キム・ボラ監督、パク・ジフ、キム・セビョク、パク・ソユン、イ・スンヨン、チョン・インギ、パク・スヨン、ソン・サンヨン、チョン・ユンソ、ソル・ヘインほか出演の『はちどり』。2018年作品。

 

1994年の韓国、ソウル。中学生のウニは高校生の姉や名門のソウル大学を目指す兄ら5人家族で集合団地に住んでいる。学校のクラスに馴染めず、通っている漢文塾の親友ジスクと遊び歩いたり、恋人のジワンと戯れたり、後輩から憧れられたり、塾で優しく大切なことを教えてくれるヨンジ先生を慕ったり楽しいこともある一方で、日常の小さな理不尽さに苛立ちを覚えることも。そんな14歳の少女が見た20数年前の日々を描く。

 

映画サイトでこの作品の存在を知って、公開後も評判がいいので気になっていました。

 

上映されているミニシアターは結構混んでいて(とても小さいところなので)前方の座椅子に腰掛けて鑑賞。椅子が固定されてないから転がらないように無理な体勢でスクリーンを見上げ続ける形になって、しかも上映時間は138分あるので観終わったら足が痺れてしまった。

 

大きな事件らしい出来事もない淡々とした作品で正直途中でちょっと「長いな…」と思ったんだけど、でもやはり90年代に観た単館系の小さな映画たちを思い出して懐かしい気持ちになりました。

 

物語はキム・ボラ監督自身の体験をもとにしているのだそうで。

 

どこにでもいそうな中学生の女の子の日常から「家族」や「愛すること」「愛されること」などについて思いをめぐらせる、そんな作品でした。

 

 

 

これも今年観た『パラサイト 半地下の家族』の感想で、僕は韓国映画の中の家族の描写への違和感について述べたんですが、より日常描写に焦点が当てられているこの『はちどり』は、『パラサイト』で感じた疑問への注釈のような役割を果たしてくれました。

 

家父長制で子どもは父親には敬語で話す。男が優遇されがちで女性への暴力は放置されがちなことなど。

 

 

 

2020年の現在ではどうだか知らないけれど、少なくともこの映画の舞台である90年代当時は主人公ウニの家族間での価値観や、夫婦、親子関係はごく普通だったんでしょう。

 

ただ、たとえばこの作品についてはいろんなところで、ウニの両親は彼女に無関心、ということを強調して紹介されているんだけれど、僕が同じぐらいの年頃だった時を思い返すと、自分の親の僕への接し方だってウニの両親とそんなに変わらなかったんじゃないかと思ったんですよね。

 

僕の父親は僕に話しかけてくることがほとんどなかったけど、じゃあ、あれは息子に無関心だったんでしょうかね。

 

親って、子どもが期待してるほど自分たちの子どものことを気にかけてなどいないものだ。驚くほど子どもの苦しみに無頓着だったりする。でも本人たちは子どもを大切に思っているつもりでいる。

 

そのあたりの親子間の意識のズレは、子どもだった頃の自分と親になってからの自分、その両方の記憶と意識がある者だけにわかるのかもしれない。

 

確かに上に姉と兄のいるウニは自分は家族から放っとかれがちだと感じているのは伝わるんだけど、映画を観ていると父親も母親もことさら彼女に無関心なわけでも厳しいわけでもない。

 

映画評論家の町山智浩さんの作品紹介で、ウニの母親はウニのことを無視している、と語られていたので、僕はこれは虐待とかネグレクト(育児放棄)が描かれた作品なのかと思っていたのだけれど、実際に観てみると母親はいつも疲れたような表情をしてはいるものの、わりと頻繁にウニと会話してるし(お餅を持たせたり肩に湿布貼らせたり)、父親も長男の勉強についてうるさく言うものの、やはりウニに対して特別つらくあたるわけでも無視してるわけでもなかった(ウニの万引きがバレて家に電話されても、父親がにべもなく「(娘を)警察に連れていってくれ」とあんまりな返事をする描写はあるが)。

