アリ・アスター監督、フローレンス・ピュー、ジャック・レイナー、ウィリアム・ジャクソン・ハーパー、ヴィルヘルム・ブロングレン、ウィル・ポールター、ビョルン・アンドレセンほか出演の『ミッドサマー ディレクターズ・カット版』。2019年作品。R18+。

 

家族に不幸があり精神的に不安定なダニーは、恋人のクリスチャンが友人たちとスウェーデンの田舎の夏至祭を観にいくことを知り、同行することにする。クリスチャンの友人ペレの案内で彼の故郷のホルガ村を訪れた一行は、村の奇妙な風習に戸惑いつつも文化人類学の見地から興味をそそられるのだった。

 

どうせ観るならネタバレは極力回避して臨んだ方がいい映画だと思うので、これからご覧になるかたは鑑賞後にお読みいただくとよいのではないかと。

 

アリ・アスター監督の前作『ヘレディタリー/継承』は映画ファンの間でずいぶんと話題になってましたが、とても“嫌ぁ~な気分になる”映画だと聞いていたので、「なんで金払って嫌な気分にならなきゃならんのだ」と思って観ていません。そもそもホラー映画を滅多に観ないので、そういうジャンルっぽい時点で鑑賞の対象から外れていた。

 

この『ミッドサマー』も同様に散々「どうかしている映画」と言われているので当然のごとくスルーするつもりだったんですが、R18+(18歳未満鑑賞不可)の「ディレクターズ・カット版」まで同時期に公開されるというんでさすがに気になったのと、主演が『ファイティング・ファミリー』で初めて見てその演技や存在感がとても印象的だったフローレンス・ピューということもあって、これはこの監督さんの映画が今後自分の興味の範疇に入るのかどうか判断するためにも試しに観てみようと決意。

 

上映時間は171分で3時間近いので、下手したら地獄のような鑑賞体験になるかも、と怯えながら…。

 

ミニシアター系の映画館の広い上映会場はしっかり混んでいて(鑑賞は3月上旬)、ご年配のかたから若いカップルまで(もちろん全員18歳以上ですが)大勢詰めかけてました。特に女性が多かった。

 

んで、観たんだけど、上映が始まって早速違和感が。映像の下方に出ている日本語字幕が中途半端に欠けている。映ってる人物の頭部もフレーミングがおかしくて気持ち悪い。明らかに映写ミスなのだが、上映は続いている。気になって内容が頭に入ってこない。不吉な予感。

 

20分ぐらいしたところで突然場内が明るくなって、「映写機のトラブルがございましたので、最初から上映いたします」とアナウンスが。やっぱり!( ´・д・) もたもたせずにとっととやり直しゃよかったのに。映写係は居眠りでもぶっこいてたのか?映写状態を確認する人はいないの?

 

3時間ある映画で途中で上映し直すとか、これがもしも20分程度のロスじゃなかったらどうなってたか。

 

上映後、お詫びにそこの映画館のホットコーヒーの無料チケットもらったけど、めっちゃ熱くて火傷しそうになるようなコーヒーなのであまり嬉しくない。ジュースかアイスコーヒーにしてもらいたかった。

 

まぁ、さっき観た場面が流れている約20分ほどの間にトイレに行けたんでよかったけど。

 

そんなアクシデントもこの映画ならでは、とは言えるかもしれないですが。

 

随所にグロテスクな描写が入る噂に違わぬ「どうかしてる映画」でしたが、以前書いた寸評でも述べたように意外と長さは感じなくて、やはりそれは監督の腕の確かさによるものなのでしょうね。

 

この映画はしばしば「ホラー映画ではない」「ホラー映画を期待して観ると肩すかしを食う」みたいに紹介されますが、普段ホラー映画を観ない僕のような者に言わせれば充分“ホラー”の要素のある作品だと思います。「恐怖」を描いているから。

 

地獄の黙示録』でマーロン・ブランド演じるカーツ大佐は「恐怖(Horror)だ」と呟いていたけど、恐怖とは心と身体に影響を及ぼすもので、この映画はその条件を満たしている。

 

なんの恐怖を描いているのかといえば、予告篇でもわかるように“カルト”の恐怖と、もう一つは「恋人に捨てられるかもしれない」という恐怖。

 

アリ・アスター監督が以前撮った『ミュンヒハウゼン (Munchausen)』という短篇映画があって、台詞がなくて映像と音楽のみで描かれているのでぜひご覧になっていただきたいんですが(残酷な映像は特にありません)、これを観ると『ミッドサマー』が何を描いた映画だったのかよくわかる。

 

 

 

