デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督、アンドリュー・ガーフィールド、ライリー・キーオ、トファー・グレイス、ジミー・シンプソン、パトリック・フィッシュラー、リキ・リンドホーム、ルーク・バイネス、インディア・メネズ、グレース・ヴァン・パットン、キャリー・ヘルナンデス、ゾシア・マメット、サマー・ビシル、ジェレミー・ボブ、ドン・マクマナス、レックス・リン、デヴィッド・ヨウほか出演の『アンダー・ザ・シルバーレイク』。R15+。

 

ロサンゼルスダウンタウンの北西部にあるシルバーレイクのアパートに住むサム(アンドリュー・ガーフィールド)は、近所に住むサラ(ライリー・キーオ)と知り合い彼女の家を訪ねるが、翌日再び来てみると彼女は家財道具ごと消えていた。残されていたサラの写真や壁に描かれた謎の記号などを手がかりに彼女の行方を追ううちに、やがてサムはこの街のセレブたちの間に何か大きな秘密があることに気づいていく。

 

すでに観た人たちのTwitterでの呟きや映画評論家の町山智浩さんの作品紹介で知っていましたが、この映画に付けられた「ヒッチコックとデヴィッド・リンチを融合させた悪夢版ラ・ラ・ランド」という例えに個人的にはそれほどそそられなかったので観るつもりはあまりなくて、でもたまたま観ようと思っていた茶の湯の映画が時間の都合で観られなかったので、代わりにこちらをチョイス。

 

町山智浩「アンダー・ザ・シルバーレイク」と「ロング・グッドバイ」の類似点を指摘

 

 

監督のデヴィッド・ロバート・ミッチェルは公開当時一部で話題にもなってた『イット・フォローズ』の人なんだそうだけど、あいにく僕は『イット~』の方は未見。

 

この『アンダー・ザ~』もリンチの名前が挙がってるように最初から「奇妙な映画」というのは聞いていたので、もう何かそういう観るドラッグ的なものをキメるつもりで臨んだんですが(笑)、確かにデヴィッド・リンチは意識的に取り入れられているし、L.A.を舞台にした『ラ・ラ・ランド』のネガ版、というのはまさにその通りでしたね。あのグリフィス天文台も出てくるし、古いハリウッド映画への言及なども共通している。

 

 

マリリン・モンロー主演の『女房は生きていた (Something's Got To Give)』(1962)からの引用。モンローの未完の遺作

 

『ラ・ラ・ランド』が女優を目指すヒロインの夢の成就を描いていたのに対して、こちらの映画では自分の夢がなんなのかもさだかではない主人公がどんどん脇道に逸れていく。

 

現実の出来事なのか、それとも主人公の白昼夢か妄想なのか区別がつかないまま物語が進行していくんだけど、ただお話自体はけっして難解ではなくわりとわかりやすくて、たとえば昔の(最近のはよく知らないので)アレハンドロ・ホドロフスキーの映画のようないかにもな前衛映画っぽさはそんなにない。

 

それでも一般的な娯楽映画じゃないせいか、アメリカでの公開は12月で日本よりもあとのようで。

 

まぁ、アメリカではデヴィッド・リンチも劇場映画がなかなか撮れなくてネットドラマの方に行っちゃったぐらいだから。

 

リンチのファンの人たちがどう評価するのかわからないし、僕は普段こういうタイプの映画を好んで観てるわけでもないので、「あぁ、ふぅん…うむ」ってな感じで、最初に予想していたようにヘンな映画を観てちょっと「あちらにトンだ感覚」を味わいました。

 

いろんな謎は提示されるけど、それらが通常の推理物とかサスペンス物のように最後にちゃんと解決してスッキリ、みたいな終わり方はしないから、そういうのは期待しない方がいいです。

 

なので、デヴィッド・リンチ作品とか変わった映画がお好みのかたはご覧になってみたらいかがでしょうか。映画好きや音楽好きの人たちは、この映画の中に散りばめられたさまざまな引用が楽しいでしょうし。

 

ただし、劇中に思いっきり“汚物”やグロテスクなものが映るので、食事前や食事しながら観るのは控えられた方がいいと思います。

 

映画の冒頭でいきなりある小動物が木から落ちて地面に激突、潰れて喘ぎながら死ぬシーンがある。この場面でこれがどんなタイプの映画なのかだいたい察しがつくし、映画を観続けるかやめるか判断する最初のポイントにもなっている。