 

ウニの塾でのこととか普段の生活ぶりについて両親が尋ねたり興味を持っているように見えない、というのはあるけれど、両親は商売をやってて働き詰めだし、疲れてて子どもとあまり会話がない、というのはそんなに特殊な家庭環境でもないでしょう。

 

つまり、ウニは他の家庭と比べて特別苛酷な生活をしているわけではない。

 

兄が振るう暴力のことを親友のジスクに相談すると、「こっちはゴルフクラブで殴られる」と言われる。彼女は兄の暴力で口許にできた痣をマスクで隠している。

 

 

 

誰もおおっぴらに文句を言わないが、監督自身が当時覚えていたのだろう違和感や疑問、不満がウニの目を通して描かれている。

 

映画の冒頭で家のドアに鍵がかかっていてウニが必死に中の母親に開けてくれるよう頼むが開けてもらえない、という描写があって、この場面についても町山さんは母親が故意にウニを締め出しているような説明をされていたけれど、でもこのあとウニが上の階の部屋の呼び鈴を鳴らすと母は普通にドアを開けてくれる。

 

僕の見間違いでなければ、最初にウニがベルを鳴らしていたのは9階で、その次に鳴らしていたのは10階だったと思うんですが。部屋番号が違ってたんですよね。

 

単純にウニが自分のうちのある階を間違えていたのか、それとも何か別の意味があるのか、町山さんが仰ってたように母親がわざとドアを開けなかったのか、映画を観ただけではこのシーンの意味がよくわからなかった(劇場パンフレットの監督のインタヴュー記事では、ハッキリと「ウニの勘違い」と述べられている)。

 

何か揚げ足を取るような書き方で申し訳ありませんが、そうではなくて、「母親が故意に末娘にあたっている」のと、実際にはそうではないが娘がそう感じている、というのとでは大きな違いがあると思うので。

 

母親がウニを無視しているような場面はもう一つあって、家に帰る途中だったかで、ウニがたまたま母親を見かけて声をかけるが、母は無反応であさっての方角を見つめている。ウニがいくら母を呼んでも彼女は娘の声など聴こえていないかのようにこっちを向いてはくれない。

 

けれども、その直後にウニが帰宅すると、母は父と並んで寝そべっていて、普通に娘と言葉を交わす。

 

ここも意味がよくわからなかった(あんなに近くで呼んでても気づかないなんてことはないだろうし、ウニも叫んでないでとっとと母親のもとへ行けばいいのにそうしない)。

 

町山さんはこれを、母親が末娘だけ無視している、と解釈されたんだろうけど、僕はこれらは町山さんの解説を聴いて最初に自分が想像したような、単純な(たとえば『万引き家族』の幼い少女の実の母親が行なっていたような)虐待の描写ではないんじゃないかと思うんですが。多分、そんなわかりやすい話ではない。

 

映画の後半でウニが耳の裏の“しこり”を除去するための手術を受ける前に父親は娘を不憫に思ったのか声を上げて泣くし、母親もウニの世話をちゃんとしている。病気になったから急に優しくなったということではなくて、両親はもともとウニのことを邪険に扱っていたんじゃないんですよね。

 

ただ、ウニは「愛されたい」「気にしてもらいたい」という気持ちが強くて、その想いが「両親、とりわけ母親が自分を無視している」という思い込みに繋がったんじゃないか。

 

自分は両親から愛されていないのではないか、という恐れ。それは身に覚えのある感覚ではある。

 

詳しいことは知らないけど、この映画は監督の体験がもとになっているということだから、いくら呼んでも母がこちらに気づいてくれなかったエピソードというのも、本人にすら意味がよくわからない、理由が説明できない、もはや事実なのか空想なのかもわからない不思議な記憶の断片、ということなのでは。僕はそのように勝手に解釈してますが。

 

