サイモン・キンバーグ監督、ソフィー・ターナー、ジェームズ・マカヴォイ、ミヒャエル・ファスベンダー、ジェニファー・ローレンス、ジェシカ・チャステイン、ニコラス・ホルト、タイ・シェリダン、コディ・スコット=マクフィー、アレクサンドラ・シップ、エヴァン・ピーターズほか出演の『X-MEN:ダーク・フェニックス』。

 

音楽はシリーズ初参加のハンス・ジマー。

 

 

1992年。スペースシャトル「エンデヴァー」が宇宙で操縦不能となり、X-MEN(エックスメン)が出動して宇宙飛行士たちの救出に向かう。船内に取り残された1人を助けるためにジーン・グレイ(ソフィー・ターナー)が謎のフレアを吸収して危機を脱したが、地上に戻った彼女にやがて異変が起こり始める。

 

2000年の『X-メン』から始まったシリーズ完結篇。

 

…あれ?前作の『アポカリプス』でも「これで最後」みたいなこと言ってなかったっけ?「これで最後」詐欺か?もはや「科捜研の女」の最終回並みにありがたみがなくなってますが。

 

もう、沢口靖子もそろそろアベンジャーズに参戦してもいいんじゃないだろうか(意味不明)。元かぐや姫で元ビオランテで元ヤマトタケルの妻なんだから。

 

そんな感じで(どんな感じだ)もはや「ついに完結!」という感慨は微塵もなかったんですが、20世紀FOXがディズニーに買収されて今後はX-MENもアベンジャーズに合流するかも、みたいなことも言われてたりして、だから今度こそ一応完結篇ではあるようなので、1作目から全作劇場で観ている身としてはとりあえず押さえておこう、と。

 

ただ、予告篇を観ても「これは期待できそうだ」という要素がまったく感じられなくて、だから公開が始まってから観るまでちょっと間が空いてしまった。すでにスパイダーマンの最新作も始まってるし、これの前には『アベンジャーズ/エンドゲーム』がやってたわけで、強力なMCU(マーヴェル・シネマティック・ユニヴァース)作品に挟まれてほとんど話題にもならず、なんとも不運な作品という印象だった。

 

長年、同シリーズで監督を務めてきたブライアン・シンガーがいろいろあって業界から干されてこの最新作からも名前が消えて、これまで脚本を担当してきたサイモン・キンバーグが監督に抜擢された。

 

すでにパラパラッと流し読みさせていただいた他のかたがたの感想でも絶賛というのはほぼなくて、シリーズの最終作としては寂しい、といった評価がほとんど。

 

『X-MEN: ダーク・フェニックス』映画評:『X-MEN』シリーズはこれで最後にすべき

 

 

これでは積極的に観たいとは思わないよなぁ、と。だから僕も貶す気満々で観にいったのです。

 

これまでの2作(『フューチャー&パスト』『アポカリプス』)の感想で散々繰り返してきたように、マシュー・ヴォーンが監督した『ファースト・ジェネレーション』(2011)の路線を続けずにまたしてもブライアン・シンガーが復帰してシリーズを中途半端なものにしてしまったのがすべての元凶、というのが僕の意見です。

 

個人的には、ヒュー・ジャックマンが最後にウルヴァリンを演じた2017年のスピンオフ作品『LOGAN/ローガン』(監督:ジェームズ・マンゴールド)がシリーズ完結篇だと勝手に思っている。

 

ヒュー・ジャックマンは『ローガン』でウルヴァリンを“卒業”したので、この『ダーク・フェニックス』にはウルヴァリンは出てきません。カメオ的な出演も含めてウルヴァリンがまったく出てこないのは、シリーズ中この作品だけ。

 

2006年の3作目『ファイナル・ディシジョン』(監督:ブレット・ラトナー)でひとまずの区切りとなって、5年後の『ファースト・ジェネレーション』から始まった新シリーズではウルヴァリンは主役ではないので(『フューチャー&パスト』ではどっちつかずな扱いだったが)、完結篇で彼がいなくてもお話的には構わなかった、というよりウルヴァリンがいたらむしろ邪魔だっただろうと思う。

 

『ダーク・フェニックス』ではプロフェッサーXことチャールズ・エグゼヴィア(ジェームズ・マカヴォイ)、マグニートーことエリック・レーンシャー(ミヒャエル・ファスベンダー)、ミスティークことレイヴン・ダークホルム(ジェニファー・ローレンス)、ビーストことハンク・マッコイ(ニコラス・ホルト)たち第一世代の物語が終わる。

 

この新シリーズ4部作の特徴として、1960年代から始まり70年代、80年代、90年代と1作品ごとに舞台となる時代が移り変わっている。そのわりにはミュータントたちが全然歳を取らなくて彼らの見た目が変わんないから、これが何十年にも渡る物語であることがあまり実感できないんですが。

 

60年代はキューバ危機、70年代はヴェトナム戦争がストーリーに絡んでいて、現実の歴史とX-MENたちがかかわるが、80~90年代になるにつれてそういう大きな歴史は遠退いていく。

