アリ・アスター監督、ホアキン・フェニックス、ゾーイ・リスター=ジョーンズ(若い頃のモナ)、ネイサン・レイン、エイミー・ライアン、カイリー・ロジャーズ(トニ)、パーカー・ポージー、スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン、ドゥニ・メノーシェ、アルメン・ナハペシャン(少年時代のボウ)、ジュリア・アントネッリ(少女時代のエレイン)、パティ・ルポーン(ボウの母・モナ)ほか出演の『ボーはおそれている』。2023年作品。R15+。

 

日常のささいなことでも不安になってしまう怖がりの男ボー(ホアキン・フェニックス)は、つい先ほどまで電話で会話していた母(パティ・ルポーン)が突然、怪死したことを知る。母のもとへ駆けつけようとアパートの玄関を出ると、そこはもう“いつもの日常”ではなかった。その後も奇妙で予想外な出来事が次々と起こり、現実なのか妄想なのかも分からないまま、ボーの里帰りはいつしか壮大な旅へと変貌していく。(映画.comより転載)

 

ネタバレがありますので、鑑賞後にお読みください。

 

去年の『ナポレオン』に続く、ホアキン・フェニックス主演作品。

 

2020年に同じアリ・アスター監督の『ミッドサマー ディレクターズ・カット版』を観て、いろいろぶっ飛んだ映画だったけれど意外と楽しめたのでした。

 

 

ただまぁ、170分ぐらいの作品を充分堪能したし、別に僕はアリ・アスター監督の映画の大ファンというわけではないので(それ以前の作品はいまだに観ていない)、次回作を観るかどうかは保留にしていた。

 

だけど、いざ最新作の公開となるとやっぱり気になるし、『ミッドサマー』が大丈夫だったんならなんとかついていけるんじゃなかろうかと、今回もいそいそと劇場へ。

 

ちょっと前にもヨルゴス・ランティモス監督、エマ・ストーン主演の『哀れなるものたち』を観て、あれもかなりヘンな映画だったけど面白かったんで、その手の映画に免疫はついているだろうと思っていた。

 

そしたら──

 

なんだこれー(;^_^A

 

ほぼ3時間(179分)観続けて、いくらなんでもあのラストをないだろう、と。

 

もうちょっとどうにかならなかったんだろうか。

 

主人公が悲惨な目に遭ったりバッドエンドだってカタルシスを得られる映画はあるけど、僕はあのラストにカタルシスを得ることも(えっ、まさかこれで終わり?という衝撃はあったが)、ストンと腑に落ちるようなこともなくて、何か貴重な時間を無駄…とまではいかないが、もったいない使い方してしまったなぁ、と後悔。

 

きっと大好きな人たちが多い作品でしょうが、すみません、僕はわりと不満が残ってしまったし、だから絶賛どころか「うーん」という評価です。

 

いや、またあとで述べますが、途中までは結構楽しんで観ていたんですよ。笑えもしたし。

 

冒頭から世紀末的な荒廃した町の様子(笑)が描かれて、ゾンビよりも恐ろしくてタチの悪い有象無象たち(裸体多し)が主人公ボウ・ワッサーマンの前に立ちはだかる。

 

水を飲む、というだけのことに命がけでアパートから脱出しなければならないような不条理きわまりない世界。

 

深夜に、何も物音を立てていないのに姿の見えない隣りの部屋の住人に「音を下げろ」と延々言いがかりをつけられた挙げ句、腹いせに大音量で音楽をかけられて一睡もできず(なんかスゲェ共感を覚えてしまった。アパートの隣人にデカい物音に鈍感過ぎる奴がいるので)、翌日の母の誕生日に帰省するはずだったのが飛行機に乗り遅れる。

 

慌てて母のモナ(パティ・ルポーン)に電話したところ、飛行機の時間にボウが間に合わないと知って彼女は一方的に電話を切るのだった。

 

なぜか劇中の日本語字幕では主人公の名前を「ボー」ではなく「ボウ」と表記していたんだけど、なんか理由でもあるんだろうか。

 

映画サイトなどの作品紹介では「ボウは怖がり」と説明されているんだけれど、なんの予備知識もなく映画を観ていたら、いや、怖がりじゃなくてもあれは怖いだろ、と思ってしまうんだが。

