スパイク・リー監督、ジョン・デヴィッド・ワシントン、アダム・ドライヴァー、ローラ・ハリアー、トファー・グレイス、ヤスペル・ペーコネン、アシュリー・アトキンソン、ポール・ウォルター・ハウザー、ライアン・エッゴールド、フレデリック・ウェラー、ロバート・ジョン・バーク、マイケル・ブシェミ、ダマリス・ルイス、クレイグ・マムズ・グラント、コーリー・ホーキンズ、ハリー・ベラフォンテ出演の『ブラック・クランズマン』。2018年作品。

 

製作は『ゲット・アウト』の監督ジョーダン・ピール。

 

第71回カンヌ国際映画祭グランプリ、第91回アカデミー賞脚色賞受賞。

 

原作はロン・ストールワースの回想録「Black Klansman」(映画版の原題は“BlacKkKlansman”)。

 

 

1970年代、コロラドスプリングスで唯一のアフリカ系の警察官ロン・ストールワース(ジョン・デヴィッド・ワシントン)は、白人至上主義団体KKK(クー・クラックス・クラン)のメンバー募集の新聞広告を見て支部に電話する。上司に潜入捜査の許可を取り付け、KKKの構成員たちと対面する時には同僚の白人警官フリップ・ジマーマン(アダム・ドライヴァー)がロンに成りすますことに。しかし、黒人同様にユダヤ人を異常なまでに憎むKKKのフェリックス(ヤスペル・ペーコネン)がフリップを執拗に疑い、また彼はブラックパンサー党の代表であるクワメ・トゥーレ=ストークリー・カーマイケル(コーリー・ホーキンズ)と繋がりのあるパトリス・デュマス(ローラ・ハリアー)の命を狙っていた。

 

今年のアカデミー賞で作品賞など6部門でノミネートされて、脚色賞のみ受賞。監督のスパイク・リーが授賞式後に作品賞を受賞した『グリーンブック』を揶揄するような発言をしたことが報じられていました。

 

『グリーンブック』も『ブラック・クランズマン』と同じく人種差別が題材として扱われていて、友情を描いた娯楽作品としてよくできていたので僕も楽しんで観たんですが、スパイク・リーの一件は気になっていたからこちらもぜひ観たいと思っていた。

 

で、以降の感想では時折両作品を比較して『ブラック・クランズマン』の方に肩入れするような論調で書きますが、僕は『グリーンブック』の存在意義や作品としての面白さを否定しているわけではないのでその辺はご了承ください。

 

僕があえて『グリーンブック』に批判的なニュアンスで書くのは、「スパイク・リーが『グリーンブック』受賞を批判した」ということが強調されて、そのことに対してしばしば「やっかんでるだけ」みたいなこと言ってる人たちが『グリーンブック』を支持したいがためにその批判者を嘲笑うような態度が気に食わないから。

 

理由があるから批判されているんだし、それにスパイク・リーはなんにでも難癖つけてるわけじゃないと思う。

 

『グリーンブック』が、たとえば『リーサル・ウェポン』や『48時間』(どちらも白人と黒人がコンビを組む)みたいなアクション映画だったら誰もここまで気にしたりしないだろう(オスカーの作品賞を獲ることもないだろうし)。真面目に人種差別問題を扱っている(と思われている)からこそ、「…それでいいのか?」という疑問が湧くわけで。

 

ちなみに、よく「批判」と表現されるし僕も『グリーンブック』の感想でそう書いてしまったけど、スパイク・リー自身は『グリーンブック』の内容そのものや映画自体を直接批判はしていない。『グリーンブック』のタイトルすら口にしていないし。

 

それでも、ハリウッド映画におけるアフリカ系の登場人物の描かれ方について劇中でも言及しているように、彼がガッカリしただろう理由はこの『ブラック・クランズマン』を観ればわかる。

 

『ブラック・クランズマン』での従来のアメリカ映画での黒人描写への批判は、ドキュメンタリー映画『私はあなたのニグロではない』でも同様の指摘がされていて大いに重なる部分があるので、興味があるかたはそちらもご覧になってみてください。

 

『グリーンブック』の受賞にケチをつけたくはないけれど(出演したマハーシャラ・アリや製作総指揮に名を連ねているオクタヴィア・スペンサーだって、企画の趣旨に賛同したからこそ参加したんだろうし)、僕はあの映画以上に『ブラック・クランズマン』は見応えがあってオスカーの作品賞に相応しい作品だったと思います。もしもこの映画が作品賞を獲っていたら、ほんとに画期的だったのに、と。