 

『ダーク・フェニックス』では、90年代を感じさせるのは冒頭のスペースシャトル「エンデヴァー」ぐらい。毛利さんが乗ってたのもこの機体。

 

 

 

それでは、これ以降は内容について書いていきますので、これからご覧になるかたはご注意ください。

 

なお、僕はマーヴェルの原作コミックの方はまったく読んでいないので、“映画”についてだけ述べています。

 

 

もともとX-MENというのはマイノリティ(少数派)を異能者である“ミュータント”として描いてきたシリーズで、長らく彼らは社会の中で差別されたり迫害を受けてきた。

 

社会に居場所のない彼らが、ある者は自分の本当の姿を隠したり、またある者は犯罪者となったり、社会不適合者と見做されて隔離されたり、多くの苦難を味わって、その中から自分たちをそのような目に遭わせる人間たちに戦いを挑もうとする者たちが現われる。

 

自らもテレパスであるプロフェッサーX(=チャールズ)は、ミュータントと人間は共存できると信じて教え子たちとともにX-MENというスーパーヒーローチームを作った。

 

このシリーズがアベンジャーズのようなスーパーヒーローのチーム物と似ていながら決定的に異なるのは、ほとんどのミュータントは被差別的な立場にいるということ。

 

彼らは現実の世界における「差別される側」、マイノリティや弱者のメタファーだ。中には人間たちに紛れ込んで彼らとともにミュータントを弾圧する者もいる。同じことをやってる人間が現実の世界にもいますよね。

 

僕はシリーズ中では先ほどのマシュー・ヴォーンによる『ファースト・ジェネレーション』が一番好きなんですが、あの作品が007映画風の痛快な娯楽作だった一方で、マイノリティや弱者、差別される側についての物語としてはあまりピンとこなかったというか、おそらくマシュー・ヴォーンはそういう重いテーマを扱う気はなかったんだろうと思うんですね。要は、あの映画はエンタメ作品として面白過ぎた。

 

あるいは、若者たちが集って仲間になっていく一種の青春映画だったんですね。

 

『ダーク・フェニックス』は『ファースト・ジェネレーション』と同じシリーズ作品とはとても思えないような重い話で、現実のこの世界における弱者やマイノリティから見た寓話としてはシリーズ中でももっとも等身大に近く、前作の『アポカリプス』でやたらと大きくなった戦いの規模もあえてここでは小さくしている。

また、この『ダーク・フェニックス』ではミュータントのキャラクターたちはこれまでのようにニックネームではなくて、互いに本名で呼び合う(ストームは“ストーム”と呼ばれてたような気はするが)。スーパーヒーローでもヴィラン(悪役)でもなく、彼らが人間と同じく生きて悩み愛する「個」であることを示しているようでもある。

その反面、「アメコミスーパーヒーロー映画」として、エンタメ作品として面白いかというとなかなか悩めるところではある。誰にでも薦められる映画とは言い難いのは確かで。

劇中でチャールズがX-MENが“スーパーヒーロー”と呼ばれることを否定するような発言をしていることからも、この作品がアベンジャーズ的なカタルシス溢れる勧善懲悪の物語を目指していないのはわかるし、MCUともDCの路線とも異なる独自の視点で特殊能力を持つ者たちを描いていることは率直に評価はしたいんです。やりたいことがハッキリしているから。

これは「病める者の苦しみ」にどれだけ寄り添えるかについて語ったものとも言えて、だから簡単には答えが出ない課題で非常にシリアスでシビアなテーマを扱っている。

ちょっと前に何人もの死傷者を出して自殺した凶悪殺人犯に対する「死ぬなら勝手に一人で死ね」という“呪いの言葉”について議論になったけど、このX-MENシリーズの一応の最終作とされる本作はまさに自分を制御できないがゆえに他者を傷つけその命さえも奪ってしまう者を「仲間」や「家族」として受け入れられるか、ということを問うている。

ソフィー・ターナー演じるジーン・グレイは別に自殺を望んでいるわけでも反社会的な考えを持っているわけでもないが、かつてその能力のせいで交通事故を引き起こして母親を死なせてしまった。

 

チャールズに引き取られて以来「恵まれし子らの学園」でX-MENの一員として働いてきたが、エンデヴァーの乗組員救出の際に全身に浴びたフレアがもとでチャールズによって封じ込められていた過去の記憶が蘇り、感情が制御できなくなって特殊な能力の暴走を招いてしまう。

 

ジーンは精神的な脆さが顕著なキャラクターで(チャールズも「ミュータントは心が脆い」と言っている)、フレアとの衝突はそれをさらに加速させる。彼女の姿は「社会不適合者」の烙印を押されがちな立場の者そのものだ。

ジーンの恋人のスコット(タイ・シェリダン)がいつも心配げに見守っていて、何かあるたびに彼女のもとへ飛んでくるのも、現実の世の中で痛みとともに生きる者とそのパートナーや介護者の関係を彷彿とさせる。

