トッド・ヘインズ監督、ケイト・ブランシェットルーニー・マーラサラ・ポールソンカイル・チャンドラージェイク・レイシージョン・マガロ出演の『キャロル』。2015年作品。PG12

原作はパトリシア・ハイスミスの同名小説。



1950年代、クリスマスシーズンのニューヨーク。写真家を目指しながらデパートで働くテレーズ(ルーニー・マーラ)は、買い物客のキャロル(ケイト・ブランシェット)が忘れていった手袋を郵送して返却したことをきっかけに彼女と親しくなる。そして夫との間に溝があり離婚するというキャロルに次第に惹かれていく。


第68回カンヌ国際映画祭で女優賞(ルーニー・マーラ)、クィア・パルム賞受賞。

アカデミー賞関連作品でケイト・ブランシェットとルーニー・マーラの共演作ということで観てきました。

僕はトッド・ヘインズ監督の映画を観るのは『ベルベット・ゴールドマイン』に続いて2本目で、タイトルは知っていたジュリアン・ムーア主演の『エデンより彼方に』も未見。

『ベルベット~』は先日亡くなったデヴィッド・ボウイをモデルにしたらしいキャラクターが出てきたりしてたけど、僕は音楽の方面にまるっきり疎いし同性愛というテーマに特に強い関心があるわけでもないからかどうもピンとこなくて、ユアン・マクレガーがケツ出してたことぐらいしか覚えていません。

で、今回もまったく予備知識がないまま予告篇も観ずにただ二人の女優に惹かれて映画館に足を運んだのですが、あぁ、またこういう題材なのか、と。

 


まぁ、タイトルやポスターなどからもそういう雰囲気はあったわけですが。

パトリシア・ハイスミスといえば『太陽がいっぱい』ということで(って、原作小説は読んでませんが)、あの作品が同性愛を扱っていたことを知っていれば納得ではある。

もとは1950年代に別の筆名で書かれた小説とのこと。

恥ずかしながら僕は小説を読むのが大の苦手で(最初にいきなり“あとがき”を読んだり、途中で堪え切れずにラストを読んじゃったりする^_^;)、この作品に限らず映画の原作小説を読むことはほとんどありません。

だからこの映画の原作も未読。

なので、あくまでも映画についてだけ述べます。

以下、ストーリーのネタバレがありますのでご注意ください。



16mmフィルムで撮影したという映像はまるで当時のプライヴェート・フィルムのようで、粗いフィルムの粒子の不規則な動き、そしてバックのボケが目立つ被写界深度の浅い映像とその滲むような色合いが1950年代という時代に観客をいざなってくれる。

現在のハリウッドの有名女優が主演する最新作でありながら、いつの時代に撮られたのかわからなくなるようなこの映像のルックはなかなか魅力的でした。

登場する人々の顔も、今風というよりは敢えて昔っぽい顔立ちの俳優(衣裳やメイクの力も大きいが)を選んでいるような気もしたし。

1950年代の町並みの雰囲気は『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』の写真家ヴィヴィアン・マイヤーの写真なども参考にしているそうで、なるほど、確かに言われてみれば重なるものがありました。

 


そういう美しい小品という器の中に、現在にも通じる恋愛や結婚、ジェンダーの問題などが含まれている。

とはいえ正直なところ、僕は普段「恋愛映画」というジャンルをほとんど観ないので、この映画を観ていても若干の戸惑いはあったのでした。

ぶっちゃけ誰と誰がくっつこうが別れようがどーでもいいなぁ、と思ってしまうようなお子ちゃまなため、恋愛に夢中になっている人にあまり興味を持てないのだ(だからテラスハウス系の恋愛ヴァラエティ番組とかまったく観ない)。

失われてしまった恋とか、最後に幸せなひと時が消えていくような哀しい話には共感できるんですが、現在進行形で実りつつある、または見事に成就した恋愛には距離を感じてしまって。自分がそうではないから(T_T)

だからこの映画のキャロルにもテレーズにも自分を投影することはなかった。

むしろ、テレーズのことが好きでキスしようとして断わられちゃう新聞社で働くダニー(ジョン・マガロ)の立場かな、一番近いのは。

テレーズの気を惹こうと部屋のペンキ塗りの手伝いをしたり、彼女に新聞社の仕事を紹介してあげてもどこかオマケ扱い。いつまで経っても恋愛対象として見てもらえないという^_^;

それでも、この映画のルーニー・マーラはほんとにキュートで。

 