 

何が「相応しい」のかというと、エンターテインメントとしての面白さと同時にちゃんと問題提起をしているところ。ウェルメイドな『グリーンブック』もただ「いい話」なだけではなくて現実の課題を提示してはいたけれど、映画としての「新しさ」を感じるのは紛れもなくこちらの方だ。いろいろと「挑戦」しているから。

 

僕としてはぜひ両方の作品をご覧になってみることをお勧めしますね。映画の好みは人それぞれだから、観たうえでどちらが好きなのか決めたらいい。僕はどちらも好きです。観てよかったと思っている。

 

上記のような経緯があったこともあって、観る前はある程度の予備知識が必要なちょっと理屈っぽくて小難しい映画かと思っていたんですが、基本、アフロヘアの警察官が潜入捜査をする刑事物なので物語自体は難しいことは別にないです。『グリーンブック』がそうだったように、笑える場面もあるし。

 

ただ、「ブラックスプロイテーション映画」、『國民の創生』、『風と共に去りぬ』、KKKなどについては事前か鑑賞後にでも一応さらっと調べておくとより映画を理解しやすくなるでしょう。

 

90年代頃に読んでいた「映画秘宝」のムック本や映画評論家の町山智浩さんの著書「たまむすび」での解説などで、これらについてはなんとなく知ってはいました。もちろん、ストールワース本人による原作本を読めば理解度はさらに増すだろうけど、僕は未読。それでも問題はなかった。

 

 

 

↓こちらの記事も参考になります。

スパイク・リー『ブラック・クランズマン』のラストシーンから読み解く、2019年のDo the right thingとは?

 

 

では、これ以降は映画の内容について書いていきますので、まだご覧になっていないかたはご注意ください。

 

 

冒頭、『風と共に去りぬ』の一場面のあと、アレック・ボールドウィン扮するボーリガード博士なる架空の人物が、アフリカ系やユダヤ系の人々、共産主義者に対する耳が腐るかと思うほど酷いヘイトスピーチをキャメラの前でカマす。

 

これ、ヘイトの対象を別のある特定の国々そこに住む人々その国々にルーツを持つ人々に置き換えると、同じようなことを言ってる人間が日本にもいるでしょう。

 

これはけっして僕らとは無関係な海の向こうの話、ではないんだよね。

 

「祖国を愛せない者はこの国から去れ」という看板の文句にも聞き覚えがある。

 

この映画を観ていると、「差別する者」というのは住む場所がどこだろうと肌の色が何色だろうと言ってることややってることが非常に似通っているのがよくわかる。

 

KKKの最高幹部デヴィッド・デューク(トファー・グレイス)が、ロンに成りすまして潜入捜査中のフリップに向かって学問とは言い難い(むしろ思想)優生学を持ち出して語る、「白人偉い。それ以外の人種は劣る」という差別意識丸出しの主張については、町山さんが以前インタヴューした「オルト・ライト(オルタナ右翼)」の名付け親だというジャレッド・テイラーが流暢な日本語で人種間の生物学的能力差について似たようなことを言っていて、デヴィッド・デューク同様に「科学的に証明されている」などと吹かしていた(残念ながらYouTubeにあった動画は削除されている)。テイラーが「東アジア人は賢い」と言うのは、単純に彼が少年時代に日本に住んでいたからでしょう。自分が見聞きした部分だけですべてを語っている。「オルト・ライトの論客」などと呼ばれているらしいが、こいつのどこが論客なんだろうか。

 

 

デヴィッド・デュークを演じるトファー・グレイスは『スパイダーマン3』のヴェノム役だった人。最近では『アンダー・ザ・シルバーレイク』で言われないと気づかないほどささやかな役で出演していた

 

やはり劇中でフェリックスがフリップに語る「ホロコースト(ナチスのユダヤ人虐殺)はユダヤ人の捏造」という主張は、日本でもまったく同じことを言ってヒトラーを礼賛しているどうかしちゃってる人がいますよね。しかし、ヒトラーやKKKからすれば彼もただの「黄色い猿」に過ぎないのだが。顔をいじり過ぎて自分が黄色人種のアジア人であることを忘れてしまったのだろうか。

