リドリー・スコット監督、ジョディ・カマー、マット・デイモン、アダム・ドライヴァー、ベン・アフレック、ハリエット・ウォルター、アレックス・ロウザー、マートン・ソーカスほか出演の『最後の決闘裁判』。PG12。
音楽はハリー・グレッグソン=ウィリアムズ。エンディング曲「Celui Que Je Désire」を唄うのはグレース・デヴィッドソン。
上映時間は堂々153分ですが、非常に見応えがありました。
舞台はフランスで登場人物もすべてフランス人であるにもかかわらず、キャストはアメリカ人やイギリス人ばかりで劇中で使われる言語も英語なので最初は観ていてちょっと落ち着かなかったんだけど(マット・デイモンやベン・アフレックはどう見てもフランス人には見えないし)、映画に入り込んでいくうちにだんだん気にならなくなりました。
14世紀末のフランス。騎士ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)の留守中に妻のマルグリット(ジョディ・カマー)が夫の親友だったが今ではカルージュとは微妙な関係にある従騎士ジャック・ル・グリ(アダム・ドライヴァー)に強姦され、マルグリットはル・グリの罪を告発する。ル・グリは無実を主張し続け、カルージュは国王(アレックス・ロウザー)に直訴して決闘によって決着をつけようとする。
エンディングについても述べますので、ぜひ映画をご覧になってからお読みください。
史実に基づく物語。原作はエリック・ジェイガーのノンフィクション「決闘裁判 世界を変えた法廷スキャンダル(文庫版「最後の決闘裁判」)」。ジェイガーは、この映画の脚本にもコンサルタントとしてかかわっている。
この映画ではマット・デイモンとベン・アフレックがそれぞれカルージュとル・グリの視点で、また女性脚本家のニコール・ホロフセナーがマルグリットの視点でシナリオを書いている。マルグリット側の描写には彼女を演じるジョディ・カマーの考えも取り入れられているのだそうで。
では、この映画は「真実は三者三様で藪の中」と核心部分を曖昧にしたままで結論を出さずにお茶を濁すだけの作品かといったら、「何が起きたのか」という“事実”の部分はハッキリしていて、だから一見すると黒澤明監督の『羅生門』(1950) を彷彿とさせる構成ではあるものの、マルグリットの証言が“本当なのか嘘なのか”という「真実≒事実」をめぐる謎解きの面白さを狙った作品ではないんですよね。
題材は異なるけど、どちらかといえば描いているのはホロコースト否定論をめぐる裁判を描いた『否定と肯定』に近い。
『羅生門』では夫と妻、追い剥ぎ(さらに目撃者の杣売り)の証言がそれぞれ食い違っていて、そこにミステリー的な面白さがあったわけだけれど、この『最後の決闘裁判』では「強姦」の事実は事実として描かれているし、妻が相手を「誘惑」したり、夫以外の男に手ごめにされて「快感」を覚えるというような描写はない。妻が夫に対して不貞を働いた、という可能性自体が提示されない(わずかに、ル・グリがマルグリットが彼の部屋にやってきて誘う、という“夢”を見る場面があるだけ)。ただ、そのような目でマルグリットは周囲の者たちから(同性の親友からさえも)見つめられ蔑まれる。
裁判の席で公衆の面前で「その時、快感の絶頂にあったか」と問われて、マルグリットは憮然とした表情で「強姦されて快感なわけがない」と答えている。
『羅生門』ではラストで赤ん坊の存在とそれを育てようとする杣売りの善意が「残された希望」のように描かれていたのがなんとなくとってつけたようだったのに対して、『最後の決闘裁判』のラストも幼い子どもが映し出されるが、そこにただ素朴な「希望」を見出すのは難しい。子どもを見つめる“母”の表情が、ふとどこか曇ったように見えたところで映画は終わる。
だから、これは『羅生門』とは似て非なる作品であると同時に『羅生門』の現代的再解釈、またはアップデート版でもある。
それぞれ「ジャン・ド・カルージュの真実」「ジャック・ル・グリの真実」「マルグリットの真実」という、『羅生門』を思わせる3つのチャプターに分けられた構成は、観客を映画に引き込むギミックとしての役割を果たすとともに、被害者である女性の“夫”や“加害者の男”は何を見ていて「何を見ていなかったか」、男たちは何を語り「何を語らなかったか」について明らかにしていく。
