ボースは、1945年4月にラングーンに戻りました。
そこでボースは母の死の知らせを聞き悲しみに打ちひしがれしばらく何も手につかずにいました。
しかし、事態の急迫はボースをいつまでも悲しみに沈ませておきませんでした。
4月半ば、英軍戦車部隊はメイクラーテからラングーンに通じる街道を突進し、4月21日にはラングーンの北150キロのピンマナに迫りました。
方面軍司令部はラングーン放棄を決意して、ボースにもモールメンへ撤退するように要望しました。
しかしボースは拒絶しました。
彼は臨時政府、国民軍と共に踏みとどまり最後まで戦うと言い張りました。
国民軍総司令官に就任したとき
「喜びも悲しみも将兵と分かち合い、勝利の時も苦難の時も常に将兵と共にある」
と誓った以上、なお第一線で戦っている部隊を残して逃げ出す事は出来ないというのがその理由でした。
また、方面軍は、インド国民軍は現在地で武装解除して兵器・弾薬を日本軍に引渡し、身の振り方は各自の自主的判断に任せるとの提案をしましたが、ボースはこれも否定的でした。
「国民軍は完全武装のまま、自分が陣頭指揮して最後まで英軍に抵抗し、抵抗力が尽きたとき初めて降伏し、英国の手でインドに連れて行かせよう。そして捕虜になった兵士の口から、祖国の民衆に我々がいかなる理想のもとに何をしてきたかを語らしめよう。それが独立への火種を残すことになるのだ」
しかし閣僚らは皆、撤退を進言し、軍医部長もラングーンの国民軍の保護は責任をもって引き受けると申し出たため、ボースも撤退を決意しました。
しかし国民軍の武装解除は絶対に同意しませんでした。
またピンマナから撤退した婦人部隊のジャンシー連隊の一部がまだ到着していないので、その到着を見届けてから出発すると言い張りました。
ボースは1945年4月24日夜、ペグーに向かって閣僚や国民軍司令部要員、婦人部隊のジャンシー連隊と共に脱出しました。
乗用車4台とトラック12台を連ねたボース一行は、英軍戦車部隊が追撃してくる中、翌日ペグーを通過して、まもなくワウ川という名の小川にさしかかりました。
橋が落ちており、日本軍の工兵が筏で対岸に人間だけ渡していました。
輸送指揮官は
「ぐずぐずしていると、英軍に追いつかれる。筏で渡りましょう」
と提案しました。
しかしボースは断固反対しました。
「男は筏でもいいが、ジャンシー連隊の隊員はみな、良家の子女だ。水泳の心得などないだろう。戦争だから敵弾に当たって死ぬのはやむを得ないが、ここで1人でも溺死させては、親兄弟への申し訳が立たず、私の政治生命も終わりになる。橋が修理されるまで待とう」
工兵たちが橋の修理に取り掛かる様子もなくいつになったら橋がかかるのか見当もつかない状態でした。
そこで、藤井大尉は考えあぐねたあげく、水深は乾季で2メートル程なので川幅15メートルぐらいの所にトラック2台を川の中に乗り入れさせ、その上に板を渡し、両脇に綱を張ってやっと全員無事に川を渡り終えました。
しかし車はボースの専用車だけ上流の浅い所を見つけてなんとか渡せたものの、他はすべて置き去りにしました。
4月27日早朝、シッタン河の西岸に着きました。
渡河作業に当たる工兵は、車は重すぎて筏に乗せられないと言ったので、やむなく最後の車も棄てられました。
ここでもボースは
「ジャンシー連隊の娘たちが全員渡り終えるまでは絶対に渡河しない」
と言い張り、全員が渡り終わった翌朝、英戦闘機が突っ込んできました。
一行がどこからか、トラックを探してきてボースに自分と一緒に乗るように勧めました。
ボースは怒って言い放った。
「これからはジャンシー連隊と一緒に行軍する。私は部下を棄てて逃げたバー・モウとは違うんだ」
ボースは婦人部隊の先頭に立って歩き出しました。
しかし、モールメンへの道は長く、手持ちの食糧もまもなく底をつき、1日に薄いおかゆ1杯の配給しかありませんでした。
困ったのは水で、赤茶けた濁り水をすするしかありませんでした。
しかしボースは士気を鼓舞するためか、常に先頭を大股で歩き、夜通しの行軍にも疲労の色は見せませんでした。
服装も野宿をしているのに、いつもきちんとしていました。
しかし、ある時、同行のものがボースに長靴を脱いで靴下を履き替えるように勧めたので、ボースがやっと脱いだその足をみると、豆だらけでひどい水ぶくれになっていました。
ボースはもう歩けないのではないかと心配しましたが、先のトラックでモールメンに急行した部隊が方面軍とかけあって、間もなく乗用車とトラック数台が手に入り、人員を輸送することが出来ました。
ボースは最後の便で5月3日にモールメンに到着しました。
モールメンに到着した後、5月9日、ボースはタイのバンコクへ向かいました。
今度もジャンシー連隊をはじめ国民軍全員が汽車・トラックで出発するのを見届けてから向かいました。
乗用車で爆撃を避けつつ夜間を走りましたが、既に雨季に入っていたので道路は泥沼のようになっていて難渋しました。
道路には鉄道輸送からはみ出した日本軍の傷病兵が徒歩でタイへ向かっていました。
タイ国境で遂に車が動かなくなったので汽車と馬車を乗り継いで5月15日、バンコクに到着しました。
※参考文献