ジーンを捨てた父親も、その父が生きていることを隠していたチャールズのことも一概には責められない。では愛されることをひたすら求め、彼女を救おうとしたレイヴンまでも殺してしまったジーンこそが「悪」なのだろうか。彼女は「不良品」なのか。



妹のような存在だったレイヴンを失いながらも最後までジーンに手を差し伸べようとするチャールズの想いに偽りがないことを知ったジーンは、最後に彼女の絶大な能力を狙う未知の異星人に打ち勝つ。



 

ジェシカ・チャステイン演じる異星人ヴークは、劇中ではなんだかゴチャゴチャとよくわからない説明がされてるけど、つまりはジーンの中にある怒りや破壊衝動、全能感などを擬人化したもので、最後は彼女が肥大したその感情の爆発を他者に向けるのをやめて、取り返しのつかない結末を回避する。

 

いろんな解釈があると思うけど、僕はあれは一種の「自殺」を表現してるんだと思います。

「愛」があればすべて解決するわけではない。凶悪な犯罪者は必ずしも家族の愛が足りなかったからそのような行為に及んだとは限らない。周囲が事前に手を尽くしても防げなかったつらい事件がいくつも脳裏に浮かぶ。

それでも、最初から社会の不適合者、「欠陥品」として排除するのではなく、まわりの「あなたは私たちの仲間で家族なんだ」という姿勢がこれから起きてしまう無残な犯罪を未然に防ぐ可能性はある。だから見捨てるべきではない──そういうことをこの映画は語っている。

それは忍耐や寛容さが必要なこと。しばしば無力感や怒りも呼び起こすだろう。

だが弱者と向かい合うということは、そういう現実の厳しさと対峙することでもある。予期せぬことが起こる危険は常にある。

諦めて“ミュータント”を全部まとめて排除しようとすれば、『フューチャー&パスト』で描かれたように恐ろしい未来が私たちを待っている。

 

この映画を観ていて感じたのは、これはアメコミ版『キャリー』だなぁ、ということ。

 

 

 

ブライアン・デ・パルマ監督、シシー・スペイセク主演の『キャリー』(1976)は、やはり特殊な能力を持ち、また他の同世代の生徒たちとは異なる家庭環境で育った少女キャリーが学校生活に馴染もうとするがうまくいかず…というティーン・ホラーだったけど、この『ダーク・フェニックス』もまた他の者と違う自分を持て余して壊れていく若い女性が主人公というところが共通しているし、自分は愛されていないのだと思い込んだことが彼女たちの暴走のきっかけだったのも同じ。

 

『キャリー』は悲劇的なカタストロフを迎えるが、『ダーク・フェニックス』のジーンの「自死」は「世界を破滅から救った」というように捉えられている。

 

もちろんそれは「死ぬなら勝手に一人で死ね」ということではなく、「痛み」はいつあなたや私に突然襲いかかってくるかわからないが、破滅は食い止められると信じよう、ということなんだろう。

 

悪者を倒してめでたしめでたし、というお話ではないことがよくわかる。

 

『ファースト・ジェネレーション』が青春物であったとすれば、これもまた別の視点から青春期を描いた「痛み」についての物語だったと言える。

 

最初に「エンタメ作品として面白いかというと…」と書いたように、クライマックスも女性二人が抱き合って身体が光って…みたいな描写の連続は面白味もなく退屈だったし、冒頭の救出劇やエリックが住む集落でのヘリコプターを相手にした超能力合戦、ジーンの護送列車でのバトルなどを除けば、突出して記憶に残るアクションシーンも特にない。

 

前作、前々作に続いてこのシリーズでは珍しく(『ファースト・ジェネレーション』を除けば)ユーモラスなキャラクターだったクイックシルヴァー(エヴァン・ピーターズ)はジーンに大怪我を負わされて途中退場。

 

超俊足の彼がいると他のミュータントたちの活躍の場がなくなってしまうから、という事情もあるのかもしれないけど。

自分を捨てた父親に恨み言を連ねて情緒不安定になった挙げ句暴れて仲間を殺すジーンに対しても、同じような境遇だったのに実の母親を許す『シャザム!ネタバレ)』の少年をすでに見ているので、大人の女性であるにもかかわらず実の父やチャールズ、心配する仲間たちにあたりまくるジーンに正直イライラした。

 

これは現実に「生きづらさ」を感じている人の視点で見れば共感できる要素もあるのだけれど、発散はできないから観終わったあとの満足度はあまり高くはなかった。

 

それでも、最初に想像していたようなただ至らない作品ではなくて志は買いたいというか、他のアメコミヒーロー物とは違うものを作ろうという意欲は感じられたので、簡単に「駄作」と決めつけたくはないんですよね。

 

むしろ、20世紀FOXがディズニーの傘下に入ったことで今後MCUのような作品ばかりになってしまっても、それはそれで代わり映えしなくて困る。

 

まぁ、ともかくはこうやってシリーズ物がまた一つ終焉を迎えたということで、過去作に想いを馳せつつ記事を終えようと思います。

 

 

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