 

僕はネズミ系の小さくて柔らかい生き物が苦手なので(誤って潰してしまいそうだから)、しょっぱなから「ウェッ…(>_<)」となったんですが。

 

では、これ以降はストーリーのネタバレがありますので、これから鑑賞されるかたはご注意ください。

 

 

正直なところ、デヴィッド・リンチの映画の感想を書くのに苦労するのと同様に、この手の映画の感想を真面目に書こうとするとなかなか難儀なんですが、ともかく映画を観ながら感じたことを述べていきます。

 

物語はリンチの『ブルーベルベット』を思わせるようなノワール物。

 

主人公のカイル・マクラクランが芝生の上で人間の耳をみつけるところから始まる『ブルーベルベット』のように、アパートのベランダでのどかに煙草を吸いながら向かいの部屋に住む女性のおっぱいを双眼鏡で覗いたり、やはり目の前のプールで泳ぐ水着姿の若い女性を眺めていたアンドリュー・ガーフィールド演じるサムが、サラというその女性の失踪をきっかけにして闇の世界に降りていく。

 

一夜にして姿を消した彼女は一体どこに行ったのか。

 

季節はずれの打ち上げ花火は何かのメッセージだったのか

 

ヒッチコック映画のわかりやすいオマージュ(のちにヒッチコックの名前もご丁寧に出てくる)から始まる典型的なサスペンス映画のような出だしなんだけど、アンドリュー・ガーフィールドは町山さんが紹介で仰ってた通り「首の据わらない赤ちゃん」みたいな演技で、走る時には手を振らずにしかもちょっと身体が斜めってたりして、終始フニャフニャしている。僕はちょっと『ALWAYS 三丁目の夕日』の吉岡秀隆の演技を連想したんですが。

 

 

 

もう、カートゥーン(アニメ)のキャラみたいなんだよね。笑顔が赤塚不二夫の漫画の登場人物みたいだし。彼の醸し出すボンクラ臭のせいで映画はどこかすっとぼけていて、全篇に漂うシュールな雰囲気と妙なユーモアがデヴィッド・リンチの映画をそのままトレースしているようでもある。

 

ハリウッドの闇を描いた『マルホランド・ドライブ』や、やはりハリウッド映画にまつわる都市伝説を取り上げた『インランド・エンパイア』などを思わせるし、フェデリコ・フェリーニの映画も思い浮かぶ。

 

今回『マルホランド・ドライブ』にも出演していたパトリック・フィッシュラーがサムにヒントを与えるヤバい人の役で思いっきり出てるし、だからこれはデヴィッド・リンチを意識してるどころか確信犯なんですね。

 

 

 

台詞の中にハリー・ディーン・スタントンやディーン・ストックウェルなど、リンチ作品でお馴染みの俳優たちの名前も出てくるし。

 

ちなみに出番はそんなに多くないけど、サムの友人役のトファー・グレイスはサム・ライミ監督の『スパイダーマン3』で悪役ヴェノムを演じてた人。アンドリュー・ガーフィールドはマーク・ウェブ監督版の「アメイジング・スパイダーマン」2部作でスパイディを演じてたので、ここで宿敵同士がシリーズを越えてご対面w

 

 

 

この友人がドローンを使って覗いている女性の部屋の様子はちょっとリンチの『ロスト・ハイウェイ』を思わせるが、彼らがそこでどんなおぞましいものを見たのかは直接描かれない。

 

サラ役のライリー・キーオは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』で白塗りのニコラス・ホルトたちとともに敵と戦ってましたが、あの映画で「美人だなぁ」と思ってたら、やっぱり美女役での出演。

 

 

彼女のイッヌはその後、悲惨なことに…

 

大事なところはしっかり隠してるけど、綺麗な裸体も見せてくれます。

 

この映画では魅力的な若い女性たちが何人も出てきて、サムは彼女たちと次々とかかわることになる。

 

 

 

男が女子トイレに入るとこんな顔で怒られる(当たり前です)

 

彼女たちを演じてるのはその多くがモデルやアーティストたちだそうだから、この映画は街の中をフラフラと彷徨う(本人は謎を追っているつもり)サムの姿を通して「シルバーレイク」というすぐそこにハリウッドがある街を散策するような楽しさがあるんですよね。

 

そこら中でしょっちゅうパーティが開かれていて、若者たちが集っている。どこでもわりと似た面子がいて女優の卵や金持ちの令嬢と知り合えたり、サムが小汚い部屋着で紛れ込んでもつまみ出されることもない。

