トッド・フィリップス監督、ホアキン・フェニックス、ザジー・ビーツ、フランセス・コンロイ、グレン・フレシュラー、ブレット・カレン、ロバート・デ・ニーロほか出演の『ジョーカー』。R15+。

 

第76回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞(グランプリ)受賞。

 

第92回アカデミー賞主演男優賞受賞。

 

 

ゴッサム・シティに母親と住むアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)はコメディアンを目指しながらピエロの仕事をしていたが、持病のために不都合を被ることもあり毎日鬱屈を溜めていた。ある日、街の少年たちに暴行を受けて仕事先の仲間から護身用の拳銃をもらうが、それがきっかけで彼は後戻りできない状態になっていく。

 

タバがありますので、これからご覧になるかたはご注意ください。

 

 

DCコミックスのヒーロー、バットマンの宿敵“ジョーカー”の誕生を描く。

 

この映画のことをいつ頃知ったんだったかもう忘れてしまったけれど、チャップリン作曲の「Smile」が流れる最初の予告篇の時点で「泣ける」「傑作の予感」と言ってる人たちが結構いて、確か監督はこれまで「バットマン」の原作も読んだことがないようなことを言ってたはずだし、どうやらこれまでのDCコミックス原作のアメコミヒーロー映画のシリーズ物とは繋がらない単独作品ということだったので、アメコミオタクではない監督が撮るとどうなるんだろう、という興味はあって楽しみにしていました。

 

まぁ、アメコミに関心がない監督が撮った『スーサイド・スクワッド』(今度早々とリブートされるようですが)みたいな残念な先例もあるけど、今度のはそういうのとも違う気がしたし。

 

ちょうどこの映画の前に『スーサイド・スクワッド』のスピンオフ作品『バーズ・オブ・プレイ』の予告篇が流れて、マーゴット・ロビー演じるハーレイ・クインが「ピエロは飽きちゃった」と言ってて笑っちゃったんですが。おまけに殺人ピエロが出てくるホラー映画『IT(イット)』の続篇の予告も流れて、絶対狙ってるだろ、とw

 

『ジョーカー』はもとはアメコミヒーロー物が原作ではあっても、別のジャンルとして作ってるっぽいのが予告からもうかがえた。

 

この作品はアメコミとは切り離した宣伝をされているし、「バットマン」のことをよく知らなくても単体の映画として一応理解はできますが、とりあえずバットマンの本名とヒーロー誕生のいきさつ、彼とジョーカーの関係ぐらいは知っておいた方がいいでしょうね。

 

公開後も評判がよくて、批判的、あるいは「期待してたほどでは」という評価もちらほら目にはするけれど、主演のホアキン・フェニックスの演技は多くの人々が称賛している。

 

おそらく不満を述べている人たちのほとんどは“ジョーカー”というヴィラン(悪役)に対する強いイメージがあって、それと今回描かれたジョーカーのキャラクターが異なることが違和感を生んでいるんじゃないだろうか。観たかったものと違う、と。

 

かつてクリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』(2008)で故ヒース・レジャーが演じたジョーカーがあまりにも鮮烈だったので、彼と比べて…という感想も少なくない。

 

 

 

 

アニメ版も含めてこれまで何人もの俳優たちがジョーカーを演じてきて、それぞれが異なるアプローチでこのキャラクターを作り上げていたので観る側も好みが分かれると思いますが、僕は最初に観たティム・バートン監督版のジャック・ニコルソンの印象が強くて。もちろん、ヒース・レジャーのジョーカーもまた全然違う魅力があるので好きなんですが。

 

 

 

ヒース・レジャーが文字通り自らの命を削って演じたジョーカーが人々を試して弄ぶ、本名も経歴も一切謎の“サタン”のような存在だったのに対して、この映画のジョーカー=アーサーはあくまでも「人間」で、でも世間の「普通」や「常識」から微妙にズレているところに居心地の悪さを感じさせる。単に怖いというよりも「居心地が悪い」人物。

 

 

 

 

だから彼に完全に理解不能で狂った、故に観客を圧倒して大いなるカタルシスをもたらす「邪悪」を期待するのはお門違いなんだよね。スーパーヴィランやぶっ飛んだ狂気を描いた映画じゃないので。そのあたりで賛否が分かれるんだろうと思う。

