ボースはシンガポールへ帰りソ連行きの手配を始めました。

 

国民軍は解体したので、国民軍将兵と臨時政府職員の退職金にあてるため資金を工面しました。

日本政府からの借款がまだ9000万円程残っていたので各地の支部へ至急送金するように要請しました。

 

ボースは南方総軍司令官の寺内元帥を訪れソ連行きの飛行機の手配を要請しました。

日本の大本営は反対でしたが、元帥は最後のはなむけとして、飛行機1機を提供しました。

 

提供された飛行機は日本軍関係者7名も同乗するので、ボースらの席は2人分しかないと告げられました。

 

主要閣僚も一緒に連れて行こうとしていたボースは憤慨しましたが、やむをえず秘書のハビブル・ラーマン大佐のみ同行させることにしました。

 

8月17日夕方、サイゴン飛行場を出発しようとした時、1台の車が走り寄り操縦士に止まるように頼みました。

 

車のインド人はボースに対し、東亜在住の300万インド人の総意を込めた贈り物があると告げ、それには多数の宝石や貴金属類が入っていました。

 

やむなくこの荷物も積みことになり、出発が少し遅れましたがようやく離陸する事が出来ました。

 

その後、ツーランを経由して、翌8月18日朝、台北の飛行場に向かい正午頃到着しました。

 

給油が終わって午後2時、再び離陸しようとしました。

離陸を開始して滑走路の三分の二を走って浮き上がり、上昇姿勢を取ろうとした時、左エンジンのプロペラが吹き飛び、そのショックでエンジンが外れました。

 

飛行機バランスを失い、飛行場の端の盛り土に傾きながら突っ込み燃え上がりました。

 

飛行機は半分に折れ、たちまち火を吹いて副操縦士と前方座席にいた者は即死し、ボースは重傷を負いました。

後部座席の者は軽傷で済みました。

 

ボースは機体中央部左側、副操縦士席のすぐ後ろに座っていました。

ところが、機内中央右側に吊ってあった燃料タンクが墜落のショックで吹っ飛んできて、破れたタンクから飛び散ったガソリンを頭から浴びたのでした。

 

機内から脱出の途中にガソリンに引火して火だるまとなってしまいました。

ボースは全身にひどい火傷を負ってしまいました。

 

直ちに、台北陸軍病院に運ばれ治療をうけました。

殆ど全身黒焦げになっており、病院の総力をあげて治療が始まりましたが、容体は絶望的でした。

 

夕方、ボースの容体は悪化しました。

ラーマン大佐を枕元に呼ぶと言いました。

「ハビブル、私の死も間近い。私は一生を祖国の自由のために捧げて戦ってきた。私はいま、祖国の自由のために死ぬ。インド国民に祖国の独立をかちとる闘争を続けるよう伝えよ」

ボースは一語一語、苦しい息のなかから、押し出すように話しました。

 

やがて声が弱くなりました。

「平穏な死だ。私は平和に死んでいく」

 

1945年8月18日、午後8時、ベンガルの虎は、疾風怒濤の生涯を閉じました。

48歳でした。

 

ラーマン大佐はボースのベットにぬかずき、ネタージの霊に長い祈りを捧げました。

日本側はその夜、ボースの遺体の傍らに儀杖兵を配置してささやかな祭壇を作って線香して通夜をしました。

 

ボースの遺体は20日、台北で火葬にされて、遺骨は財宝を収めた木箱と共に9月7日、大本営に届けられました。

 

遺骨はインド独立連盟日本支部長のM・ラマ・ムルティに引き渡されました。

9月18日夜、東京・杉並区の蓮光寺(れんこうじ)で簡素な葬儀が行われました。

 

遺骨は70年以上もたった今日もなお蓮光寺に安置されており、毎年命日には法要が行われています。

また、インドの歴代首脳が訪日した際には蓮光寺を訪問して、その時の言葉も碑文として残されています。

 

ここは多くのインド人観光客や在日インド人も訪れる場所となっています。

 

ボースの遺骨のある蓮光寺の場所は、関東近郊に住んでいる人であれば一度は近くを通った事のある環状7号線と青梅街道の交差点、高円寺陸橋下のすぐ近くです。

 

蓮光寺はその近くにある公園よりもはるかに小さく簡素なお寺ですが、ボースの遺骨は今もこの場所に眠り続けています。

 

そしてボースの魂はベンガルの虎として世界中に睨みをきかせながらさまよい続け、その死後もイギリスを震え上がらせる事となります。

 

 

※参考文献