彼女の姉は、先日観た『オデッセイ』に出ていたケイト・マーラ。美人姉妹ですね。




ルーニー・マーラという女優さんは僕は『ソーシャル・ネットワーク』で初めて見て、そのあと『ドラゴン・タトゥーの女』も劇場で観ているけど、2014年の『her/世界でひとつの彼女』の時にほんとに綺麗だなぁ、と心底見惚れてしまって。

今回もあの映画と同様に彼女の顔やファッションに釘付けでした。

すでに30歳だけど、まるで少女のような初々しさや儚さをそなえた女優ですね。

この映画の中で彼女が演じるテレーズは働いていて経済的にも自立しているんだけど、普段着が学生っぽかったり、パジャマ姿もカワイイ。どこか乙女チックさを漂わせている。

実はテレーズ役は最初はミア・ワシコウスカがオファーされたんだそうで、「あぁ、いかにも」とちょっと納得もしたのだけれど、でもこの儚げで守ってあげたくなるような雰囲気はルーニー・マーラこそ相応しかったんじゃないかと。最終的に彼女になってよかったと思います。

いや、ミア・ワシコウスカも素敵な女優さんですが。二人とも脱ぎっぷりがいいという共通点もある。

ルーニー・マーラが相手を見つめる時の、瞬きをあまりせずにあの大きな瞳をジッと見開いている顔に魅せられる。




顔が似ているわけではないけど、ちょっと満島ひかりさんを思い浮かべたりして。

ふとした時にか弱さを感じさせて思わずギュッと抱きしめたくなるような、テレーズはそういうタイプの女性。

恋愛ではほとんど常に受け身で、付き合ってるリチャードとの関係もそうだし、彼女に好意を持つダニーに対してもそう(『カケラ』で満島さんが演じたヒロインもそういう人だった)。

そしてキャロルとの関係においても、まずキャロルがテレーズを食事に誘い、家に招いて、やがて2人で旅行する。主導するのはいつもキャロル。

見境なく誰とでも、というわけではないが、テレーズはこと恋愛に関してはいつも相手へのリアクションという形で意思を示す。

だから映画も一見すると全篇テレーズがキャロルに振り回されているように見えなくもない。

キャロルは結婚していて娘もいるが、結婚生活に苦痛を感じている。

 


娘のことは愛しているが、妻とは、女とはこうあるべき、という夫やその両親の押しつける価値観に堪えられない(義理の両親と一緒に食事するシーンの居心地の悪さといったら…)。

そして幼なじみのアビーと数年前に関係を持ち、今度はテレーズとの間に同様の「不適切な関係」を結ぶ。

家庭に不満があるのはわかるがずいぶんと奔放な女性に見えるし、もっといえば我が強過ぎて自分勝手ではないかとさえ思う。

テレーズを誘って昼間からマティーニ飲んだり、何かといえばアビーに相談してるし。

親友に自分の結婚生活や恋の悩みを相談するのは人の自由だけど、なんかこの人いつも自分のことしか考えてないなぁ、と。

今、ちまたでは芸能界や政界などで不倫問題が取り沙汰されてますが、社会通念とかモラルを振りかざして人を断罪したがるような者たちからすればキャロルは同性愛以前に「非常識」で、充分過ぎるほど攻撃の対象になるでしょう。相手が異性か同性かにかかわらず、夫がある身で不倫してるんだから。

ただし1950年代という時代を考えた時に、そもそもキャロルのした結婚そのものが彼女が望まないものであった可能性は高いし、そこに同情の余地がなくはない。

レオナルド・ディカプリオケイト・ウィンスレットが夫婦を演じた『レボリューショナリー・ロード』でも描かれていたように、現在以上に貞淑さやあるべき夫婦の形というものにがんじがらめにされていた当時の女性たち(男性たちも)にとって、そこからの逸脱は現状への異議申し立てであり、彼らにできる唯一の意思表示だったんでしょう。

そしてこの映画がほぼテレーズの視点で描かれているように、この映画の主人公はテレーズであり、キャロルという女性の中に彼女は本当の「自分らしさ」を見ている。

オモチャ売り場で初めてキャロルを見た時に感じたときめき。テレーズの憧れがそこにいた。

だからキャロルが望む離婚に応じず、もし離婚すれば娘には会わせない、という一方的な姿勢をとる彼女の夫ハージに、他人であるテレーズは怒りをおぼえてキャロルの力になろうとする。