 

この映画は白人至上主義者、人種差別主義者たちの主張を観客である僕たちにじっくりと聴かせる。彼らが主張していること、その根拠としているものをあらためて提示して、それらがいかにいい加減で説得力を欠くものか見せつける。

 

「この国(アメリカ)はもともと白人のもの」などとホザいてるけど、違うでしょ先住民から奪ったんじゃないか。もう「どんどんツッコんでくれ」と言わんばかりの隙や穴だらけの論理。

 

明確な根拠があるから差別するのではなく、まず彼らの中に白人以外の人々に対する差別意識があって、理由はそのあとについてくるのだ。理由などいくらでもつけられる。

 

『グリーンブック』でヴィゴ・モーテンセン演じるイタリア系白人のトニーが黒人を生理的に嫌っていたのも、理由なんかなくてただ「嫌い」だったのだ。あるいはまわりの同じ白人のみんなが嫌ってるからそういうもんだと思っていた。

 

そういう男を「根はいい奴」「悪気はない」人間として肯定する『グリーンブック』にスパイク・リーがイラついただろうことは想像に難くない。

 

ここで暴かれているのは、たとえ悪気があろうがなかろうが人が人を差別する行為にはなんの正当性もないということ。

 

もしもスパイク・リーが『グリーンブック』を監督したら、主人公のトニー・リップはちょうどこの映画でポール・ウォルター・ハウザーが演じた薄らバカのように描かれるかもしれない。

 

アイ, トーニャ 史上最大のスキャンダル』でもほぼ同じキャラだった(笑)ポール・ウォルター・ハウザー演じるアイヴァンホーは「黒人はダンスが巧い。それだけは褒めてやる」と言うが、『グリーンブック』ではまさに黒人ピアニストのドン・シャーリー(マハーシャラ・アリ)は白人たちからピアノの腕だけを認められていた。

 

『ブラック・クランズマン』でも警察の書類管理担当の記録室に配属されたロンは、書類を取りにくる白人の同僚たちが黒人のことを当たり前のように「カエル」と呼ぶことに苛立ち、「ここにカエルの書類はない。人間のならある」と答える。白人警官はそれを鼻で笑う。それ以外でもロンは白人警官から数々の嫌がらせを受ける(このカエルの喩えは、おそらくスパイク・リーからのディズニーアニメ『プリンセスと魔法のキス』への痛烈な皮肉)。

 

あの白人警官たちだって、家では家族を愛する「いい人」かもしれない。だが、家族にとって「いい人」だったら彼らがロンにやってる仕打ちは許されるのか?

 

こういうことが今もなお続いている。

 

アイヴァンホーは「ハリウッドはユダヤ人に牛耳られている」と言うが、もともとハリウッドはユダヤ系の人々によって作られたんだから、ユダヤ系が多いのは当たり前といえば当たり前の話。

 

彼らKKKの連中が喜んで観ていた映画『國民の創生』だってユダヤ系の人々が大勢かかわってるはずで。ハリウッドからアフリカ系やユダヤ系の人々を追放したら、そこで作られる映画は物凄くつまらなくなるだろう。

 

フリップ役のアダム・ドライヴァーが出ている「スター・ウォーズ」だって、ハリソン・フォードもキャリー・フィッシャーもナタリー・ポートマンもユダヤ系(ポートマンはイスラエル出身)。

 

ドナルド・トランプはイスラエルに都合のいいことばかり勝手に決めてアラブ諸国やヨーロッパの国々から顰蹙を買ってるし、矛盾だらけだよね。差別の実態なんてほんとにイイカゲンなものなのだ。

 

そもそも「ユダヤ人」というのは人種名ではない。外見だってさまざまだから、見た目だけではわからない人だっている。

 

フェリックスがフリップを嘘発見器にかけてユダヤ人かどうか確かめようとしたり、割礼のしるしを確認しようとチンチン見せろと言ってる姿は、どう考えてもまともではないだろう。

 

だけど、ナチスはそうやって外見上の特徴や言葉遣いなどから判断してユダヤ人狩りをしていたのだし(その中にはユダヤ人ではない人々も含まれていた。隣国の出身者を見分けるために同じようなことがかつて日本でも行なわれた)、そのような異常な集団を信奉するような輩がどれだけヤバいかがよくわかる。

 

繰り返しますが、これは他所の国の僕らに関係ない話じゃないからね。

 

