ノア・バームバック監督、スカーレット・ヨハンソン、アダム・ドライヴァー、アジー・ロバートソン、ローラ・ダーン、レイ・リオッタ、メリット・ウェヴァー、アラン・アルダ、ジュリー・ハガティ、ウォーレス・ショーンほか出演の『マリッジ・ストーリー』。2019年作品。

 

第92回アカデミー賞助演女優賞(ローラ・ダーン)受賞。

 

ロサンゼルスで女優の仕事をしているニコール(スカーレット・ヨハンソン)とニューヨークで劇団を主宰しているチャーリー(アダム・ドライヴァー)は離婚に向けての話し合いをすることになるが、ニコールの弁護士ノラ(ローラ・ダーン)はチャーリーには身に覚えのないことを理由に夫婦の息子ヘンリー(アジー・ロバートソン)の親権のことやチャーリーが受けることになった援助金の分与についての要求をしてくるのだった。穏やかに別れるつもりだったふたりは、次第に相手への不満が剥き出しになっていく。


Netflix製作なので当初観る予定はなかったのですが、それ以外で観るつもりがなかったもう一つの理由として、この映画がある夫婦の「離婚」を描いたものだということがわかっていたから、というのがある。僕は結婚していないし今後する予定もないので、そういう映画に自分との接点を見出せると思えなかった。

 

ちょうど10年前にやはり離婚する夫婦を描いた『ブルーバレンタイン』を観て、とても素晴らしい出来の映画だと思ったんだけど、その内容は胸が掻きむしられるようなつらいものだったので映画観てそういう思いをわざわざしたくはなかった。

 

それでもアカデミー賞関連作品であることや、ここのところイイ仕事が続いているスカーレット・ヨハンソンとアダム・ドライヴァーの主演作品ということが気になって。

 

ジョジョ・ラビット』に続いて、ここでも靴紐を結んでるスカーレット・ヨハンソン

 

やり手弁護士役のローラ・ダーンもここのところ出ずっぱりですね

 

ちょうど劇場で期間限定公開されていたので鑑賞。

 

で、観てみて監督が前妻ジェニファー・ジェイソン・リーとの離婚経験を基にしたその内容は実際なかなかキツいものがあったんですが、出演者たちの演技は『ブルーバレンタイン』同様に評判通りの素晴らしさで見応えがありました。

 

ちなみにバームバック監督の現在のパートナーは映画監督で女優のグレタ・ガーウィグで、彼女は監督作品の『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』が今年のオスカーの作品賞などでノミネートされて衣裳デザイン賞を獲得しているので、カップルで揃ってそれぞれの監督作がアカデミー賞を受賞しているんですね。うまいこと繋がってるなぁ。離婚を経て、その後の仕事の方も順風満帆のようで何より。

 

ガーウィグ監督の『ストーリー・オブ・マイライフ』の方も、従来の「若草物語」を現代的にアレンジしていてやはり女性の社会的な自立についての物語のようなので、こちらも楽しみにしています。

 

では、これ以降は内容について書きますので、これからご覧になるかたはご注意ください。

 

 

映画評論家の町山智浩さんはこの作品の解説の中で「家族なんだから」と、離婚して離ればなれになっても完全には断ち切れないその絆を強調されていたけれど、それはたまたまこの夫婦や親子がそうだっただけであって、世の中には元伴侶や親と別れたまま二度と会わず絶縁する人はいるし、では彼らには互いに「愛情」が欠けているのかというとそういう問題じゃないでしょう。DVや性暴力などで決裂した関係は、夫婦だろうと親子だろうと修復することが不可能なこともある。だから、「家族の愛」をことさら強調することには僕は懐疑的なんですが。

 

現在、日本でも「子どもの連れ去り」の問題がしばしば話題になっていて、“連れ去られた側”が訴訟を起こしたりしてますが、そこでは配偶者の暴力が原因であることも多いので、一概に連れ去った側が悪いとはいえないところもある。「家族なんだから愛がある」と簡単に言い切っていいものだろうか。

 

日本にはアメリカのように元夫婦で子どもの「親権」を分けられないので(親権と監護権を分けることは可)、この映画で描かれているように裁判で親権のパーセンテージを争ったり、両親の離婚後にも子どもが頻繁に双方を行き来するような光景はそんなに馴染みがないし、だいたい親の都合であちこち連れ回される子どもが不憫だ。子どもの気持ちはどうなんだ、って思う。