これも劇場パンフに載っているインタヴュー記事によれば、監督は母親から無視されたという具体的な経験をしたわけではないようで(そのような言及は特にないので)、あの母の姿はある種の“象徴”として描いたもののようです。母もただ家族の中で「母」という役割以外の、個人としての自分があったのだ、と。

 

それ以外でも、重要な登場人物であるヨンジ先生の場合も、やはり特に実在の人物をそのまま描いたというよりは過去に出会った先生を部分的にモデルにした程度で、先生が橋の崩落で亡くなってしまう、という出来事も実際にあったことではなくて映画の中での創作のようです。

 

 

 

つまり、この映画は「実話の映画化」ということではない。

 

あくまでも、監督自身の思春期の数々の記憶をもとにしたフィクション。

 

だからこそ、表現としては淡々としているけれど、ここにはさまざまな劇的効果を狙った演出がある。それはこの題材を映像化するためにもっとも適切な手段として意識的に選ばれたものなんですね。

 

この映画に感じるリアリティや普遍的ないくつもの「女子像」というのは、偶然生まれたものではない。

 

面白かったのが、先ほどの町山さんの映画紹介の最中に、番組MCの山里亮太さんが妻の蒼井優さんとこの映画を観たところ、蒼井さんはとても共感していたが山里さんはちょっとピンとこなかった、という話をされていたこと。

 

それは蒼井さんが同じ女性として主人公のウニに共感しやすい部分が多かったということももちろんあるだろうけど、日常の中でのふとした“さざなみ”のようなものを受け取る感度にもよるんじゃないかと思った。

 

ウニはある日、親友のジスクに「ウニって時々、自分勝手」と言われる。ちょっと呆気にとられたような表情をするウニ。多分、彼女にとっては心外な言葉だったんだろう。

 

僕は高校生の時に友人から「お前ってマイペースだよなぁ」と言われて、エッ?ってなったことがあるんですが、おそらくここで友人が言ってた「マイペース」というのはウニがジスクに言われた「自分勝手」と同じような意味だったんでしょう。

 

僕は自分は結構まわりに気を遣って生活しているつもりだったから「マイペース」などと言われたことにちょっとムッとしたし「俺がほんとに“マイペース”に過ごしたら、こんなもんじゃねぇぞ」と(心の中で)反発したんだけど、他の人から見れば僕は充分マイペースで、つまりまわりよりも自分の方を優先する自己本位的な性格だということなんでしょう。今ではそれは否定しないが。

 

こんな些細な、一見どーでもいいようなことを気にするかどうか。

 

先ほども少し触れたようにウニは「愛されたい」「気にされたい」という気持ちが強くて、付き合っているジワンに向かって彼女の方から「キスしよう」と言って唇を重ねる(が、その直後に唾を吐く)積極的なところもあるし、後輩の女の子ユリに好意を持たれた時もそれに応えようとする。

 

だから、ただ受け身なだけではないんだけど、でも彼女が行動を起こすのはジワンやユリが自分のことを好きになってくれたから。

 

両親からの愛を求めているように、彼女は人から愛されることを求めている。

 

それは特別なものではなくて、ごく普通の欲求だ。それでも親友からは「自分勝手」と言われてしまう。ちょっと納得いかない。でもそういうことはある。

 

万引きがバレると、“親友”だと思っていたジスクはさっさと裏切って文房具屋の店主にウニの両親の店の住所を告げ口する。

 

あとで仲直りできたものの、“親友”に「裏切られた」という傷はおそらくウニの心からは消えない。

 

手術のために入院していたウニは無事退院して学校に戻るが、彼女に好意を持ってくれていたはずのユリに冷たくされてしまう。

 

理由を問いただすと、「…前期の話ですよ」と衝撃の一言。中学生の時間はめまぐるしい。

 

ちなみに、“ユリ”というのは、韓国語で“ガラス”という意味だそうです。

 

ウニの母親が夫との口論で投げつけて割ったのもガラス製のランプだった。

 

ここでのガラスとは、壊れやすいもの、失われやすいものの“象徴”なのだろうか。

 

