アンソニー・ルッソ、ジョー・ルッソ監督、ロバート・ダウニー・Jr.、クリス・エヴァンス、クリス・ヘムズワース、マーク・ラファロ、スカーレット・ヨハンソン、ジェレミー・レナー、ポール・ラッド、ドン・チードル、ブリー・ラーソン、カレン・ギラン、レネ・ルッソ、ジョシュ・ブローリンほか出演の『アベンジャーズ/エンドゲーム』。

 

音楽はアラン・シルヴェストリ。

 

【ネタバレ注意】

公開が始まってまだそんなに経っていないし「ネタバレ自粛」を求められてもいますが、内容について感想を書こうとすればどうしても核心部分の重大なネタに触れないわけにはいかないのでそこはご容赦いただき、お読みになる場合は自己責任でお願いいたします。

 

 

宇宙から現われた最強の敵サノス(ジョシュ・ブローリン)によって全人類の半数が消滅させられてから5年後、キャプテン・アメリカことスティーヴ・ロジャース(クリス・エヴァンス)をはじめ生き残ったアベンジャーズのメンバーたちは最後の手段として、量子世界から戻ったアントマンことスコット・ラング(ポール・ラッド)が持つ“ピム粒子”とアイアンマンことトニー・スターク(ロバート・ダウニー・Jr.)が開発した装置を使い、6つのインフィニティ・ストーンがサノスの手に渡る以前にタイムトラヴェルして人々を救う「タイム泥棒」作戦を試みる。それは長らく続いてきたアベンジャーズの戦いを終わらせて、いくつもの別れを伴うものだった。

 

マーヴェル・コミックのスーパーヒーローたちを実写映画化するマーヴェル・シネマティック・ユニヴァース(MCU)の1本で、2008年の『アイアンマン』(日本では『インクレディブル・ハルク』の公開が先)から11年に渡って描き続けられてきたヒーローチーム「アベンジャーズ」シリーズの完結篇。

 

お話は前作『インフィニティ・ウォー』の直後から。

 

相変わらずアメコミ愛好者や映画関係者、映画に一家言あるような人々が「これ以上ないほどの完結篇」などとやたら褒めまくってますが、話題作らしいからと飛びつくと、少なくとも『インフィニティ・ウォー』を事前に観ておかないと意味がまったくわからないし、ハッキリ言ってこれまでのシリーズ作品(21作)をそこそこ押さえていないと主要キャラクターたちの関係すら把握することが難しい。「…この人誰?」という登場人物がなんの説明もなくいきなり出てきてお話に絡んできたりする。そういう意味では完全にファン向けの映画。

 

確かに11年間続いた「祭り」を締めくくる映画なので盛り上がるのもわかるし、一応『アイアンマン』から観続けてる(途中で何本か欠席してしまったが)僕もそれなりの感慨はあります。ただまぁ、この“最終作”を楽しむには、あくまでも「アベンジャーズ」シリーズにある程度親しんでいて思い入れがあることが条件かな。最近観始めてハマった人もいるようだから、今からだって過去作を復習すれば全然遅くないと思いますが。

 

上映時間は3時間あるからそのつもりで臨む必要があるけど(トイレが近い人は要注意)、こういうジャンルは好きな人は言われなくたって観るし、興味ない人は別に無理して観る必要もない。

 

観客の数は多いかもしれないけど、非常に狭い世界だな、とも思う。世の中にはこの手の映画にまったく関心がない人もいるから、そういう人たちからするとさぞや幼稚に見えるだろう。

 

だって、描いてることは要するにウルトラ兄弟が怪獣軍団と戦うような子ども向けの特撮番組と変わんないわけで、それをイイ年こいた大人たちが熱狂して観てるんだからなかなか異様な光景ではある。

 

日本の子ども向け番組と違うのは、普段は普通の人間ドラマにも出ている実力派俳優たちを起用して大作として大真面目に手がけていること。

 

物語にのめり込む人もいれば、キャラクターたちの関係性に萌える人たちもいる。もろろん、単純にVFXやアクションを楽しむこともできる。

 

僕が観た時はちょうどゴールデンウィーク中で客席には家族連れで子どももいたけれど、観客の大半は大人たちだった。出演しているのもイイ年した大人なら、観てるのもイイ年した大人。中にはかなりご年配のかたがたも。なんでこの映画を観ようと思ったんだろう。

 

これはなかなか不思議な現象だけど、こういう状況がもう何年も続いてきたのだ。

 