 

 

 

「この街で生活するにはお金がかかる」という台詞もあるけど、これをそのまま東京を舞台に置き換えても通用しそう。ただ、“ハリウッド”というのはちょっと他にはない甘い夢を人々に見させてくれる場所なので、そこにあるきらびやかさと恐ろしさはほんとに醒めて見る夢のよう。

 

サムが出会う女性たちとすぐになんだかイイ感じになる(でも彼は一応、一線を越えることはない)のは、そういう街なのか、それともすべてがサムに都合よく見られた夢なのか。

 

一方で、家賃を滞納してアパートを退去させられる時には家主に警官が同行してくる、というのも生々しい。有無を言わさず追い出されるということか。

 

サムは施しを断わったらカラんできたホームレスを軽蔑するような発言をするけど、これは実際にこの街に住んでいたという監督の本音なのだろうか。働いていないサムにはホームレスを見下す資格はないのだが。サムは一緒にいた女性から「今度は1ドルをあげるのね」と言われる。

 

若者たちは夜になるとパーティに繰り出す吸血鬼のような存在で、クッキーの中に入っていた薬物で眠っていたサムが朝に墓地で目覚めると、そこを訪れるのは老人ばかりであれほどいた若者の姿はない。

 

まるで夜と朝とで夢と現実が入れ替わっているかのようだ。

 

吸血鬼やフランケンシュタインの怪物がうごめく、ストレンジでビザールな世界。

 

サムのセフレ(?)の女性も美人というよりも実に個性的なフェイスの持ち主で惜しげもなくおっぱい見せてくれてましたが、演じているリキ・リンドホームはお笑い畑の人でもあるのだとか。

 

 

 

彼女とサムがバックでプレイしてる様子がなんともいえず可笑しいんだけど(セックスシーンって、どんなに気取って撮ったって傍から見たら間抜けだ)、アンドリュー・ガーフィールドの揺れるケツがこれでもかと映る。お前の尻はいらん!とスクリーンにツッコみたくなったほど。

 

この映画は男の尻が何度か映し出されるんだけど、結構アクロバティックな動きをしても見事なまでに前方のブツの方は一瞬たりとも見えなくて、どうやって撮ったんだろうと不思議だった。前張りしてたのか、チ○コを太ももにでも貼り付けていたんだろうか。

 

サムとこの女性が“つがってる”場面で日本名物「ぼかし」が入るんだけど、おかげで間抜けさがさらにプラスされた感があった。

 

今年のアカデミー賞の作品賞を獲った『シェイプ・オブ・ウォーター』の感想でも書いたように、日本では映画の中で性交が描かれる時に、合体してる状態で二人の全身が一緒に映っていると強制的に18禁にされてしまうので、それを避けるために結合部分にぼかしを入れてR15指定にするのだそうな。

 

別にあのぼかしの部分に映っちゃマズいモノが映ってるわけじゃないんですよね。そういう決まりだからやってるだけ。

 

だったらもういっそのこと、手前に花瓶か壺でも合成すりゃいいのに。アホ臭さが倍増するだろうから。

 

つくづくバカバカしいルールだと思う。早いとこ撤廃してもらいたい。

 

 

人気バンド「イエスとドラキュラの花嫁たち」のヴォーカルのイエス(Jesus 演:ルーク・バイネス)がウンコしてる最中にいきなりサムに殴られる場面は、彼が気の毒でしょうがなくて映画を観終わったあともあのぶざまな姿が忘れられなかった。殴ってるのが「首が据わってない赤ちゃん」みたいなアンドリュー・ガーフィールドだから余計異様な光景。

 

このギャグめかした突発的な暴力シーンというのもリンチ的ではある。

 

…大便してる時に人に殴られたくないよなぁ(;^_^A あんなことされたら彼じゃなくたって「なんで殴るんだ!?」って混乱しながら叫ぶよ。だってイエスさんはただ与えられた歌を唄ってただけで別に何か悪いことしたわけでもないし、サムとは直接面識もないのに。もう、監督はただ人気者のイケメンミュージシャンを殴りたかっただけなんじゃないか。

 

そしてここでもぶん殴られて便器から転げ落ちる彼の尻はしっかり映るがチン○は映らない。

 

しかも、イエスさんが今ひり出したばかりの便器の中のウン○がスクリーン一杯に映し出される。

 