また、恋人のジワンはウニとイチャついてる時には調子のいいことを言っているが、別の女の子とこれまた堂々とじゃれ合っていたり、母親には頭が上がらず、その母親がウニのことを「餅屋の娘」と蔑むとそれを非難することもなく母親の尻にくっついてウニの前から黙って立ち去る。

 

 

 

その後、再びウニの前に姿を現わして弁解してヨリを戻そうとするジワンに、ウニは「今までも好きだったことはない」と言い放って去る。

 

家では兄に殴られっぱなしのウニだったが、ここで頼りない男に自分の意思で引導を渡す。

 

この映画の中での男性たちは、中学校のウニのクラスの担任教師も含めて権威主義的だったり暴力的だったりマザコンだったりとどいつもこいつも情けない奴らばかりで、ウニの父親や兄が唐突に泣き出す姿は監督は意図してあのように演出したとのこと。

 

実は弱い人たちなのだ、と。

 

そんな情けない男たちでさえも、この映画の作り手はわかりやすい“悪役”としては描いていない。

 

受験のプレッシャーでストレスを溜めて妹のウニを殴る兄のデフンなんて、同じ男の僕でさえも「こんなクソ野郎はホルガ村に送られて燃やされればいいのに」と思うぐらいのDV男だけど、そんなクズすらもこの映画では「まともなところもある」ことを描くんですね。

 

手術を終えたウニを労うような態度を見せたり(でも、そのあとで自分に楯突いたウニを殴って彼女の鼓膜を損傷させるのだが。どこまでもクズ)、車に姉とウニを乗せて、崩落したソンス大橋を一緒に見にいったりする。

 

人にはいろんな特徴や性質がある。何もかもがすべて“悪”に染まっているわけではない。

 

この映画に豊かなものを感じるのは、そういう人間の多面性もちゃんと認識しているから。

 

父親は偉そうにしているけれど、でも彼が家族に手を上げる場面はない。むしろ、妻の方がガラス製のランプを夫に投げつけて彼に怪我を負わせる。

 

そんな激しい夫婦喧嘩をしておきながら、次の場面では仲良く夫婦でTVを観て笑っている。その様子を戸惑い気味に眺めるウニ。だけど、夫婦って、人間って、そういうものでもある。

 

僕は普段は起承転結がハッキリしていたり、勧善懲悪のスーパーヒーロー物(さすがに最近は飽きつつあるが)なんかを観ることが多いんだけど、たまにこういう地味で小さな映画を観るととても感じ入る。

 

『パラサイト』のようなエンタメ作品も、この『はちどり』のような映画も、どちらも自分には必要なんだと思える。

 

「地味で小さな映画」などと言ったけど、94年に実際に起こったソンス大橋の崩落を再現した映像なんかはどうやって撮ったのかわからない。VFX(特殊効果)なんだろうけど、ウニたちきょうだいが見つめるあの損壊した橋の様子はやたらとリアルだったから。

 

ヨンジ先生があの事故の犠牲になったという衝撃的な展開については、正直なところウニが事故のTVニュースを観て慌てて実家に電話して親に通学途中だった姉の安否を確認するよう告げるあたりで予想がついたので、その時点でヨンジ先生という人物自体に監督があの時代だとか自分と同じ女性たちに対する多くの想いを込めているんだろうことはよくわかった。

 

 

 

ヨンジ先生のどこかに傷を負った儚げな風情、それでもその煙草をくゆらす姿とウニへの「殴られたまま我慢しないで」という言葉から、痛みを乗り越えていこう、という未来への希望が感じられる。

 

ヨンジ先生と同じく漫画を描くのが好きなウニは、きっと先生の想い、その遺志を継いでいくのだろう。キム・ボラ監督がこの映画を作ったように。

 

ウニはまっすぐ前を見つめている。

 

ヨンジ先生は、ウニが初めて心から「先生が好きです」と言えた人だった。

 

これからの彼女は「愛されることを求める人」から「自ら愛する人」になるのだ。

 

 

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