無論、それ以前からスーパーヒーローを描いた映画はありますが、マーヴェルはアメコミ・スーパーヒーロー映画の形、その興行形態や受容のされ方を変えてしまった。アメコミ・スーパーヒーローの映画が毎年何本も公開されて、しかもそれらが毎度のように興行ランキングの上位にくるなんて、それまでは当たり前のことではなかったもの。

 

たとえば、2008年の『アイアンマン』と『ハルク』の次に公開された『アイアンマン2』は2010年の作品。その間2年はMCU作品は公開されていない(ちなみにDCの『ダークナイト』が2008年。2009年にはアメコミ原作の『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』『ウォッチメン』『パニッシャー:ウォー・ゾーン』『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』が公開されている)。

 

2年間アベンジャーズ関連映画が公開されない世界って、今想像できます?^_^;

 

年間2本ぐらい、多い時は3本公開されてきた(もちろん、それ以外に他社のアメコミ作品もある)ここ最近の状態が異常といえば異常だったのかもしれないけど、何年もの間ブームを牽引してきたこのシリーズにいったん終止符が打たれるというのは、一連の作品群をずっと観続けてきた者にはちょっと言葉に言い表わせない、ある大きな「節目」を感じさせるんですよね。

 

奇しくも今年は改元の年でもあるし、また年末にはスター・ウォーズのシリーズ9部作最後の作品が公開される。X-MENも、まもなく公開される『ダーク・フェニックス』が一応「最後」と謳われている。いろんなことが“終わる”年。

 

まぁ、これだって興味がない人にはどれもがどーでもいいことでしょうけど。

 

僕はアメコミの原作にまったく触れたことがないせいもあって、これまでこのマーヴェル・シネマティック・ユニヴァース、アベンジャーズ関連作品とは微妙な距離を保ちながら映画館に足を運んできました。わりとお気に入りの作品もあればいまいちノれないのもあって文句もいっぱい言ってきたし、2012年公開の『アベンジャーズ』のことはボロクソに貶して、もうこのシリーズを観るのやめるかも、みたいなことまで書いた。

 

でも、結局なんだかんだ言い訳しながら観続けてきました。

 

今ではそうやってお付き合いさせてもらってよかったと思っています。

 

ただ、それでも前作『インフィニティ・ウォー』を観終えた時点において、なおも最終作であるこの『エンドゲーム』への不安はあった。11年続いてきたシリーズをどう締めくくるかによってシリーズそのものへの最終的な評価が決まる。

 

ここで中途半端にお茶を濁されてしまうと(「戦いはまだまだ続くぜ!」みたいな)、『アベンジャーズ』1作目の時のように映画の作り手への罵声と呪詛で終わってしまう。それは勘弁してほしい。

 

大袈裟だけど、満席の上映会場で祈るような気持ちで臨んだのです。

 

『エンドゲーム』を今のところ僕は劇場で2回観ていて、最初は通常のスクリーンで2D字幕版を、2回目はIMAXレーザー3D字幕版を鑑賞。

 

1回目の通常のスクリーンでも見応えはあって面白かったし、終盤では近くの席から女性の嗚咽のような泣き声が聴こえてきて若干ヒキながらもその気持ちもよくわかって感動もしたんですが、181分ずっと画面に集中していたおかげで結構疲れたのと、それでも僕の隙間の多い頭ではちゃんと理解できないところもあったので、ボロ泣き、みたいなことはなくてわりと冷静に観終えたんです。

 

で、なんとなく感じた不満などをTwitterで呟いたりしていたんだけど、

 

 

過去に『アベンジャーズ』1作目ではやはり通常のスクリーンで観てブチギレたあと、後日IMAX3Dで観直したら、まぁなんということでしょう、普通にスルスルッと楽しめてしまった経験からも、最初からIMAXでも観るつもりでいたので日を改めて(3時間の映画を続けて観る体力はないし、席も取れないから)再度鑑賞。

 

そしたらですね(予想通りw)、すでに1回観ていて大筋を知っているので、ストーリーを一所懸命追っていた1回目の鑑賞に対して今度は前半に時間をかけて描かれている主要キャラクターたちのやりとりに意識が集中できて、なんとも言えない味わいを感じたんですよ。シリーズのさまざまな局面がちょうど『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』(音楽は同じくアラン・シルヴェストリ)のように別の視点から描かれて、それらがシリーズの総括のような形で1つに結ばれていく。

