1939年4月、第2次世界大戦の開戦を目前に控えて、イギリスは中東・イエメンのアデンに英印軍を増派しました。
英印軍とは、イギリス領インド軍の事で、イギリス人兵士とインド人兵士によって構成されるが、インドに駐留するイギリス軍部隊をも意味するので基本的に英本国の意向によって編成されます。
会議派は
「インド人の同意なしにインドに戦争を負担させ、その資源を戦争に使おうとするいかなる企てにも反対する」
と決議しましたが、イギリス側はそれを無視して8月からエジプトとシンガポールにも英印軍を増派しました。
9月3日、イギリスがドイツに宣戦布告すると、属領であるインドも、自動的にドイツと戦争状態に入ったとインド総督は発表しました。
第2次世界大戦は、ボースにとってインド独立を達成する絶好の機会と思われました。
翌1940年6月、パリ陥落の報を聞くとボースは子供ように室中を踊り回った。
イギリスの没落も間近いと予想したからです。
この機会にボースはガンディーを訪ねて全国民的決起を提案しました。
しかし、ガンディーは冷淡な対応でボースの提案を拒否しました。
1940年6月末、カルカッタに帰ったボースはイギリスがインド征服の記念として各地に立てた銅像や記念碑を実力行使で打ち倒す計画を立てました。
しかし、実行の前日、1940年7月にボースは逮捕されました。
この逮捕で戦争が終わるまで収監される事になったボースは、この大切な時期を獄中で過ごすと思うと、耐えきれぬ気持ちになりました。
そこへ、ボースの独立運動を資金援助していた貿易商が獄中のボースに海外で活動すべきだと伝えました。
「海外の友人たちはあなたを歓迎すべく待っています。国外でなすべきことがいっぱいあるのに、危険なインド国内に留まっている理由はありません」
ボースは国外脱出を決意して長い時間をかけて綿密な計画を練りました。
まず、牢獄の外へ出るためにハンストに入りました。
水と塩だけは採ったが、一切の食事を拒絶して生命の危険を賭けて釈放を要求しました。
ボースはみるみる衰弱していき、医師はこれ以上ハンストを続ければ確実に死を招くと診断しました。
ボースの死が大暴動を招くことを恐れた英当局は、即日釈放しました。
自宅に救急車で戻ったボースは少しずつ体力を回復していき、同時にごく少数の近親者を交えてアフガニスタンを経由してドイツに入る計画を立てました。
顔つきを変えるためにヒゲを伸ばし甥の運転する車で見張りの警官の隙を狙って裏口からひそかに自宅から脱出しました。
この後ボースはイスラム教徒風の服装に身を包み三等切符を持って郵便車に乗り込んでアフガニスタン国境に近いペシャワール駅に行きました。
乗客の混み合う普通の三等客車ではいくらヒゲを伸ばして変装しても有名人であるボースは多くの人に顔を知られており、気付かれる可能性があったためです。
ペシャワールからの脱出はさらに危険を伴うため、車で行けるところまで行き、その後は殆ど人も通らないような小道を歩いて突破しました。
見渡す限り、一本一草もない石ころだらけの砂漠が続きました。
真冬にもかかわらず岩山に照りつける日ざしは強烈で炎熱のベンガルで育ったボースも経験したことのないような暑さでした。
2、3時間歩いただけでボースは何日も歩き続けたように感じるほど疲れ果てノドも乾きました。
一緒に同行しているラムというアフガニスタン内での工作を担当している人物が
「ここはイギリスの支配を跳ね返して、昔ながらの生活を守っているパタン族の土地ですよ」
と言うと、ボースは体中がよみがえる思いになりました。
思わず小躍りして大地をドンドンと足踏みして
「おれはいま、ジョージ六世を蹴飛ばしているんだ」
と叫びました。
ようやくカーブルに着いたボース一行は、まずはソ連大使館を探しました。
ドイツに行くには英国の支配する中東を通るわけにはいかず、ソ連を経由しなければならなかったからです。
しかし、ソ連大使館にも警察が見張りをしていて近づけばたちまち捕まってしまう恐れがありました。
ソ連大使への工作は危険だったのであきらめカーブルに住む知人を頼ってドイツ大使館への接近を図りました。
知人の紹介のつてでドイツ大使への面会が実現しました。
ドイツ大使とは、ボースがヨーロッパに滞在していた時に面識がありにこやかに迎えてくれましたが、内心はイギリス側の謀略ではないかと疑っていました。
ドイツ大使はイタリア大使に会うように勧めてきました。
イタリア大使はカーブルから帰国する伝書使をボースとすり替え、イタリア外交官に化けさせてソ連領内を通過させベルリンに送るように決めてくれました。
1941年3月、ボースはイタリア外交官になりすまし、車でソ連国境を通過してベルリンに向かいました。
こうしてようやくボースは1941年4月にベルリンに到着しました。
※参考文献