スバス・チャンドラ・ボースは1897年、インドの西ベンガルのカタックで弁護士の息子として生まれました。

ボース家はベンガル地方の名家で父の弁護士という職業も当時のインドでは富と名声を約束する職業でした。

 

ボース自身も名門カルカッタ大学に進学してエリートコースを歩んでいました。

しかし大学進学後、イギリスによるインドの不当な植民地支配を目の当たりにして政治に関心を持つようになります。

 

在学中、第1次世界大戦が起こりインド人は100万人もの兵員をヨーロッパにおくりイギリスの戦争遂行に協力しました。

 

軍需景気で、民族資本はうるおったものの、自らの存亡とは関係のない戦争で多数の死傷者を出し、インド人は英人のタマ除けに使われたという風評が広がりました。

 

また、戦時経済による生活の圧迫が加わりインド人の不満は一気に高まりました。

 

この頃からボースは自分の人生を民衆のために捧げる決意をしていました。

 

大学を2番の成績で卒業した後、ボースはイギリスのケンブリッジ大学に留学してインド高等文官試験を受験する準備をします。

 

しかし、ボースはイギリス植民統治の手先には、いくら将来の地位が保証されていてもなりたくない気持ちが強かったので、難関が予想される試験に自分が受かるはずがないと思っていたので、父親を安心させる目的で留学したのが本音でした。

 

イギリス留学はボースに新鮮な驚きを与えました。

 

このころ友人宛に書いた手紙の中で以下のように述べています。

「英本国人(植民地の英人ではないという意味)は確かに、彼らを偉大にした天性を備えている。まず彼らは定められた時間まで、真面目に働く。次にインド人がとかく人生を悲観的に見るのと異なり、強固な楽天主義を有している。そして彼らは健全なコモン・センスを持ち、国益をこよなく尊重している」

 

1920年、ボースはインド高等文官試験を受験しました。

結果は意外にも合格していました。

 

この試験に合格すれば、ロンドンのインド省に勤務でき、インド人官僚としては最高の地位を約束されたに等しいものです。

 

ボースは合格したことを誇りに思いましたが、高等文官になれば、しょせん英植民地統治の走狗となるだけである。

屈従か反抗かボースは迷いました。

 

そして翌年、ボースは資格返上を決意しました。

ボースは官史登用の書類にサインすることを拒否して、学業を終えると帰国の途につきました。

 

帰国後、ボースは独立運動に身を捧げます。

この後ボースは、自分の人生をインドの独立達成ために全てを捧げることになります。

 

彼の目的はインドの独立と開放、それが唯一無二でした。

その為であれば武力闘争も辞さない覚悟でした。

 

初めはインド国内で独立運動を行っていました。

著名な他の独立運動家のガンディーとも協力してインド国民会議に参加しました。

 

重要なポストを任されるようになったボースは、国民会議派の要職に就いて独立運動を行いますが、英当局に逮捕され収監される事になります。

 

収監に抗議する為にハンストを行い衰弱しました。

肺炎にかかり医師に結核の疑いもあると診断され監獄の外で療養する必要があると言われました。

健康状態が悪化したのをきっかけにボースを慕う民衆の暴動を恐れて、英当局はボースを釈放することになります。

 

当時のカルカッタの情勢はボースに療養生活を許しませんでした。

療養生活を4ヶ月で打ち切るとただちに精力的に活動を開始しました。

 

ボースは精神力が異常に強かったせいか忙しければ忙しいほど体力が増進する体質で、逆に投獄されて活動不能となると、心配事があって気が晴れず病気になる傾向がありました。

 

 

ボースのインド国内での独立運動は実力闘争を掲げていました。

 

ボースは、まだインド国内にいた時、ボース邸を訪ねたカルカッタにある日本商品館の日本人職員に以下のように言いました。

「ガンディーのような生ぬるい方法では、いつまでたってもインド独立は達成されないだろう。我々は、実力闘争でイギリス人を追い出し、日本のような完全独立をめざすのだ」

 

このようなボースの急進的な独立運動は国民会議派主流と路線対立から袂を分かつ事になります。

 

インド国内の独立運動はガンディーのカリスマ的権威で支配されており国民会議派の主流もガンディー派でした。

ボースはその影の支配に公然と挑戦したのです。

 

それまで、会議派議長はガンディーの指名する人物を満場一致で選任するのが慣例でした。

それをボースはあえて立候補に踏み切り、1939年1月29日投票の結果、ガンディーの推した候補を破って議長に当選しました。

 

しかし、これはガンディーの敵意をあおり、3月に会議派主流は従来通りガンディーの指導に従うという決議が採択され、4月末、ついにボースは議長辞任に追い込まれました。

 

ボースは同じ急進派の同志からも裏切られ失望を味わう事となります。

 

しかし、ボースは青年党員やボースの出身地のベンガルで圧倒的な支持を集めなんとか巻き返しをはかり、国民会議派は分裂の気運を大きくはらむ事となりました。

 

やがてボースは支援者の勧めもあり、海外で独立運動をすることを決意します。

 

 

※参考文献