息子を愛するあまりに彼がやがて恋人を作って自分から離れていくのを恐れて、よりによってその愛する息子を手にかける母親、というなかなか狂ったお話なんだけど、『ミッドサマー』はこれとほぼ同じ話なんですよね。

 

『ミュンヒハウゼン』の母親役の女優さんの顔に見覚えがあるな、と思ったら、「ダイ・ハード」シリーズで主人公マクレーン刑事の妻ホリーを演じていたボニー・ベデリアだった。懐かしい(ちなみに彼女はマコーレー・カルキンの叔母)。

 

『ミュンヒハウゼン』は「母の愛」の暴走を描いたなかなか気持ち悪い映画ですが、とてもよく似た内容の作品を以前観たことがあって、それはオスカーの短編アニメーション賞を獲ったピクサーの『Bao』で、母親が作った肉まんに顔ができて赤ちゃんみたいだったのがだんだん成長していくんだけど、やがてその肉まん君は恋人を作って家から出ていこうとする。それが堪えられない母親はその肉まんを食べてしまう。

 

僕はこの作品を素朴に母の息子への愛情を描いたものだと思ってちょっとウルッときたりもしていたんだけど、『ミュンヒハウゼン』を観たあとだと、これは子離れできない母親の息子への依存と執着を描いた異常な物語としか思えなくなって(;^_^A

 

『ミュンヒハウゼン』がどうかしているのは、主人公は「まだ起きていない出来事」まで先回りして妄想をこじらせた挙げ句に凶行に走って、大切だったはずの存在を傷つけその殺害にまで至る、というところ。

 

捨てられる前にお前を殺す、と。「捨てるなら、殺してしまえ、ほととぎす」(笑)

 

『ミッドサマー』は、主人公の女性が内心では彼女と別れたがっている恋人を最後に殺す、という映画なんだけど、これももしかしたらすべてが主人公の脳内での出来事だったのではないか、とも考えられる。

 

この映画はアリ・アスター監督自身と恋人との間で起こったことが基になっていて(劇場パンフレットは買っていないし、詳しい事情は知りませんが)、監督はこれを自分の心を癒やすつもりで撮ったようなことを聞くから、失恋のつらさを乗り越えるために心の中でその恋人を殺して自己を解放させる主人公を描いてヒロインに自分を投影しているんですね。

 

3時間もかけて監督の自己セラピーに付き合わされる観客も、なかなかのドMだと思うんだが(;^_^A

 

男性であるアリ・アスターが映画では自分を女性として描いているのは、男女の話にした方がより多くの観客に受け入れられやすいと考えたからなのだろうか。

 

 

 

確かに、心が弱っていたから、という理由付けはしているものの、男4人の旅行に女性がひとりだけ参加しようとするのはちょっと不自然な気がしたんだけど、この映画が結構女性の支持を得ているというのは、これが“恋愛”にまつわる人間関係を描いた話なのだと思えば「なるほど」と納得するし、これを観て「癒やされた」という人に対して「そんなにつらいのなら一度専門医に診てもらった方がいい」というツッコミが入ったりしているのも、「恋愛」にしろ「カルト宗教」にしろ“心”と大いにかかわりのあるものだからで、この映画の怖さというのは即物的な残酷描写の怖さじゃなくて『ミュンヒハウゼン』がそうだったように依存の果てに人の心が壊れていく怖さなんだな。

 

それはとても身近なものだから。

 

まぁ、心理的な恐怖だけじゃなくてスプラッターな残酷描写もしっかりあるんですが。

 

一組の男女の老人が崖の上から飛び降りる場面※グロ注意)のそっけない怖さは、黒沢清監督の『回路』の建物からの投身シーンを思い出す。あの映画では画面が暗くて不穏な雰囲気が立ち込めまくっていたけど、こちらは画面が白く飛んで見えるほど明るい。

 

 

 

 

飛び降りた直後には空中でまだ生きているのがわかる人物が地面に叩きつけられた瞬間にただの物言わぬ肉塊に変わるのを1ショットで見せられた時のショックはなかなかあとを引くし、僕は飛び降り自殺の瞬間を目撃したことはないけれど、実際にああいう感じなんだろうな、と思わせられる。

 

この映画ではとにかく人の顔面が損壊するさまを何度も見せるんだけど、そのあたりも監督の異様なこだわりが感じられる。

 