 

もちろん、これまでにそういう環境で育ってきたり、今現在そのような生活をしている人もいるのだから、僕なんかが彼らを憐れむ筋合いはないかもしれませんが。

 

家族の形はそれぞれなのだから、何が絶対的な「正解」だと言うこともできないし。

 

今ちょうど朝の連続テレビ小説「スカーレット」でも主人公は夫と離婚して何年も経ち、その関係が今後どうなるのか視聴者は注目しているところですが、題材としてとてもタイムリーなんだなぁ、と。

 

僕の友人にも従兄弟にも離婚経験者はいるし、その後の身の振り方もさまざまで、別の相手と再婚して新しい家庭を持った人もいれば、「結婚はもうこりごり」と独身を続けている人もいる。離婚した事情だっていろいろだろうから、一度家族になったんだからこの先も繋がっている、とは限らない。終わらせてかかわりを絶つことだってあり得る。

 

僕は結婚をしていないから、たかだか映画を観ただけで結婚や離婚をわかったような気になることは控えたいですが、それでも映画というのは自分が実際に経験していないことを疑似体験させてくれるものでもあるので、『ブルーバレンタイン』や『レボリューショナリー・ロード』(2008)を観た時もそうだったように、結婚も離婚も映画の中だけで充分、とつくづく思った次第。

 

それにしても、『6才のボクが、大人になるまで。』(2014)でも感じたことだけど、あちらの人たちはたくましいね。良くも悪くも。生命力に溢れているというか、子どもに対する執着とか、どんどん親戚や家族が増えていくことへの抵抗のなさとか。元配偶者や新しいパートナーやその親族とかが定期的に一堂に会したりしてるし。僕はちょっとそういうの想像もつかないんで。

 

僕の友人の女性に、結婚して夫の転勤先で出産したけれど夫婦ともに育児ノイローゼになってしまい離婚、子どもの親権を元夫側に持っていかれてしまった人がいるけれど、彼女はそれでへこたれずにその後違う相手を見つけて結婚、新しく子どもも授かって今に至る。そのパワフルさというか、胆力には恐れ入る。なんか根本のところが自分などとは違う気がする。

 

なんだか映画の内容以外のこと、それも人様のことばかり語ってますが、何度も申し上げているように僕は結婚の経験がないので自分のことは語れませんから。

 

ただ、自分にも親はいるわけで、だから僕は息子のヘンリーの立場から映画を観ていました。

 

ヘンリーは一見すると無邪気な男の子だけど、彼はずっと両親の顔色をうかがっている。

 

 

 

あれだけ互いに怒鳴り合うような親たちの前で彼自身はけっして駄々をこねて大声を上げたり暴れたりしないし、仮に意識はしていなくてもその言動や表情から、どうにか両親がもとのように仲良くなってまた3人で一緒に暮らせないだろうか、といつも心を砕いているのが伝わる。

 

ヘンリーはそれまで住んでいたニューヨークの友だちよりも母と新しく移り住んだカリフォルニアの学校の友だちの方がいい、と父チャーリーに話す。

 

それはただ自分の正直な気持ちを言っただけかもしれないが、もしかしたらそう告げることで父がまた自分や母と一緒に住むことを決心するのを期待していたのかもしれない。

 

彼が笑顔のまま母と父の手を掴んでずっと離さない場面に、ヘンリーのあの笑顔の奥にグッと隠した涙を見た気がした。あれはヘンリーの「離れないで!」っていう叫びだったんだろうな。

 

是枝裕和監督の『海よりもまだ深く』(2016)でも別れた元夫婦とその元妻に引き取られた息子の3人が出てくるけれど、あの映画はちょっとユーモラスに、特に阿部ちゃんが演じる元夫をかなりダメで飄々とした男として描いていたのでそんなに深刻に感じずに済むようにはなっていた。

 

息子は父に普通に懐いているが、母にはもはや元夫への愛はなく、新しい交際相手もいる。描かれ方は異なっていても『マリッジ・ストーリー』と似た設定なんですよね。観比べてみるとその違いが面白いですが。