ハリー・ベラフォンテ演じる老人が語る黒人少年のリンチ殺害事件の話だって、僕たちは自分の国の歴史に置き換えて観るべきだ。

 

僕がこの映画を観ていて興味深かったのは、黒人を描いていて人種差別を扱っているんだからきっとサミュエル・L・ジャクソンばりの「マザ○ァッカ」「○ガー」連発の汚い言葉が主人公のロンの口からいっぱい出てくるんだろうと思っていたら、彼はそういう言葉遣いをしないし、登場するアフリカ系の人々のほとんどは大学生ということもあってか、「ブラック・パワー」に熱くなってシュプレヒコールを起こすことはあっても下品な言葉は使わなかったこと。これも僕の偏見による勝手な思い込みでした。いや、映画の中だとしょっちゅう汚い言葉を耳にするもんだから。

 

アフロや眼鏡のおかげで言われないと気づきませんが、パトリスを演じるローラ・ハリアーは『スパイダーマン:ホームカミング』で主人公が好意を持つクラスメイトを演じていた。心なしか今回の映画の方が生き生きして見えた

 

汚い言葉を使うのはKKKの連中だけ。

 

この映画では黒人たちは下品でもなければ凶暴でもない。

 

映画を観ながら、白人のランダース巡査(フレデリック・ウェラー)から嫌がらせを受け続けていたロンがいつコイツをぶん殴るんだろう、と思っていたんだけど、ロンは最後まで差別野郎に暴力は振るわない。知恵を使って最後に相手をやり込める。

 

そこは逆に痛快だったし、スパイク・リーのこだわりでもあったのだろうか。どう考えたって現実では白人が黒人に暴力を振るう場合の方が多いもんな。

 

ロンを演じるジョン・デヴィッド・ワシントンはデンゼル・ワシントンの息子だそうだけど、顔は似ていないながらも、白人警官に小バカにされて一人クンフー映画みたいなポーズをとって堪えるところとか飄々としたキャラクターを好演していてコメディの才能を感じさせるし、親父さんとはまた違った魅力を見せている。

 

ブラックパンサーの集会で、「革命」のために武器を備えておくべき、と言われているが、具体的に黒人たちが武装する様子は描かれない。一方でKKKの白人たちは黒人をかたどった標的に銃弾をぶち込んで悦に入っている。彼らが武器を手放せないのは、有色人種たちの逆襲が怖いから。臆病者だからこそ銃で過剰に身を守ろうとする。

 

もっとも、この映画では白人すべてを悪者にしているわけではなくて、基本的にロンの仲間の白人警官たちは気のいい連中として描かれている。

 

 

 

 

ちなみに署長を演じているロバート・ジョン・バークは、『ロボコップ3』でロボコップを演じてた人。警官繋がりか(『ロボコップ3』も白人以外のマイノリティたちが権力側の横暴に立ち向かう話だった。敵は日系企業でしたが)。

 

かつての「ブラックスプロイテーション映画」のようにイケてる黒人の主人公がアホな白人をぶちのめして溜飲を下げるのではなくて、誰が上だとか下だとかいうんじゃない、これは差別そのものをなくすための戦いなのだ。

 

トファー・グレイスはこの映画でデヴィッド・デュークを演じるにあたって役作りのためにデュークのことを詳しく調べているうちに気が滅入って落ち込んでしまったそうだけど、それはちょうど『それでも夜は明ける』で残虐な農園主を演じたミヒャエル・ファスベンダーが撮影中に苦しんだという話を思い出させる。

 

この映画で差別的で愚かな白人たちを演じている俳優たちは、この作品が訴えかけていることに共鳴してあえて損な役を引き受けているんだよね。

 

彼らが演じているのは、スーパーヒーロー映画に出てくるわかりやすいヴィラン(悪役)ではなくて生身の人間。愛し合う夫婦だったり、いつも紳士的な物腰だったり、その辺に普通にいそうな人間なんですね。だからこそ怖いのだが。

 

ロンが一緒に“二人一役”を演じた白人警官は史実ではユダヤ系ではなかったんだそうで、だからここでは意図的にアフリカ系以外の被差別者を描くことで、これを黒人だけの問題じゃなくてすべての人種差別についての話に広げている。

 

 

 