 

そもそも完全に理解不能なキャラクターを2時間観続けるのは、観客にとっては苦痛ではないだろうか。

 

アーサーは一見理解できそう、共感できそうだからこそ、その共感や同情を突然拒むような彼の逸脱に戸惑わされるし、恐ろしさも感じるのだ。それは「無敵の人」の怖さでもある。

 

この辺をとても的確に指摘されているレヴューがあるので、リンクを張らせていただきます。この映画の特徴や観客を突き放してその気持ちを不安定にさせる理由を明解に述べられています。

 

【ネタバレ】ジョーカー感想。

 

 

「『バットマン』の悪役ジョーカーはサディストのはず」と書いていた人がいて、まさしくその通りだと思うし、それに対してアーサーはちっともドSじゃないですよね。本来は自分から積極的に攻撃したい人ではまったくない。他人を苛めて喜ぶ類いの人間でもない。むしろ苛められる側の人だったわけで。

 

 

 

 

従来のジョーカー像とは正反対とも言える。そこを受け入れられるかどうかかなぁ。

 

「こんなんジョーカーじゃねぇよ」と思ってしまうと、物足りないかも。

 

僕はそこまでジョーカーのキャラに思い入れがないので、こういう視点からのジョーカーというのも面白いなぁ、と思いましたけどね。不満があるかたの気持ちもわからなくはないんですが。

 

というよりも、「ジョーカー側」から描いたら、彼を「人間」として描くならば、どうしたってこういう話にならざるを得ないのではないか、と。

 

ジョーカーの決定版のようなヒース・レジャーの二番煎じをやってもしかたがないし、ただ単に悪意の塊のようなジョーカーを描いても、ちょうど「SAW」シリーズのジグソウもどきみたいなキャラクターになるのが関の山じゃないだろうか。

 

ただし、アーサーは実はかなりの「かまってちゃん」でもあって、しかもその構われ方も自分の意に沿わなければ不満を溜め込むタイプの男だったりする。“ジョーカー”の素質はあるのだ。

 

バットマンの側から見たら狂人の犯罪者が、その彼の方から語ればまったく異なる話になる、ってのは、僕はとても“今”っぽいな、と思うんですよね。富裕層と貧困層の隔絶や、どちらにも愚かな者たちがいる、ってところとか。誰もがどこか欠けていたり過剰だったりして、「完璧」な者などいない。

 

微妙に他の人々とは違う論理でものを考え、行動する者の底知れぬ不気味さ。まわりに合わせて自分を微調整できないために(本人は一所懸命やってるつもりなのだが)孤立を深めていき、やがてそれは社会への呪詛となっていく。

 

この映画は、ジョーカーの狂いっぷりで観客を喜ばせようとはしていない。アーサーは、そうやって彼が意図せぬところで彼のことを「笑う」人間たちを憎んでいる。アーサーはコメディアンになって人々を「笑わせ」たかったが、「笑われ」たくはなかった。だから、せっかく彼を人気TV番組に呼んで世に出るチャンスをくれた司会者のマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)を殺したんでしょう。「人のことを笑いものにして欺いた」と。

 

これは、ある日突然暴発する凶悪犯罪者たちの思考そのものだ。

 

 

 

この映画がロバート・デ・ニーロ主演の『タクシードライバー』の影響を受けている、というよりもアーサーは『タクシードライバー』の主人公トラヴィスの2019年版だと考えれば得心がいく。

 

 

 

 

 

『タクシードライバー』で、トラヴィスはタクシーの運転手として生計を立てていて普段は仕事仲間とも普通にやりとりしているし仕事ぶりも真面目で問題がないように見えるが、実際には他者への想像力が欠けたサイコパスで、好意を持った女性の仕事中のオフィスを急に訪ねてきたり、いつも一人で観にいっているポルノ映画館に彼女をいきなり連れていってフラれたら「彼女も他の奴らと同じだった」などと腹を立てる。フラれた理由が、自分が異様な行動を取ったせいだということを理解していない。やがてその独りよがりな思い込みや偏見を募らせて、凶行に走る。

 

 

 

 

『タクシードライバー』はトラヴィスがヴェトナム戦争の帰還兵という設定から、「ヴェトナム帰還兵モノ」みたいな文脈で語られることもあるけれど、劇中でトラヴィスが人から「俺もヴェトナム帰りだ」と軽くあしらわれていたように、ヴェトナム戦争の話ではない。