むしろここにこそ「ぼかし」を入れてほしかった…。

 

映画の冒頭でサラが飼っていた小犬が脱糞する場面をしっかり撮っているので、要するに犬とイエスさんは同じ扱いなんだな。これはなんですか、宗教的な戯画かなんかなのか。

 

犬の脱糞といえば「悪趣味映画」として有名なジョン・ウォーターズ監督の『ピンク・フラミンゴ』を思い出したりもしますが。さすがにアンドリュー・ガーフィールドは犬の糞は食わないけど。

 

…なんかさっきからチンコとかウンコとかドリフの幼児ギャグみたいなことしか書いてませんが、だってほんとにそういう描写だらけの映画なんだもの^_^;

 

この映画では何度もサムの嘔吐シーンが映されるし、嬉々としてウンコをフィーチャー(笑)するような幼児的な排泄物へのオブセッション、動物を惨殺するシーンへの異様なこだわりは、もうそのまんま劇中の「犬殺し」の犯人の異常性と同質のものだ。

 

現実の世界ではもちろん、フィクションの中でも生きている動物を(それが生きるために必要な狩猟とかではなく)残酷に殺したり、その死骸を粗末に扱う場面を楽しそうに描く作り手というのは僕は人格やその嗜好に問題があると思っていて(もちろん、現実とフィクションでは大違いであることは言うまでもない)、そもそもそういう表現をしたい、せずにはいられない心理に気持ち悪さと嫌悪を感じる。

 

ホラー映画には人や動物の身体が損壊し死に至る描写は珍しくないし、だから「この映画を許せない」とか、そういうことではないんですが。現実に動物を虐待したり無残に殺す者は存在するのだし。ただ、異常者が持つのと同じ病理をこの監督さんは心の中に共有しているのだろうと思う。

 

パトリック・フィッシュラー演じる男性は、シルバーレイクで頻発する飼い犬の殺害は売れない俳優が自分よりも恵まれた環境にいる犬たちを恨んでやったのだ、と語るが、憂さ晴らしや世間への復讐心を弱い動物にぶつける、という発想そのものがまともではないし、サムが彼の車に傷をつけて悪戯したクソガキどもに手加減せずに暴力を振るう場面をちょっとギャグっぽく描いているのも、明らかにここでは子どもたちは動物と同じように扱われている。

 

ブラックユーモア、というのはどこか人間の尊厳や道徳心、倫理観を鼻で笑うものでもあるから、この映画は徹底して人の存在を軽く扱い、嘲笑う。

 

かように、エロもグロもこの映画では茶化し気味に描かれているので、本気でムラムラするとか暴力描写にショックを受けるとかいうんじゃなくて、すべてがブラックで悪趣味なジョークのように感じられる。

 

それを楽しめるかヒくか、そこは観る人によって大いに反応が分かれるかも。

 

最初に書いたように、僕は前もってある程度こういうテイストの映画だとわかってたから、時々「いやいや、ちょっと待て^_^;」と心の中でツッコミ入れつつ呆れ気味に観てましたが。

 

結局、この映画で描かれたことはどこまでが現実でどこからが夢や妄想なのかわからないので、これはアパートのベランダでぐだぐだしてる主人公の白昼夢に延々付き合わされただけなのかもしれなくて、バカバカしいといえば実にバカバカしい、どーでもいいっちゃ、誠にどーでもいいお話ではある。

 

繰り返すように、僕はこういう映画がことのほか好き、ということはないので、ハッキリ言ってしまえば別に観なくてもいっこうに構わない映画でしたが、この無責任に妄想を垂れ流してる主人公を演じてるのが無邪気な笑顔がほんとに赤ちゃんみたいなアンドリュー・ガーフィールドなので、どうも憎めなくて、ごくたまにはいつもとは毛色の違った映画を観てみるのも悪くないな、と思いました。

 

サムがザナドゥのような大きな屋敷に住む長年音楽や映画の世界で曲を作り続けてきた謎の作曲家の老人(ジェレミー・ボブ)と対峙する場面は、その老人の顔がもうあからさまに特殊メイクだし、彼が時代を越えて有名な曲の数々を作った者だということからも、これが映画や音楽を愛好しながら夢見る者たちへの皮肉に満ちた物語であったことがわかる。

 

君は、これは俺のための曲だ、とか思っているが、その曲は君のために作られたのではない。特に意味はない。作り手はさまざまな事情で自分のために作ったんであって、君が勝手に共感してるだけなのだ、と。