キャロルの置かれている立場は、テレーズがこれからたどることになるかもしれない未来の自分の姿だから。

私たちは手を取り合ってここから抜け出したい。

テレーズはリチャードから結婚の話をされても気乗りしない素振りを見せて、「君のために仕事も替えたのに」と不満を述べるリチャードに「頼んでない」と答える。




彼女の態度はずいぶんと優柔不断で思わせぶりに見える。リチャードと結婚する気がないならなぜ付き合っているのだろう。二人で結婚旅行のために貯めていたお金もキャロルのために使ってしまうし。

もし僕がリチャードの立場だったら、彼と同じく「彼女のためにこれだけやってるのにあんまりだ」と思うだろう。

テレーズの態度が煮え切らないのは、彼女自身に迷いがあるから。

このまま彼の望みのままに結婚していいのだろうか。私はそれを本当に求めているのだろうか、と。

キャロルとの出会いによって、テレーズは徐々に「本当の自分」に目覚めていく。

見た目や年齢は違っていても、キャロルとテレーズはよく似ているのだ。

彼女たちは第三者から客観的に見てどうだとか、常識的に正しいとか間違っているとかいうことよりも、とにかくまず自分たちが本当に求めているものを手に入れるために行動する。

だから日々の生活になにがしかの抑圧を強く感じている身には、彼女たちの姿は「同性愛」というテーマを越えてどこか共感できるものがある。

この堪えがたい“生きづらさ”から逃れたい、という願望はとてもよく理解できる。

自分を抑圧する者たちへの反発。抵抗。

女性たちの輝きに比べて、男たちはハージもリチャードも見た目は男前だが「つまらない人間」として描かれている。

ハージは両親の言いなりで酔っ払って妻やテレーズの前で大声を張り上げるし、リチャードもハージと同じようにテレーズの気持ちなどおかまいなく自分が望む生活を彼女に押しつけようとしている。この二人の男性たちは同類に見える。

キャロルとハージ、テレーズとリチャードのカップルは対になっている。

興味深いのは、ハージもリチャードも浮気をしたり目に見える形で暴力を振るうといったわかりやすい“クズ男”ではなく、ごく標準的な価値観の人間だということ。二人とも妻や恋人との安定した生活を望んでいて、傍目から見れば申し分ない男性たちなのだ。

世の中の多くの男性がそうであるように。

しかし、自らの価値観に基づく生活を相手に強いる、という点で共通する心性を持つ彼らは妻や恋人から拒絶される。

「同じ男性に性的魅力を感じたことはある?」というテレーズの質問に、リチャードは困惑しつつも穏当に「“そういう人”がいるってことは知ってる」と答える。

それに対して「“そういう人”じゃなくて…」と溜息混じりに返すテレーズ。このズレ。

この映画は今から60年以上前の時代が舞台だが、この男女(または異性愛者と同性愛者・両性愛者)の意識の隔たり、わかりあえなさは現在の僕たちとちっとも変わらない。

その虚しさ、哀しさ、滑稽さ。

映画の中で、キャロルの性的指向、つまり同性と恋愛関係や性的関係を持つという行為は一時の“気の迷い”や“病気”のようなもの、とみなされる。

キャロルとの関係について、テレーズはリチャードから「学生かよ」と吐き捨てられる。

ハージもリチャードも、自分の妻や恋人がよりにもよって同性と“浮気”していることに男性として激しい屈辱をおぼえたんだろう。彼女たちの「恋愛ゴッコ」は俺への当てつけなのだ、と。

キャロルとテレーズは果たして本当に愛しあっていたのか。

それとも、似た者同士、内に同じような痛みを抱える者だからこそ、互いの中に自分の“理想の姿”を見出してそこに惹かれたのか。

よくわからないですが、この映画に限っていえば僕自身はキャロルとテレーズには後者、つまり同志愛のようなものを感じました。

テレーズは、“男”がけっして与えてはくれなかったものをキャロルから受け取ったのだ。

キャロルはテレーズのことを“空から落ちた天使”と呼ぶ。


ところで、キャロルの夫ハージの両親は登場するのに、肝腎のキャロル、そしてテレーズの親は一切出てこないのはどういうことなのだろう。

そのため、彼女たちがこれまでどのような家庭環境で育ってきたのか、映画を観ているだけではまったくわからない。

ストーリーの進行上必要なかったから、ということかもしれないが、特にキャロルは離婚まで考えていて関係者間で話し合いも行なわれているのだから、彼女の実の親が会話の中にすら出てこないのは不自然ですらある。

彼女には親と会えない理由があるのか、それとも両親はすでにこの世にないのか、などと想像してしまうが、同じように親きょうだいの影が一切見えないテレーズはやはりキャロルによく似ている。