 

つまり、ここで映し出されている極端な世界というのは、ボウの主観、彼には世の中がこう見えている、ということを表現しているのだ、というのがわからないと(特に説明はされないので)最初から最後までわけのわからないお話を見せつけられることになる。

 

まぁ、とにかく全裸率の高い狂人たちが暴れまくってボウを怯えさせるんだけど、いろいろあってようやく浴室でバスタブのお湯に浸かってたら天井に男が張り付いててそのまま彼の上に落下、絶妙にアソコが見えそうで見えない、見えなさそうで見えてるっぽくもあるアングルで男と全裸で格闘したのちに、そのままアパートを走り出て警官に助けを求めると銃を突きつけられて、動いてないのに「動くな!俺に撃たせないでくれ!」とこれまた意味不明なことを言われて逃げようとしたところをフルチンのまま車に撥ねられる。

 

しかも、これまた股間のブツを丸出しにしたままの狂ジジイにナイフでメッタ刺しにされる。

 

映画の一番最初のあたりでセラピスト(スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン)とのやりとりがあって、この構成ってホアキン・フェニックスが主演した『ジョーカー』を思わせるし、映画全体が主人公の妄想、というか、彼だけに見えているもの、というのも同じ。

 

 

 

ただし、『ジョーカー』は物語をちゃんと追えるように描かれていたし、主人公に共感できるところもあったのが、この『ボー~』の方はさらにストーリー展開の先が読めず、登場人物たちの言動もおかしいので、なんか宮﨑駿監督の『君たちはどう生きるか』を観た時の不快感が蘇ってきて。

 

あの映画も、巨匠の脳内を旅しながらいろいろと考察して楽しんでいるかたがたが多いようですが、僕は受けつけなかったので。

 

「母と息子」についての話、というところも2本の作品は共通していますが、「なんでこんな展開になるのか」理屈できちんと説明されずに主人公が意味がよくわからないことに巻き込まれていくもんだから、だんだん何を見せられているんだろう、という気分になってくるんですね。

 

ツッコミどころ、というよりも疑問ばかりが湧いてきて。

 

『ボー~』は明らかにコメディとして見られる作りになっていたから『君たちは~』よりは僕ははるかに楽しめましたが。

 

先に述べたように、途中まで、というかわりと終盤近くまでは楽しく観ていたんですよ。死んだはずの母親が姿を現わすぐらいまでは。

 

ボウが少年時代に出会って再会を約束していた女性・エレインと母の屋敷でコトをいたしていたところ、絶頂のさなかにエレインは突然腹上死して、お股おっぴろげて死後硬直したまま家政婦たちに片づけられる。

 

そして、天井のシャンデリアが落ちてきて頭が潰れて死んだはずの母が裸のままのボウの前に登場。

 

このあたりで(一応、この映画のびっくりポイントであることはわかるが)心が離れ始めちゃって。頭がなくなって死んだのは、ボウの乳母だった女性だったと説明される。

 

さらに屋根裏部屋に監禁されていた「ボウの父親」の正体が判明するくだりでは、笑うとか呆れるとかを通り越して、さすがに疲れてきてしまったのだった。

 

コメディとして笑っていたものがだんだん笑えなくなってきて、ほんとのホラーになる、というのは監督の狙いなのかもしれませんが、怖いというよりも、ひたすらうんざりしちゃって。

 

巨大チンコや頭を病んだ元兵士・ジーヴス(似てるなぁ、と思ったら、演じてるのは『悪なき殺人』のドゥニ・メノーシェだった)の暴走なんかは、ちょっとジェームズ・ガンの映画っぽかったかな。

 

あの家の庭でのジーヴス大暴れは笑いましたが。

 

 

 

あの巨大な男性器の化け物は、ボウが母親によって「去勢」されている、ということなんだろうし、あるいは自我を母親によって押さえつけられる恐怖をああやってバカっぽく表現したんだろうけど、『哀れなるものたち』でエマ・ストーンが死体のチンチン引っぱるのに吹いたり、やはり娼館でいちいち晒されるおっさんたちの間抜けなイチモツには笑えた僕も、この悪ふざけにはついていけなかった。

