この頃、ポパ山には第二師団長代理のサイガル中佐と司令部要員、第二歩兵連隊、それにディロン連隊の敗残兵がいただけでした。

 

もし英印軍がパガン攻略の勢いで進撃してきたら、この重要拠点もひとたまりもなく陥落していました。

 

日本軍第28軍はポパ山の守備に不安を抱き、1個大隊を派遣しました。

日印軍将兵が肩を並べて戦うことになりました。

 

2月末、国民軍第二連隊主力も到着してポパ山防衛の態勢は整いました。

 

日本軍第28軍の命令に従いインド国民軍はポパ山周辺で遊撃戦を展開し、至るところで敵の斥候と衝突しました。

 

激しい敵との衝突の中、命令に従わず斥候に出ない将兵が出たり、敵に寝返る将兵が現われ出しました。

ボースは軍紀維持の為、厳しい措置をとりなんとか士気を高めるのに必死でした。

 

物資も不足しており、補給もままならない状況が続き将兵たちの苛立ちは高まっていました。

2月末、ラングーンに帰ったボースは、ポパ山で第二師団の参謀将校ら5人が敵に走った知らせを聞いて衝撃を受けました。

 

そして、自分がメイクテーラで初志を貫きポパ山へ行っておれば、こんな不祥事は起きなかったろうと、おのれを責めました。

 

3月半ば、日本軍第28軍は戦局挽回を狙ってイワラジ河両岸で攻勢に出ました。

この作戦には再編成されて完全に士気を回復したディロン連隊も参加しました。

 

日本軍干城兵団の細川大隊と協同して、パガン方向へ攻撃前進しました。

両者の間に指揮命令関係はまったくありませんでした。

 

しかし、日印両軍は一度のトラブルもなく、密接に協力しあいました。

これは、干城兵団長、古谷朔郎大佐の温かい人柄とインド国民軍に対する深い理解によるものでした。

 

シャ・ヌワーズ・カーン大佐らインド国民軍指揮官も古谷大佐を心から尊敬し、指示に従いました。

そのためポパ山でも日印将兵の間には友情がそだち、和やかな交歓風景が度々繰り広げられました。

 

 

3月中旬から下旬にかけてポパ山周辺は平穏そのものであったが、イワラジ河両岸攻勢は、圧倒的な戦力差のために進展しませんでした。

 

4月3日、英軍は戦車、砲兵を使用して本格的に攻撃してきました。

サイガル中佐の指揮する第二連隊は一昼夜持ちこたえたが、4日、大隊長が部下をひきいて逃亡して総崩れとなりました。

 

シャ・ヌワーズ・カーン師団長はなおも部隊を再編成して攻勢をとろうとしました。

しかし4月8日、ビルマ軍が反乱したことを知ると、ポパ山からの撤退を決意しました。

 

シャ・ヌワーズ・カーン大佐はよく師団を掌握して各所で戦闘を交えながら18日、イラワジ河東岸のマグウェにたどり着きました。

 

シャ・ヌワーズ・カーン大佐は少数の部下と共にイワラジ河を渡って西岸を南下しプロームを目指しました。

一行は途中ビルマ軍に包囲され日本兵を引き渡すように要求されましたが、シャ・ヌワーズ・カーン大佐は断固として拒否しました。

 

プロームに近づくと同行の日本兵を先に行かし、4月28日、到着した日本兵は一部始終を涙ながらに先に到着していた桑原少佐に報告しました。

 

4月29日、第28軍参謀長の岩畔少将がプロームへきて、桑原少佐に重大な命令を下しました。

それは、インド国民軍の今後の行動は彼らの自由意志に任せること、武器の携帯は許すが、日本軍に対して反乱をさせないこと、日本軍が持久を計画しているペグー山系にはインド国民軍将兵を一歩も入れないこと、の3つでした。

 

プロームにはシャ・ヌワーズ・カーン大佐はじめ連隊長クラスは1人も到着していなかったので、桑原少佐は国民軍先任将校のグプタ、ネギの両少佐を呼び、国民軍はボースのもとに復帰するために、直ちにモールメンに向かって脱出するよう勧めました。

 

彼らは同夜出発しましたが、成功したのはグプタ少佐の指揮する200名だけでした。

 

シャ・ヌワーズ・カーン大佐はプロームで自分の部隊がモールメンに向かったことを知り、ディロン少佐と共に後を追ったが、5月18日、英軍に包囲され、交戦の後、力尽きて捕らえられました。

 

サイガル中佐はそれより早く、部下と共に潜伏したインド人集落を英軍に包囲され、爆撃を恐れた村人の説得で降伏していました。

 

 

※参考文献