足から落ちたので即死できずに、マイティ・ソーの武器“ムジョルニア”をもっとデカくしたような凶悪なハンマーで顔を完全に粉砕されて絶命する老人を演じているのは、ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』の美少年タージオとして今も世界中の人々に記憶されるビョルン・アンドレセンなんだけど、往年の面影はなくて完全なおじいちゃんになっていた。いや、あの美少年が年取ったらこうなった、というのも納得なイケメンなおじいちゃんなんだけど、ビョルン・アンドレセンってまだ60代の半ばぐらいのはずだから、そのわりにはやっぱりずいぶんと老けて見える。

 

足がヘンな方向に向いております^_^;

 

そんな「永遠の美少年」だった俳優をわざわざ招聘してこんな役をやらせるのが、なかなか底意地が悪い。外見の美醜に対して非常に敏感で意識的な監督なんだろう。ホルガ村の何かに取り憑かれたような村人たちの顔。近親相姦の末に産まれた子どもの顔。主人公やその恋人の顔。いちいち顔にこだわっている。だからこそ、劇中での登場人物たちの顔や肉体へのダメージの与え方のためらいのなさがおっかなかったりもする。

 

人体が背中をこじ開けられてアジのひらきみたいになって吊るされている姿は『羊たちの沈黙』での一場面を思わせるし、死体に藁かなんかを詰め込んであるのもその手の猟奇殺人を描いたホラー系の映画の記憶が蘇る。

 

「死体がいかにも作り物っぽい」という指摘もあるけれど、自分の祖父母の葬式の時などを思い出すと、人が死んで魂が抜けた状態って人形めいていて生きていた時とは明らかに違う「物体」になっているのがわかるから、むしろ僕はああいう描写にリアリティを感じましたけどね。いや、僕が知ってる「遺体」はエンバーミングを施した綺麗なものだけだから、人が死んだ直後、それも事故や自殺・殺人などで損壊した、もしくは死後放置されたままの腐乱死体などはちょうど動物のそれのように目も当てられないような気持ち悪さに溢れているんだろうけど。

 

女性の陰毛入りのパイや経血入りの飲み物など、気味の悪いものが次々と出てくるけれど、なんかそれらも引いた目で見るとブラックコメディめいているし、木に立ち小便したら村人にめちゃくちゃキレられてずっと睨まれたうえに『オズの魔法使』の“かかし”みたいに身体の中に藁詰められちゃうとか(演じているウィル・ポールターのがさつでアホっぽい演技が巧い(^o^))、フルチンで全力疾走とか(チ○コが処女の血で赤く染まってるのがまた…俳優ってなんでもやるんだなぁ、スゲェ^_^;)笑わそうとしてるようにしか思えない描写も多い。無残な喜劇。

 

だって、最後に主人公の恋人は“リアルくまさん”のぬいぐるみの中に入って生きたままバーベキューになるんだよ?ほとんど「トムとジェリー」とか「ウッドペッカー」みたいなギャグアニメじゃん。

 

男女の合体を応援する素っ裸のおばさんたちなんかも(ご丁寧にも男のケツを押してピストンの手伝いまでしてくれる。その時のクリスチャンの表情に悶絶した)、なんかもう、モンティ・パイソンのコント観てるようでw

 

ところで、いろんなかたがたの感想を読んだところ、どうも主人公ダニーの恋人クリスチャンのことを「クズ男」とか、「殺されるのも無理はない」というふうに書かれていることが多くて、彼に同情的な意見をほとんど目にしない。

 

だけど、こんなこと言うと顰蹙を買うかもしれないけど、僕はクリスチャンのことをそこまで最低な奴だとは感じなかったんですよね。

 

そりゃ、まるで息をするようにダニーに嘘をついたり、友人の卒業論文のテーマを横取りしたりと、とても褒められた性根の男ではないのだけれど、殺されて当然なほどクズだっただろうか、と。

 

もともとダニーの妹が両親を道連れにして自殺する前からクリスチャンは彼女と別れたがっていたのだし、その後も浮気しまくったりダニーに暴力を振るうわけでもない。

 

友人たちとのスウェーデン旅行をダニーに黙っていたのも、すでにダニーの妹の自殺から8ヵ月経ってて息抜きだってしたかったんでしょう。そんなずっと恋人に付きっきりでいたら気疲れするだろうし。

 

今、新型コロナウイルスのせいで外出禁止になった国々でDVが増加してるそうだけど、わずか2~3ヵ月でもこの有様なんだし、いくら恋人が傷ついてるからって寄り添い続けるのにも限界がある。

 

家族の不幸以前からダニーがクリスチャンに依存気味だったことは、冒頭で描かれているし。

 

村の娘との性交を「許可」された時にも「…恋人がいるので」と断わっているし、ヘンな飲み物を勧められた時だって「薬物はいらない」と言ってるし。

 

調子に乗って村で悪さをしまくるわけでもない。

 