 

そのあと、母を殺してボートで逃げ出せたと思っていたら、そこはまだ母親の「胎内」で、彼は法廷で母から糾弾されて最後はボートごと爆発して映画は終わってしまう。

 

出産から始まったと思われたこの映画は、実はボウは永遠に母親の胎内から出ることができない、という絶望的なエンディングを迎える。

 

…む~ん…だからなんなのか、と。

 

子どもを支配し続ける母親、そしてそんな母から乳離れできない息子。

 

その地獄を描いたんだろうか。

 

頭が白髪交じりで薄毛になって中年太りのボウの裸体(『グラディエーター』の頃のホアキン・フェニックスの体つきとの違いがまた…^_^;)に自分を重ね合わせてうら悲しい気分にもなりましたが、あの常軌を逸した母親の支配には恐怖とかボウへの共感とかいったものは抱けなくて、ただただうんざりしただけだった。

 

いつまで続くんだよ、この堂々巡りは、と。

 

アリ・アスター監督にとっては、あれは『君たちは~』で宮﨑監督が描いた溶けたり死んだのにまた蘇る母親同様に自分を取り込んでいつまでも支配し続けるリアルな母親の姿なのかもしれないし、そんな母を憎むことができずに受け入れる、母の胎内で眠り続ける自分、というのも、恐ろしくも甘美であるのかもしれない。

 

『ミッドサマー』でも感じたけれど、アリ・アスター監督はかなり計算して観客の「考察」を誘うような作りにあえてしているらしいんだけど、正直僕は最近の「考察ブーム」(誰も彼もが“考察”をしたがる)みたいなのが嫌いで、そうやってゲームにでも興じる感覚で映画を観ることも、そういうことを求められるのも不愉快なんですよね。

 

作り手から「さぁ、考察・分析してくださいねー(^o^)」と言われて、画面の端から端まで目を凝らして、あそこはああいう意味で、あの小道具はどうこうで、みたいなことに時間を費やす…別にそんなことがしたくて映画を観ているのではないから。

 

ちょうど同じ日に、この映画の前にビクトル・エリセ監督の『エル・スール』を観たんですが、あちらは「父と娘」の話でした。

 

あの映画とこの映画のあまりの作風の違いに、めまいを起こしそうになったけど^_^;

 

本気で文句を言うつもりはないし、繰り返しますように終盤まで退屈せずに楽しんで観てはいたんですよ。

 

だけど、何かわかりきったような結末を3時間かけて見せられて、いくらアート系の映画だからってもう少し観客のことも考えたらどうなんだ、と思った。

 

「母殺し」の映画かと思ったら、反対に生きたまま母に飼い殺される映画だった、と。

 

それではカタルシスは得られないでしょう。

 

アリ・アスター監督は自分の人生を映画に投影させているんだろうけど、なんでそんなもんに無関係な観客が付き合わなければならないのか。

 

脱出したいのにできない、母から自由になりたいのになれない、そのもがき、じれったさ、もどかしさを描こうとしたんですかね。

 

いや、知らんよ、と。

 

ワッサーマン、という苗字からわかるように、ボウはアリ・アスター監督と同じユダヤ系なんだけど、悪いけど興味が湧かない。あなたがたが長年囚われているのは、何かとても虚しいものではないのか。

 

 

 

 

途中のアニメとの合成シーンは『バービー』っぽくて奇妙な「おとなのおとぎ話」のようなテイストもあって、そういうところが好まれるのかもしれないし、明るくて一見幸せそうな家庭がどうやらそうじゃないっぽい描写なんかも、そうそう、あるある、という人もいらっしゃるのだろうけれど、ボウが車で撥ねられて面倒を見てもらうことになった外科医の一家で両親をボウにとられたと思って荒れるあの娘・トニ(カイリー・ロジャーズ)なんかも、やはりいちいちわかりやすく説明はしてくれないので、なんであそこまで彼女が壊れているのかわかんなくて、ず~っとモヤモヤが続いたのだった。

 

そのモヤモヤさせるのも狙いなんだろうけど、だ か ら、そんなのこちらは映画に求めてないっての。

 

 

 

 