 

きっと実際の作り手たちには反論があるだろうけど、まるで自分が作ったかのように映画や音楽について熱く語る者たちへのこの冷ややかな言葉は、人を夢から覚めさせる。

 

そしてそれは、音楽や映画に詳しいという監督自身が、かつての自分に向けて放った言葉でもあるのだろう。

 

でもその当時に溜め込んだ知識や経験がこうして映画を作ることに繋がったのだし、「意味がない」と思われているものに意味を持たせるのが音楽を聴いたり映画を観たりすることでもあるんじゃないだろうか。少なくとも、好きなものに対して「無意味だ」と嘲笑われる筋合いはない。意味があるとかないとか云々すること自体に意味がない。

 

激昂したサムは、拳銃を撃ってきた作曲家をエレキギターで殴り殺す。

 

作曲家の頭部の破壊ぶりが凄まじいんだけど、その描写はあまりに派手過ぎてもはやシュールレアリスムの世界へ向かっている。ちょっと楳図かずおの恐怖漫画のスプラッター場面のようでもあった。

 

後半で、行方不明になっていたサラは、カルト集団の一人として「天上に上がるために」ここではない場所に行ったことが判明する。

 

このくだりはまるで電波映画『発狂する唇』みたいで、さすがに観ていてどうでもよくなってきて、ずいぶん長いなぁ、いつまで続くんだ、と退屈してしまった。

 

ちょっとここだけホドロフスキーっぽかったけど。

 

好意を持っていた女性は自分を置いてどこか高いところに行ってしまう。その寂しさをこういう形で物語化したということはわかるんですが。

 

そして、映画の要所要所で映し出されていた大きな広告看板に写っていた若い女性(サマー・ビシル)が実はサムの元カノだったことがわかる。

 

パーティでたまたま再会した彼女は紳士的で男前な彼氏と結婚することが決まっていて、ハリウッドでの成功という自分の夢を実現させるために頑張っている。

 

サムが追いかけていたサラという女性は、この元カノのことだったんですね。

 

失踪したサラを追い求め、最後に電話で「あちらの世界」の彼女と会話しながらなすすべもないサムの姿は、別れた女性にまだ未練があって悶々としていた状態のことだったのだ。

 

好きだった人との別れには『ラ・ラ・ランド』のラストが重なるし、やはり似たような理由からホアキン・フェニックス演じる主人公がAIと恋をする『her/世界でひとつの彼女』も思い浮かびました。

 

それから、いろんな女性を抱いてはまわりにも迷惑をかけまくっていた悪徳刑事(子どもにも中指を立てる)が実は…というジェームズ・マカヴォイ主演の『フィルス』も。

 

こうやって引用されたり参考にされたと思しき作品を探してみるのも一興でしょう。

 

恋愛物に似た要素があるのは不思議ではないし、僕が挙げた過去の映画が本当にこの作品のネタにされているのかどうかは知りませんが、ハリウッドやシルバーレイクには長い歴史と多くの伝説があるように、1本の映画にいろんな映画や音楽を結びつけていくのはそれ自体が創造的な作業だと思う。

 

非常に個人的な経験を“妄想力”を働かせてサスペンスに仕立てた、ということではユニークな作品であることは間違いないかと。ヒッチコックだってしばしば個人的な妄想・欲望を作品の中に込めていたのだし。

 

「犬殺し」はなんの比喩だったのか(真犯人は?)とか、よくわからないところもありますが、これから他のかたがたのレヴューを読んでみていろいろ参考にさせていただこうと思います。

 

犬に嫉妬していたのは他でもない、サムだったのではないか、とも考えたのですが、どうなんでしょうね(※「犬殺し」の犯人については町山さんが解説されてます)。そもそも整合性のある答えが導き出せる映画ではないのでしょうが。

 

結局、サムは最後まで自ら働いて家賃を払おうとはせず、向かいのアパートのおっぱいおばちゃんの部屋に転がり込むことにする。

 

最後まで人を食ったようなお話でした。

 

ニルヴァーナとか『ビバリーヒルズ・コップ』のテーマ曲やファミコンなど、監督さんはわりと僕と歳が近い人なんじゃないかと思ったけど、やっぱりそうだった。

 

そんなわけで、アンドリュー・ガーフィールドと巡る“シルバーレイク・バビロン”ツアー、これにて終了。

 

 

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