ここで描かれているのは「黒人VS白人」ではなくて、「黒人VS白人至上主義者、または白人男性至上主義者」(劇中でKKKの男たちが女性に対してどのような振る舞いをしていたか思い出してみよう)なんだよね。あるいは「反差別VS差別」と言ってもいい。

 

肌の色の違いにかかわらずさまざまな種類の人々が共存する世界を求める人々と、一部の偏った外見や思想、価値観のみを良しとする世界を求める奴らの戦い。

 

この映画を観て、自分はどちらに属するつもりなのかよく考えてみたい。

 

フリップ役のアダム・ドライヴァーは「スター・ウォーズ」シリーズに出てる時よりも格段に頼りがいがあって魅力的な人物になりきっている。

 

ハッキリ言って、映画を観ただけだとロンよりもフリップの方がよっぽど直接危ない目に遭ってて、みんなから褒め称えられるべきなのはむしろ彼じゃないのか、と思ってしまうんですが。

 

だいたい、なんで二人で一人を演じる必要があったのだろう。

 

ロンは白人の喋り方を真似てKKKの人間に電話でコンタクトを取ったわけで、だったら潜入してからはフリップが電話での受け答えも一人でできたのではないか、と思ってしまったんですが(実際はいきなりKKKに電話したのではなくて、メモを送ったら先方から電話がかかってきたんだそうだが)。

 

別にフリップは喋るのが不得手であるように描かれているのでもないのだから。

 

と、根本的なところで疑問を感じてしまったんですが、そこに目をつぶれば潜入捜査物のスリルと、フリップがユダヤ系であることがバレるのではないかというサスペンスも加わって、しかもKKKが爆弾でブラックパンサーの女性幹部を殺そうとする大盤振る舞いも。

 

このあたりの映画的に面白い展開がほとんどフィクションであることを知ったうえで観ると、スパイク・リーの意図がわかってくる。

 

これまでフィクションの映画の中で白人以外の有色人種たちはどれほど酷い扱いを受けてきたか。それは現実同様に白人たちにおいしいところを全部持っていかれて、笑い者にされたり悪役として退治されたりしてきた歴史だった。

 

ハリウッド映画で描かれる日本人や日本の姿の残念さを思い浮かべてみればいい。

 

そのことは、スパイク・リーがかつて『ドライビング Miss デイジー』(1989)で感じた失望や怒り、そして『グリーンブック』にも感じたであろう屈辱と同類のものだ。“彼ら”は私たちを見下している。

 

『グリーンブック』に関しては、「私は感動したんだからスパイク・リーが文句を言おうが黒人がどう感じようが映画の素晴らしさは変わらない」みたいなことを言ってる人もいるけれど、それは批判に耳を貸そうともせずに「俺が気に入ってんだからいいんだよ。いちいちうるせぇ」と居直ってるだけだと思う。

 

「自分はこの映画を好きだけど、でもこういう視点からの批判もあるのだ」ということを認識して、より多様な見方ができるようになれたらいいな、と思います。自戒の念も込めて。

 

『ドライビング Miss デイジー』でジェシカ・タンディが演じた白人の老女はユダヤ系だった。だから、『ブラック・クランズマン』でアフリカ系の主人公の相棒をユダヤ系にしたのはもちろんそれを意識したものでしょう。この映画は『ドライビング Miss デイジー』に対するスパイク・リーからのアンサーなのかもしれない。

 

だからこそ、この映画がオスカーの作品賞を獲っていたら、ハリウッド映画史における「すべての差別を憎む者たち」のハッキリとした宣言にもなったはず。アカデミー賞はその絶好のチャンスを自ら捨ててしまった。

 

皮肉にも、映画の最後に映し出される、極右集会に抗議するデモの人ごみの中に猛スピードの車で突っ込んで活動家のヘザー・ハイヤーさんの命を奪った白人至上主義者の恐ろしいヘイトクライムは、黒人警官がKKKの最高幹部をおちょくって「ざまぁ!」と気持ちよく終わった“フィクション”を粉々に打ち砕いた。

 

それは現実が映画を凌駕した瞬間だったのだろうか。現実の前に映画は無力なのか。それとも、この映画を観てあらためて差別の醜さ、卑劣さを思い知って、これから自分は正しい選択をしようと心に決めるか。

 

その判断は僕たち観客一人ひとりにかかっている。

 

 

※ハリー・ベラフォンテさんのご冥福をお祈りいたします。23.4.25

 

 

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