 

たとえ戦場を経験してなどいなくても、トラヴィスのような人間は存在し得ることを描いていたからこそ、あの映画は今でも観る者にリアリティを感じさせるのでしょう。

 

『ジョーカー』のアーサーはトラヴィスと重なるところが多いのがよくわかる。

 

これはヒーローや人々を笑い飛ばし翻弄するカリスマ的な悪役“ジョーカー”の話ではなくて、世の中で巧く立ち回れず、その結果振り回されもして自暴自棄になった男が人を殺して解放感を得たような気持ちになる、道化師=“ピエロ”の話なんだ、と僕は解釈しました。

 

現実の世界の凶悪なテロリストや差別主義者たちをかっこいいとか凄いなどと感じないように、現実に「悪」を為す者はたいがいは凡庸でつまらないのだ。そこには人々が心を動かされる「悪の美学」などなく、その頭の固さと知恵の回らなさにただただ気が滅入るだけ。彼らはフィクションの中の悪役とは違う。「つまらない」からこそ厄介でもある。

 

これは社会的弱者の側から描いた物語だが、けっして弱い立場の者たちをわかりやすい清く正しい「善」に仕立ててはいない。彼らはしばしば正しくない行動をする。映画は彼ら自身の問題点も描いている。だから居心地が悪い。金持ちや警察を一方的に悪者扱いもしていない。トーマス・ウェイン(ブレット・カレン)は貧乏人の苦労を知らない富豪の鼻持ちならなさとともに、家族を愛し、仮面をつけた暴徒たちを批判する常識もある。「彼らは仮面をかぶらなければ何もできない」と。

 

病いを抱え、1人で母の面倒を見る生活をしながら行政からも切り捨てられるアーサーの境遇は同情すべき点が多いが、しかし彼の行動には共感や納得がしがたいものがいくつもある。病気だから、では済まない。「狂ってたら人を殺してもいいのか?」「君は人殺しの言い訳をしてるだけだ」と、ごくまっとうな理屈でマレーも彼を批判する。

 

すべてを簡単に「○○のせい」「○○が(一番)悪い」とは言えない。さまざまな要因が組み合わさって、最終的に貧乏くじを引く者が決まる。ただ、それはいつも同じような面子だったりする。

 

なぜ知恵を絞ってそのような状態から抜け出さないのか。もはや彼らにはそんな力が残っていないからだ。あるいは、最初からない。

 

もともと器用に立ち回れる者は「弱者」にはならない。器用ではないから弱者のままでいる。

 

そして、その中からウェインを殺したような、ならず者たちも現われる。

 

アーサーはデモを扇動したわけではない。彼はデモにも政治にも関心がなかった。

 

電車の中で女性に嫌がらせをしたり持病で笑いが止まらなくなった自分に暴力を振るってきたウェイン産業の三人の下っ端社員たち(社長のトーマス・ウェインは彼らに会ったこともなかった)を射殺したアーサーは、そのあと恍惚となってゆっくりと踊り始める。彼は“ジョーカー”への1ステップを踏んだのだ。

 

正直、あの「三人のマヌケ」を撃ち殺す場面は観ていて最高に気持ちよかった。あの時、僕はアーサーと一体になっていた。一線を越えるのは案外簡単かもしれない、と思わせるところがタチが悪い。

 

だが、アーサーは世の中の悪を挫くヴィジランテ(自警団)になるのではなく、コメディアンとして成功することだけを夢見ていた。彼が見ているのは自分だけだ。

 

チャップリンの『モダン・タイムス』(1936)で、主人公のチャーリーは車から落ちた旗を振っていたら労働者のデモ隊がそれを見て合流、そのまま彼らと一緒に警察に逮捕されてしまう。

 

アーサーもまた、彼の個人的な事情で人を殺したところ、富裕層への反逆者と見做されて暴動のシンボルのような存在に祭り上げられてしまう。それはもう“道化”としか言いようがない。

 