そこから見えてくるものは、「強さ」への盲信や「認知の歪み」がもたらす弊害、悪しき男性性の罪深さなどだろうか。
被害者女性の方に(も)非がある、とする言い分はここで徹底的に否定される。
レイプ犯もレイプ犯なら、被害者の夫も「奴をお前の最後の男にはしない」などと言って、レイプされたばかりの妻を無理やり抱く。尋常な神経ではない。
マルグリットが「あなたは偽善者よ」と言うように、カルージュは妻のために闘ったのではなく、自分の“名誉”と家名を守るために闘ったのだし、女性をレイプしておきながら「彼女は悦んでいた」と語るル・グリの異常性には既視感がある。神の前で罪を告白して赦しを得たんだから、と被害者を無視して勝手に自分の中だけで終わらせている。これも「反省したんだからもういいじゃないか」と開き直る犯罪者そのものだ。
しかも、ル・グリは領主であるピエールから「強姦はなかったと言い張れ」と言い含められて、強姦の事実そのものを隠蔽しようとする。
まるでやり手の弁護士にサジェスチョンされて自分の犯罪を全面否認する加害者のようだ。
そして、ここでは、男性に限らず女性であっても“加害者”になり得ることも描いている。
この映画が『羅生門』からヒントを得ているように、これを日本の武家の話に替えても成り立つだろう。
ただ、日本だといまだに時代劇なんかでは妻が夫の沽券だとか意地、お家やら国のために犠牲になることを「美談」として描きがちだし、観る側も映画や大河ドラマなどでそのような価値観に慣れきっているので、こういう『最後の決闘裁判』みたいな歴史モノはなかなか作られない。
むしろ、そういう時代劇こそを観たいんですが。立身出世や自己犠牲の尊さみたいな話はどーでもいいから。
この映画はまるで『グラディエーター』のような血なまぐさくて迫力満点の決闘シーンが描かれるんだけど、そこで闘っている男たちは一体何のために殺し合っているのか、彼らは普段、女性たちをどのように扱っているのか──それを考えると、これはリドリー・スコット自身による自作に対するメタ的視点からの「英雄譚」への自己批判のようにも見えるんですよね。
“英雄”と呼ばれる男たちの陰で、どれだけの女性たちが犠牲になってきたのか。
ジェイソン・ボーンやジェダイの騎士の末裔を演じてきた男優たちが、あえてそのヒーロー性を批判されている。
ピエール役のベン・アフレックもまたちょっと前にバットマンを演じてた人だけど、彼はかつてハリウッドの映画プロデューサーであるハーヴェイ・ワインスタインの性暴力に遭って助けを求めてきた女優ローズ・マッゴーワンの声を無視した過去がある。
この映画への参加は、そのことへの懺悔も含まれるんだろう。ピエールはしょっちゅう女たちをはべらせて乱交している退廃的な人物として描かれている。
彼は権力者だが、その権力をカサにカルージュを嘲笑っていたくせに、さらに上の最高権力者である国王が出てくると無力で、臣下であるル・グリを守ることもできない。その国王シャルル6世(演じるアレックス・ロウザーは『グッバイ・クリストファー・ロビン』で成長したクリストファー・ロビン役だった)は若年で、カルージュとル・グリの決闘を楽しげに見物する。その様子は軽薄で若干アホっぽくて、まるでアクション映画で人が死ぬのを喜んでいる観客そのものだ。
リドリー・スコットは、世の中で男たちが追い求める「強さ」というものの正体がいかに脆く頼りなくてたやすく使い捨てられてしまうものなのか、そんな偽りの「強さ」を多大な犠牲を払って求める者たちのそのバカさ加減を容赦なく晒してみせる。
ここでは「友情」も心許ない。親友同士だったはずのカルージュとル・グリは嫉妬や横恋慕からいつしか憎み合う仲となり、ル・グリによる強姦を告発したマルグリットは一番慰めてほしかった親友のマリー(タルーラ・ハドン)から距離を置かれる。
ピエールに笑い者にされたカルージュは、今度はル・グリに「俺は騎士でお前は従騎士。俺の方が上。サーをつけろ!」とマウンティングする。そのル・グリはカルージュの妻を…。そして事態はのっぴきならないことに。
ル・グリはカルージュを見くびり、それ以上にマルグリットのことを見くびり侮りきっていた。