そこにはどこか、性的マイノリティだからこその孤独も垣間見える。

キャロルとテレーズは別人格でありながら同一人物でもある。彼女たちのモデルはパトリシア・ハイスミス自身でもあるのだから。

映画評論家の町山智浩さんの解説によれば、パトリシア・ハイスミスはデパートでアルバイトしている時に婚約者がいる身でありながら同性愛の問題を起こして精神科に通っていたそうで、要するに彼女自身の体験をキャロルとテレーズという二人の女性に分けて描いたのだ。

同性愛の恋人との情事を夫に雇われた私立探偵に盗聴されたくだりや娘の養育権を巡る諍いといった部分も、そのまんまハイスミスやその恋人の逸話なんだそうで。

だから言ってみれば、これは愛しあった二人の女性の物語であると同時に、一人の女性の自分探しの物語でもあるのだ。

キャロルとテレーズが似ているのは当然なのであった。


今回ダブル・ヒロインの一人であるケイト・ブランシェットは、僕は2年前の『ブルージャスミン』での演技がとても印象に残っているんですが、キャロルのキャラクターは『ブルージャスミン』のヒロインから笑いの要素を抜いたような感じ。




『ブルージャスミン』は壊れゆく女の哀しさと可笑しみがあったけど、この『キャロル』でのブランシェットは世の中の多くの女性が抱えているであろうストレス、そこからの脱出願望を体現している存在に思えました。

『ブルージャスミン』の時にも書いたけど、ほんとケイト・ブランシェットは『こわれゆく女』や『グロリア』のジーナ・ローランズにどんどん似てきてるような気がする。

金髪でサングラスした顔やタバコを吸う仕草とか、雰囲気がソックリ。

今後『グロリア』が再リメイク(シャロン・ストーンのリメイク版は未見)されたら、ヒロイン役は絶対にケイト・ブランシェットで決まりですねw

SUPER 8/スーパーエイト』や『ウルフ・オブ・ウォールストリート』などのカイル・チャンドラーはちょっと古風な顔立ちの男前で頼りがいのある男性役も多いですが、その彼に敢えてこういう役を振る、というのも巧いな、と。

 


彼が演じるハージは、酔っ払って妻に向かって怒鳴るし暴力的な側面もあるが、けっして悪人ではない。クリスマスに彼が呑んでヤケを起こさずにはいられない気持ちは同じ愚かしい男である僕にもわかる。

彼は特殊な人間ではなく、あの当時の平均的な男性像、夫像なのかもしれない。

そしてだからこそ、これは世の中の男性に対する一つの批評にもなっている。

1950年代から男性たちの意識はどれだけ進歩しただろうか。もしかしたらまったく変わっていないのではないか、という問いかけ。

ハージがキャロルの元恋人アビーのもとを訪れる場面では、アビーから妻を理解していない男への辛らつな言葉が発せられる。

アビー役のサラ・ポールソンは『それでも夜は明ける』では奴隷を虐待する農園主(ミヒャエル・ファスベンダー)の妻を演じていて、あの映画では物凄く恐ろしかったけど、この『キャロル』ではキャロルの危機には“お助けウーマン”のように飛んでくる頼りがいのある幼なじみの親友を好演。




僕はこのアビーの立ち位置がどうもよくわからなかったんですが、原作小説を読まれたかたによると、原作ではアビーはキャロルとテレーズと三角関係のようになるらしい。

映画版ではそれをキャロルとテレーズの二人の話に絞ったようで。

だからアビーの行動や彼女とキャロルの関係が少々わかりづらいというか、元恋人とはいえなぜこの人はこんなにキャロルに尽くすんだろう、という疑問がちょっと解けました。

最初に書いたように僕はこの映画について予備知識をまったく持っていなかったので映画を観始めてから「あ、これは百合映画なのか」とようやく理解したんですが、それでもそういう女性同士の関係はあくまでもほのめかす程度だと思ってたら、ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラのカラミが結構ガッツリ描かれていたのでちょっと驚いたんですよね。

そういえばこの映画、PG12だったな、と。

ルーニー・マーラは『ドラゴン・タトゥー~』でも裸の胸を露わにしていたけど、今回もとても綺麗なおっぱいを見せてくれます。

対するケイト・ブランシェットは背中越しの筋肉質な上半身のみで髪に隠れて顔もよく見えないのでもしかしたらボディダブルかもしれませんが、それでもケイト・ブランシェットとルーニー・マーラのベッドシーンというのはなかなか魅惑的ではありました。