ところで『ジョーカー』とは直接関係ないことだけど、劇中でトーマス・ウェインが妻と観ていた『モダン・タイムス』のチャーリーのローラースケートのシーンは、僕は長らくそのアクロバティックなスケートはほんとに危険なスタントをやってると思っていたんだけど、あの場面は撮影現場でのグラスワークによる見事な合成だったんですね。もちろん、あのコミカルなチャップリンの滑り自体は彼本人によるものですが。

 

 

 

同様に三大喜劇王の1人(あと1人はバスター・キートン)、ハロルド・ロイドの『要心無用』(1923)での有名な時計台にぶら下がるスタントもまた、遠近法を利用した特撮だった(それをほんとにやっちゃったのがジャッキー・チェン)。ハリウッドの撮影技術が戦前から凄かったことがよくわかる。

 

 

 

とまれ、『ジョーカー』はチャップリンや彼の笑いへの悪意ある皮肉のような作りになっていて(『モダン・タイムス』の「Smile」が『ジョーカー』ではどのような場面で使われていたか思い返そう)、『モダン・タイムス』では会社が機械による効率化を極限まで推し進めていった結果、主人公の貧しい工員チャーリーが狂って踊りながら工場の機械を破壊した挙げ句、病院に入れられる様子を面白おかしく描いてもいるんだけど、『ジョーカー』ではそれをトーマス・ウェインら富裕層の観客たちが笑って観ているわけで。建物の外では富裕層たちへ不満を募らせた者たちによってデモが行なわれていたし。『モダン・タイムス』の内容を知っていれば、あそこは実は富裕層と貧困層の埋めがたい溝を示した場面でもあることがわかる。

 

 

 

芸人一家だったが、極貧の中で母親は精神を病んで病院暮らしとなり、ともに孤児院で育った兄とやがて映画の世界に飛び込んで世界の「喜劇王」にまで昇りつめたチャップリンと対比した時に、コメディアンを目指していたのに「チャップリンになれずに“トラヴィス”になってしまった」アーサーの人生は、まさに彼自身が言ったように「悲劇だと思っていたら、喜劇だった」ということなのかもしれない。

 

映画の後半で、アーサーがある時から付き合っていたアパートの同じ階に住むシングルマザーのソフィー(『デッド・プール2』でデップーと一緒に戦ってたザジー・ビーツ)とのふれあいはすべてアーサーの妄想だったことが明らかになる。

 

 

 

 

妄想オチというのは安易に用いると作品を陳腐なものにしてしまうから注意が必要だと思うんだけど、観ているうちにどこまでが現実でどこからがアーサーの妄想なのかわからない、その両方が混ざったもののように思えてくるこの映画は、「もしかしたら、すべてがアーサーの妄想だったのかも」と感じさせることで観客に徒労感をもたらす。

 

この映画自体が、まるで悪い冗談のような作りになっている。真面目に観ていて映画に入り込んでいた観客を、やーい騙された~wと笑ってるような。

 

映画の冒頭近くで、アーサーはカウンセラーから「なぜ監禁されたのかわかる?」と尋ねられる。彼が以前病院に監禁されていたのなら、これはもしかしたら映画の最初と最後が繋がって永遠にループする、アーサーの脳内を映し出した『ドグラ・マグラ』のような物語なのかもしれない。

 

また、トーマス・ウェインと昔愛し合った仲だったと主張して彼に助けを求める手紙を書き続けていたアーサーの母親ペニー(フランセス・コンロイ)もまた、精神の病いで長らく妄想を抱いていたことが判明する。

 

アーサーが母の養子だったことがわかるくだりは、彼の“病気”が母からの遺伝によるものではないことを証明している。

 

そして、アーサーが殺した母の部屋の鏡台にあった彼女の若い頃の写真には、その“笑顔”の素敵さを称える言葉と「TW」のイニシャルが書かれていた。母の言っていたことは一部は事実だったのだ。

 

かつて家政婦のペニー・フレックと関係を持ったトーマス・ウェインは、その30年後に妻のマーサとともに暴漢に撃ち殺され、幼い息子のブルースが取り残される。

 

逮捕されたアーサーは収容されたアーカム病院で「面白いジョークを思いついた」と笑う。

 

どんなジョークだったのだろう。コウモリの格好をした仮面の男に追っかけられるネタだろうか。

 

 

大ヒット問題作『ジョーカー』共感と酷評がまっぷたつのワケ(御田寺 圭) | 現代ビジネス

 

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