ワインスタインの性犯罪や日本で起きたあの準強姦事件などが思い浮かぶ。彼らは相手の被害者女性をル・グリ同様に見くびっていた。だからマルグリットがそうしたように反撃されて驚いたのだ。だがもう遅かった(日本のあの件は、今も権力者が容疑者を守ってうやむやにしようとしているが)。
僕は原作のノンフィクションは読んでいないので詳しいことはわからないけれど、カルージュの妻マルグリットについての記録や資料はほとんど残っていないそうで(当事者で、しかも強姦の被害者なのに!)、だから、映画化に際しての彼女の視点は脚本家たちによって肉づけされたものなのでしょう。
基になった事件の真相は現在も解明されていないし、真相はこうだったのだ、と作り手が立てた仮説を映像化したものではなくて(原作者はかなりリサーチをしたとのことですが)、「史実」を基にして今の社会の問題が描かれている。この映画が今作られて観られる意味もそこにある。
この映画を観たあと、後日、すでに鑑賞済みだったドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『DUNE/デューン 砂の惑星』を再度観たんですが、その中世風の世界で繰り広げられる権力闘争がこの『最後の決闘裁判』の内容と重なって、あの映画を最初に観た時よりもはるかに面白く感じたのでした。
カルージュによって殺されたル・グリの死体が裸にされて馬で引きずられたのち公衆の前で無残に逆さに吊るされるさまは、この映画の作り手たちからの、性犯罪者はこうなるべし、というメッセージだろうか。徹底し過ぎていてちょっと笑いそうになってしまった。
だが、もしもカルージュが負けていたら彼が同じ目に遭ったのだし、マルグリットは虚偽の申し立てをしたとして全裸で絶命するまで延々炎で焼かれるところだったのだ。笑い事ではない。
そんないい加減な「神判」などというもので人の命が奪われ、その名誉も汚されていたことに身震いする。
強姦では妊娠しない、それは証明されている、などというデタラメを振りかざす審問官。
では、現代はそんな野蛮なことはないのだろうか。デマで“炎上”はいっぱいしてますけどね。
マルグリット役のジョディ・カマーはライアン・レイノルズ主演の『フリー・ガイ』のモロトフ・ガール役が記憶に新しいですが、あの映画ではゲーム内で敵の男どもをバッタバッタと蹴散らすカッコいいスーパーヒロインを演じていたのが、一転してこちらでは男に組み敷かれて抵抗できずレイプされて泣き叫ぶ女性を演じていて、恥ずかしながら僕はこの映画で初めて彼女が以前から演技力を高く評価されている人だということを知ったのでした(アダム・ドライヴァーも主要キャストとして出演している『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』では主人公レイの母親を演じていたんだとか。それはさすがに気づかなかった)。
現実の世の中では女性は男性の腕力にはかなわない。なのに、被害者である妻の首を絞めてカルージュは「なぜ逃げなかった」と問い詰める。そして、以前マルグリットが友人たちとの会話の中でル・グリのことを「美男」だと言っていたことを知って「恥をかかされた」と息巻く。
…これ、全部「現代」の話だよね。
マルグリットは夫の母親(ハリエット・ウォルター)からは、事を荒立てて「家名を汚した」ことを責められる。義母は、彼女自身もまたかつてレイプされたことを語る。でも自分は騒ぎ立てたりはしなかったし夫に訴えもしなかった。だから今がある。生きていられるのだ、と。
これなんかも、どっかの「なんとか夫人」が言ってるようなことだ。
夫や義母、同性の友人からもセカンドレイプされる被害者女性の姿が14世紀と現代を結びつけている。
決闘に勝利したカルージュの前にノートルダム大聖堂が見える。
この映画は、マルグリットに「神のためではなく自分のため」とハッキリ断言させる。
性犯罪の被害から守られるべきなのは「女性」自身であって、けっしてそれ以外の何かではない。
闘いに勝って沸き返る観衆に応えるカルージュの後ろで馬に乗るマルグリットの表情がすべてを物語っている。
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