アリ・アスター監督は明らかにクリスチャンを同情の余地のある青年として描いている。

 

この映画、ほとんどの人はダニーの視点や立場で観るようだけど、クリスチャンのそれで観ると、一人の青年が優柔不断だったために恋人に振り回されて、どんどん災難に遭って最後はクマの毛皮着たまま焼かれちゃう不条理劇になる(笑) これはこれで笑うのもためらうような喜劇ですが。

 

監督自身の体験が基になっているのなら、別れた(?)恋人をもっとあくどくて嫌な野郎に描くことだってできたはずで。でも、クリスチャン側の言い分もちゃんと考えてるような描き方をしている。

 

そして、そんな彼をあんな目に遭わせるというドSっぷりw

 

別にクリスチャンを擁護するつもりはさらさらないんだけど、僕は彼の視点でこの映画を観ちゃったので、なかなか理不尽な話だよなぁ、と^_^;

 

確かにクリスチャンはダニーと苦しみを分かち合って彼女を支えようとする気持ちが欠けていて、ほとんど彼女を見捨てようとさえしているんだけど、では自分を彼の立場に置き換えて考えてみた時、俺ならもっと彼女に優しくしてあげられる、と言い切れる人はどれだけいるだろうか。僕はまったく自信ないですね。自分だったらむしろもっと早くこちらから彼女に別れを切り出してると思う。

 

要するに、僕はクリスチャンの冷淡さに結構自分を重ねて観てしまったんです。この映画が「地獄」だと言われるのは、自分自身の醜い部分や直視したくないところを見せつけられるからじゃないだろうか。

 

クリスチャンの最大の過ちは、彼が中途半端に“優しかった”からだろう。あるいは相手にそう思われたいと考えたこと。彼はホルガ村に来てからも、何かといえばダニーに言い訳をし続ける。その態度に誠実さが感じられないから、多くの観客から「死んで当然」みたいに言われてしまうのだ。

 

話がちょっと飛びますが、僕は2018年にトム・ハーディ主演のアメコミヒーロー映画『ヴェノム』を観た時に、ミシェル・ウィリアムズが演じる主人公の恋人が彼にあまりに冷た過ぎることに腹を立てて酷評したんですが(酷評の理由は他にもあるが)、この『ミッドサマー』でクリスチャンが観客から責められるのは、あの時の僕の心理に近いのかなぁ。

 

でも、恋人なんだからカノジョやカレシを支えるのが当然、というのは、やっぱり勝手な思い込みなんじゃないかと今では思う。

 

で、ホルガ村ではそういう「個」と「個」ではなく、村人全員が一つの意識のような共同体を作っていて、喜びも悲しみも共有する。

 

クリスチャンとのわかりあえなさに疲れて孤独を深めたダニーは、自分の苦しみを一緒になって受け止めて泣いてくれる村の女性たちに救われた気になって、それまで感じたことのない心の安定を得る(…って、クリスチャンが村の娘と性交するきっかけを作ってダニーの心を乱したのはその村人たちなのだから、まさしくカルト集団ならではのマッチポンプなのだが)。

 

しかし、これまでにさまざまなところで散々言及されているけれど、それは“カルト”の怖さでもあって、薬物の影響でダニーが見るまわりの風景が変容する様子が画面に映し出されるように、“群れ”の中に飲み込まれて“個人”の意思が奪われてしまうことを意味している。

 

 

 

 

村の中で殺される人々は、かけがえのない命を持った“個人”としては扱われない。彼らは全体の中の一部であって、それはまるで剪定のためにはらわれる枝のように取り除かれ、焼かれる。

 

その死は所属していた集団の存続のための犠牲として美化される。

 

たとえば、これを「国」とか「日本人」というくくりで描いたら、そのまま現在の僕らの話にも置き換えることができる。とても怖いことを描いているのがわかるだろう。

 

太平洋戦争末期の沖縄戦のさなかには島民の集団自決が数多く行なわれたが、ちょうどサイパン島の「バンザイ・クリフ」と呼ばれる崖から飛び降りる女性の映像とともに『ミッドサマー』のあの投身シーンと重なる。あれも日本軍による洗脳や強要のせいだった。集団の中で守られていると感じられると心地よいが、時に集団は“個”の命を軽んじる。

 

 

 

映像の左上のあたりにボンヤリとガス管をくわえたダニーの妹の顔が…

 

ホルガ村の建物の壁に貼られていた歴代の「メイクイーン」の写真。だが、写っている彼女たちの姿は村にはない。

 

だから、新しいメイクイーンに選ばれたダニーの今後の運命もすでに決まっている。

 