ちょっと前にWHO(世界保健機関)が喫煙シーンのある映画は成人指定に、と各国に勧告して話題になりましたが、この映画ではそんなバカバカしい抑圧にベェ~っと舌を出すように喫煙場面が頻出する。

喫煙行為というのは、体制だとかマジョリティへの反抗も意味するんでしょう。

キャロルもテレーズも、それ以外の人々もみんなタバコを吸いまくる。

日本もそうだったように1950年代は禁煙の意識が今よりはるかに低かったのでタバコはそこら中で当たり前のように吸われていたし(父親が幼い子どもの顔の前で平気で吸ったりしていた)、当然映画の中でも喫煙場面はしょっちゅう描かれていた。

このあたりも、何か世の中の常識、こうあるべき、というルールに抵抗しているような、映画の作り手の意思表明のようにも思える。

ラスト、テレーズは再びキャロルのもとに行く。それはテレーズが自ら選んだ道だった。

見つめあう二人の甘く美しいエンディングだけれど、僕にはこれは愛しあう二人が結ばれたハッピーエンドというよりは、癒しようのない孤独の末の帰結に感じられた。

自分と異なる他者ではなく、互いに互いを内包しあう二人。

この映画は一度キャロルと再会したところに最悪のタイミングで知人の男性が現われて、彼にパーティに誘われたテレーズが車窓から外を眺める場面で始まり、最後にまたそのシーンに戻ってくる構造になっている。

ラストで、いったんテレーズはキャロルの誘いを断わって彼女と別れて友人たちとのパーティへ行くが、男女が酔って踊りイチャつきあっている中で彼女は所在なさげで、結局キャロルのもとへ向かう。

パーティに行く途中の車の中でテレーズの脳裏に去来した回想を2時間の作品として描いている。

ベッドをともにした翌日、私立探偵によって盗聴されていたことがわかりキャロルに不利な状況に陥った時「自分が何を求めているのかわからない」と言って泣いていたテレーズは、キャロルの愛を受け止めて彼女を愛することに決めたのだ。自分自身の意志で。

この映画は、迷いの中でようやく自分の探し求めていたものを見つけだした一人の女性の長い彷徨の物語だったのだろう。

二人の女性の愛の物語、という枠組みの中で、多くのことが描かれていました。

今年のアカデミー賞では作品賞と監督賞にはノミネートされませんでしたが(保守的なアカデミー会員がLGBT映画に理解を示さなかったため、とも言われる)、本作はケイト・ブランシェットの主演女優賞とルーニー・マーラの助演女優賞(主演と助演が逆ではないか?とも思うのだが…)を始め6部門でノミネート。

さて、オスカーの行方や如何に。



追記:

第88回アカデミー賞の主演女優賞は『ルーム』のブリー・ラーソンが、助演女優賞は『リリーのすべて』のアリシア・ヴィキャンデルがそれぞれ受賞。『キャロル』は無冠に終わった。


関連記事
『ナイトメア・アリー』
『ウーマン・トーキング 私たちの選択』
『燃ゆる女の肖像』
『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』
『ハンズ・オブ・ラヴ 手のひらの勇気』
『ブルックリン』
『ラヴ・ストリームス』



キャロル [DVD]/ケイト・ブランシェット,ルーニー・マーラ

¥4,104
Amazon.co.jp

「キャロル」オリジナル・サウンドトラック/サントラ

¥2,700
Amazon.co.jp

キャロル (河出文庫)/パトリシア ハイスミス

¥886
Amazon.co.jp

アイム・ノット・ゼア [DVD]/クリスチャン・ベイル,ケイト・ブランシェット,リチャード・ギア

¥5,076
Amazon.co.jp

エデンより彼方に [DVD]/ジュリアン・ムーア

¥2,571
Amazon.co.jp

ベルベット・ゴールドマイン [DVD]/ユアン・マクレガー,ジョナサン・リス=マイヤーズ,クリスチャン・ベイル

¥1,186
Amazon.co.jp

見知らぬ乗客 スペシャル・エディション 〈2枚組〉 [DVD]/ファーリー・グレンジャー,ルース・ローマン,ロバート・ウォーカー

¥3,218
Amazon.co.jp

太陽がいっぱい 最新デジタル・リマスター版 [DVD]/アラン・ドロン,マリー・ラフォレ,モーリス・ロネ

¥4,104
Amazon.co.jp

ギリシャに消えた嘘 [DVD]/ヴィゴ・モーテンセン,キルステン・ダンスト,オスカー・アイザック

¥4,104
Amazon.co.jp



にほんブログ村 映画ブログへ にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