することも定められました。

 

待望のインド進攻を前にしたインド国民軍は2個師団が編成されました。

建制は次のとおりとなりました。

 

○第一師団

師団長 M・Z・キアニー大佐

・第一連隊(スバス連隊)連隊長 シャ・ヌワーズ・カーン大佐

・第二連隊(ガンディー連隊)連隊長 I・J・キアニー中佐

・第三連隊(アザード連隊)連隊長 グルザラシン中佐

・第四連隊 連隊長 アルシャッド中佐

 

○第二師団

師団長 アーメッド・カーン中佐

 

実際にインパール作戦に参加したのは第一師団のみでした。

 

 

※参考文献