それは果たして「救い」や「癒やし」といえるだろうか。新たな依存の始まりではないのか。

 

アリ・アスターにとってはこの映画を撮ることが「癒やし」だったのかもしれないが、この映画は観客にたやすく癒やしを与えてはくれない。むしろ、その「癒やし」だと思えるものは罠かもしれないのだから。

 

クリスチャンを演じるジャック・レイナーは、先ほどちょっと名前が出たマイティ・ソーことクリス・ヘムズワースを思わせる顔立ちの男前なんだけど、まばたきをほとんどしない、どこ見てるのかよくわからないまるでビー玉のようなあの“目”( °д°)が異様で、もともと普段からそういう目つきの人なのか、それとも役柄に合わせてあえてああいった目の演技をしているのかわからないけれど、『ビリーブ 未来への大逆転』での弁護士役も同様に心がこもっていない冷たい目が印象的だった。

 

監督は絶対ジャック・レイナーのあの“目”で彼を起用してると思うなぁ(^o^) もちろん、全裸でチン○ぷらつかせた熱演も素晴らしかったですが。

 

ダニー役のフローレンス・ピューは、『ファイティング・ファミリー』の時にはプロレスラー役だったこともあってヴォリュームのある体型にもさほど違和感がなかったんだけど、今回あらためて身体のすべてのパーツが丸い人だなぁ、とw 太もももたくましいし、小柄なのでフワッとしたラフな服装してると余計ぽっちゃり感が増して見える。

 

悪口を言ってるつもりはないんですが、いわゆる大向こうにウケるタイプの美人女優ではない。

 

ちょっと油断してるような丸ぽちゃの体型が普通っぽくて(他人様の体型をとやかく言えるほど私も痩せてませんが^_^;)、でも演技力の確かさで主役のオーラを大いに感じさせる。見た目が普通なだけに、何か異物感がある。ちょうど、ふくよかだった頃のクリスティーナ・リッチのような…。

 

「ダニーを見ていてイライラした」という感想も見かけるけど、それこそ監督の意図した通りなんだと思う。クリスチャンを見ていて彼に好感が持てないのと同様に。

 

 

 

最後のダニーのあのイノセントな笑顔の背後に横たわる禍々しさ。フローレンス・ピューを主役に抜擢した監督たちの目は信用できる。

 

だって、こんなコロッコロで声も太くて健康的な外見の女優さん(笑)を、精神的に不安定でカレシに依存気味の女性役に起用してしっかり成り立たせてしまう、観客に「そういう女性キャラ」と認識させてしまうというのは、これはフローレンス・ピューの卓越した演技力なくしては成し得なかったことだし、同時にその演技力を引き出したアスター監督の演出力の高さの証しでもある。

 

あいにく3月に公開予定だった出演作『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』は新型コロナウイルスのせいで初夏に延期になってしまったし、同じく延期になった『ブラック・ウィドウ』は日本でいつ公開されるのかもまだ発表されていませんが(先日シネコンで流れてた予告篇では、これまで通りに「5月1日公開」ってテロップが出ていたが…全米公開が11月6日に決定したのに日本で5月にやるわけがない。※追記:その後、さらに延期。日本では2021年4月29日、アメリカでは5月7日7月8日に公開予定)、これからまだまだフローレンス・ピューの活躍は続くということで。

 

そんなわけで、さすがに171分はしんどかったし、この作品でもう充分堪能したんでアリ・アスター監督の次回作を観たいとはあまり思わないんですが、賛否が激しく分かれるはずの映画にしては意外と抵抗なく見られました。

 

主人公含めて全員死亡、という「救い」が一切ない絶望的なラストだからこそ、フィクションとしてのカタルシスがあったんだといえる。なるほど、悲惨な話なのに多くの人たちがこの映画に惹かれて「清々しい後味」という感想を持った人もいる理由がちょっとわかった。

 

それから、「どうかしている映画」でありながら、とても緻密に作られた作品だということも。

 

僕は、アリ・アスター監督の登場人物の描き方に『パラサイト 半地下の家族』のポン・ジュノ監督のそれが少し重なるんですよね。無論、両監督の作風はそれぞれ異なってはいるんだけど、人間を興味深そうに観察しながら、ちょっと悪戯したり、愛おしげに見つめたと思ったら突然酷い仕打ちをしたりと、まるで神が人を弄ぶような残酷な部分がどことなく似てる気がして。

 

新作映画が軒並み公開延期になったからというのもあるんでしょう、予想以上のロングランになっていますが、この映画を大勢の観客が映画館で観ていること自体がとても異様な状況にも思えるんですけどね(;^_^A

 

 

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