 

『海よりもまだ深く』の方では元夫の母親が出てくるんだけど、『マリッジ・ストーリー』は妻側の母親。この母親(ジュリー・ハガティ)が娘の夫=義理の息子チャーリーと妙に仲が良くて、娘の離婚にも反対するし、娘同様に女優という設定なので、これもちょうど是枝監督の『真実』のカトリーヌ・ドヌーヴのようなどこか浮世離れしたお母さんなんですよね。

 

だからあのあたりの描写は僕は『海よりもまだ深く』で樹木希林さんが演じた庶民的なお母さんのように親近感が湧かなくて、まぁ、ああいう母親もいるかもね、といった感じでした。スカーレット・ヨハンソン演じるニコールの姉キャシー(メリット・ウェヴァー)は、妹と違ってかなりポンコツに描かれていて笑わせてくれましたが。

 

「スカーレット」(紛らわしいけど朝ドラの方です^_^;)でもヒロインが離婚したり元夫との関係や距離感が独特だったりするように、現実でも夫婦とか親子とか“家族”ってそれぞれその人たちだけのそこにしかない唯一のものなので、本人たちにとってどのような状態が「ベスト」なのかは自分たちで探りながら見つけていくしかないんですよね。他の人たちにどう見えるかは関係ないし、他の家族の形は参考にはなってもそれをそのまま自分の家族に置き換えることはできない。別の人間同士なんだから。

 

『マリッジ・ストーリー』のニコールとチャーリーはどちらかが一方的に悪くてもう片方は100%正しい、みたいなことはなくて、互いに至らないところや判断ミスもあるし、結果的に息子を振り回してもいるのだから、どっちもどっちではある。

 

 

 

 

ニコールは夫に尽くすだけの人生には満足できない人で、彼女には明確な目標、やりたいことがあり、周囲からその才能も認められている。8年間、ニューヨークの夫のもとで彼に協力してきたが、それは夫を支えることにはなっても彼女自身の可能性を伸ばすことには繋がらなかった。

 

ニコールにはカリフォルニアでTVドラマや映画の仕事がある一方で、チャーリーはニューヨークで劇団を運営していてブロードウェイの舞台公演がある。

 

彼らの場合は物理的な距離が問題だった。

 

L.A.とNYとの間は約4000km。北アメリカを横断する長距離。北海道から沖縄までよりも遠い。そこをしょっちゅう行き来するのは経済的にも結構な負担だし、時間だってかかる。これだけ離れた状態で夫婦としてやっていけるかといったら難しいでしょう。結婚してる意味がなくなってしまう。

 

 

 

逆にいえば、この物理的な距離の問題さえ解決すれば3人は再び一緒に暮らすことができたはず。

 

チャーリーの最初の弁護士(アラン・アルダ)も、チャーリーが妻の住むカリフォルニアに移ることを勧める。

 

でも、チャーリーには劇団員たちを食べさせていく責任がある。だからカリフォルニアには住めない。ニコール同様に、彼には彼なりの事情がある。

 

チャーリーは同じ劇団の女性と浮気して、それがニコールの逆鱗に触れるわけだが、単にそれだけが離婚の原因だったのではなくて、お互いに積もり積もったものが招いた結果だった。

 

ニコールがまるでチャーリーへの仕返しのように仕事の現場で自分に言い寄ってきた男と車の中でコトをいたす場面で、相手に「指でして」と指示するところが可笑しかった。彼女なりの線引きだったんでしょうかね。あたしは他の男のアレは入れさせてはいねぇぞ、と。なんの意地なんだ^_^;

 

憎み合っているわけではない。ヘンリーが望んだように、なんだったらやり直せる可能性だってあったのに、それでも彼らは別れる道を選んだ。

 

それが正解だったのか、それとものちのち大いに後悔することになるのかはわからない。

 

チャーリーには未練があり、ニコールは早速別のパートナーを見つけて新しい生活を満喫している。

 

その違いが、両者がそれぞれに唄う歌のメロディや歌詞の内容で表現されている。

 

果たして、息子のヘンリーはどんな歌を唄うのだろうか。

 

 

※レイ・リオッタさんのご冥福をお祈りいたします。22.5.26

 

 

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