エイミー・ライアン演じるグレースにしても、ボウのことを思い、彼を助けるために力を貸してくれていると思ったら、やはり最後には「あいつを殺して!」とぶっ壊れるし。

 

そうやって観客を安心させてくれないアリ・アスターを、ファンの皆さんは「待ってました!」と喜んで迎えている、ってことでしょうか。

 

なんか、『ミッドサマー』のあの頭のおかしい祭りに何も知らずに紛れ込んでしまったような居心地の悪さ。

 

パーカー・ポージーが演じるエレインは、ティーンの頃(ジュリア・アントネッリ)にボウ(アルメン・ナハペシャン)と離ればなれになって、でも必ず会いにくると言ったままそれっきりだったのが、ボウの母・モナの会社で働いていたことがわかって、モナの葬式に遅れてやってきた彼女はなぜかいきなりボウと再会したばかりでベッドイン。

 

 

 

 

すいません、この辺も意味がわかんなかった。

 

あと、このベッドシーンで画面に何ヵ所かボカシが入ってかなり興醒めした。

 

『哀れなるものたち』はR18+で一切ボカシを入れなかったけど、なんの問題もなかったでしょう。『ミッドサマー』もやはりディレクターズ・カット版をR18+で上映して、お客さんはいっぱい入っていたじゃないですか。

 

なんで今さらR15+でボカシ入れてんの?R18+でやりゃあいいでしょう。心配しなくても、こんな映画、中高生は観にこないって。

 

あと、ボカシ入れなくたって別に映ったらヤバいものは何も映ってませんから(無修正版を確認したが、合体シーンでホアキンの裏タマが映るぐらい。しかも多分、あれは作り物)。

 

2024年にもなって、なんで金払って劇場でボカシ入りの映画を観なきゃならんのか。バカバカしい。

 

…で、ベッドの彼の上でエレインはおっ死ぬわけだけど、ボウの父親はモナとの最初の夜に彼女の上で腹上死した、と言われていた。

 

なんか心雑音がどうとか言ってたような気がするし、あとボウは睾丸が肥大している、と外科医のロジャー(ネイサン・レイン)から言われていた。

 

この辺もよくわからず。

 

なぜか彼ではなくてエレインが急死して、息子のセックスにまで介入してくる母。

 

 

 

この気持ち悪さを描いていたんだろうけれど、短篇『ミュンヒハウゼン』と同じことを繰り返してるわけで、この強迫観念的な「母への恐怖」というのはなんなんだろうか。

 

そもそも、息子を支配したいんなら、わざわざ飛行機使って来なきゃならないほど遠くに住まわせずに同居するか近所にいさせればいいじゃん。

 

ボウはなんの仕事してたんだっけ。なぜあんな『26世紀青年』の未来みたいなディストピアに住んでるのか。

 

エレイン役のパーカー・ポージーって、『スーパーマン リターンズ』で悪役のレックス・ルーサー(ケヴィン・スペイシー)の愛人を演じていたし、インディーズ系の映画によく出ている人みたいだけど、なんでこんな役を演じようと思ったんだろ。酷過ぎないですかね。

 

思春期の甘酸っぱい恋(でもエレインもまたトニ同様に結構下品なことを口走る。この辺の生々しさはよかったかも)が最後に成就する、みたいなお話を想像していたら…という、これまたアリ・アスター監督の意地悪なんでしょうが、ひねり過ぎてて意味がわからない。

 

意味がわからない展開ばかり続くと、だんだんイライラしてくる。

 

ビクトル・エリセのような静謐な映画ばかりでもキツいですが、僕はある定型に沿って作られた映画で、その中に何か目新しい要素だとか、興味を引くユニークなアイディアが入っている、というような作品が好きなんです。

 

最初からぶっ壊れてたら入り込めないんだよ。しかも3時間って拷問か!

 

デヴィッド・リンチみたいな映画はそれほど好みではないし、最初から「考察してみなさい」と差し出される作品にもめんどくささばかりを感じる。

 

もっと短く切り詰めるか、そうでないなら「あの最後は見事だった」と思わせてくれるようなエンディングを望みたい。

 

今度こそ、アリ・アスターの次回作を観ることはないかもしれない。

 

 

 

 

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