 

11年かけて仕掛けられた壮大な伏線とその回収に(当然ながらそれは最初からすべてシナリオが書かれていたわけではなくて、多くの関係者たちによってリレーのような形で紡がれたものだが)、観客の1人である僕もアベンジャーズの面々とともにまさしくタイムスリップしているような錯覚に陥ったのでした。

 

クライマックスで6つのインフィニティ・ストーンが収まったガントレットがヒーローたちの手によってバトンを渡すように運ばれる様子は、あんなことせずにもっと効率的な運搬方法があると思うんだけど、ホークアイからブラックパンサー、スパイダーマン、そしてキャプテン・マーベルへと繋げられていく、彼らスーパーヒーローたちのあの姿こそがこの映画には必要だったんですよね。

 

今回、とても巧いと思ったのは、ヒーローたちも何人かはサノスの指パッチンで消されているために、よりキャラクターたちを限定して描けたこと。

 

前作『インフィニティ・ウォー』では活躍していたスパイディことピーター・パーカーやワンダ(=スカーレット・ウィッチ)、ティ・チャラ(=ブラックパンサー)、サム(=ファルコン)、バッキー(=ホワイトウルフ)たちは消されてしまったので、前半はお休みしていて出てくるのは終盤になってから。

 

また、無敵の強さを誇るキャプテン・マーベルは地球以外の多くの星も救わなくてはならないためにアベンジャーズとは行動をともにできず、いざという時にしか姿を現わさない。アントマンは巨大化できる時間が限られているし。設定や物語上の足枷があるんですね。

 

アイアンマン、キャプテン・アメリカ、ソー、ハルク、ナターシャ(=ブラック・ウィドウ)、クリント(=ホークアイ)、ローディ(=ウォーマシン)など古参のメンバー(そこに“ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー”のロケットとネビュラ、それからアントマンも加わるが)で話を転がしていく。完結篇でシリーズの原点に戻るのだ。

 

 

 

 

僕は『インフィニティ・ウォー』の感想の中で「ヒーローたちは再び日常に帰らなければならない」と書いたのだけど、この『エンドゲーム』はまさにクリント・バートンと彼の家族との日常風景から始まるし、アントマンことスコット・ラングの家族との再会も描かれる。

 

守るべき世界、守るべき人々の姿を観客にちゃんと見せているんですね。

 

もともと人間ではないソー(クリス・ヘムズワース)や、やはりすでに通常の人間ではなくなっているハルクことブルース・バナー(マーク・ラファロ)も、彼らの人間的な部分をあえて強調して描いている。

 

サノスでさえも、全宇宙の人口を半減させたあとは辺境の農園で作物を収穫する質素な暮らしを望んでいる。およそ悪役とは程遠いその姿に戸惑う。

 

そして彼は映画の冒頭でアベンジャーズにあっさりと捕まり、ソーに首を切り落とされて死ぬ。

 

サノスをどこか憐れに描いたことにどんな意味があるのだろう。

 

これは僕の勝手な解釈だけど、それはサノスをなんだかわけのわからないモンスターではなくて、人間のような感情のあるキャラクターとして描くことで、彼がやっていることは人間の過ちそのものなんだ、と言っているのではないだろうか。

 

この完結篇を観たことで、僕は「アベンジャーズ」シリーズでアイアンマンやキャップたちスーパーヒーローが戦っていた相手が何者だったのかようやくわかった気がする。

 

9.11テロを思い起こさせた『アベンジャーズ』のチタウリ軍とのニューヨークでの戦いがそうだったように、スーパーヒーローたちが怖れたのは「外からやってくる敵」だった。そのためにアイアンマン=トニーは自ら開発した人工知能の反乱を招いたり、キャプテン・アメリカ=スティーヴと対立して内輪揉めしたりしてきた。

 

でも彼らが戦っていた「敵」は、彼らスーパーヒーローたちと同じように娘たちを愛したり(愛し方を完全に間違えているが)、自分の中の「正義」や「大義」に殉じようとする。

 

人間を殲滅しようとしているのは同じ「人間」なのだ、ということを表わしているのだと思う。

 

サノスが振りかざす「大義」はナチスのそれと同じで、だからこそ僕は『インフィニティ・ウォー』の感想では続篇でそのような「絶対悪」を許すような展開になることを危惧していたんですが、監督のルッソ兄弟はサノスを本当に「倒すべきもの」として描いていた。

 

僕はそのことに安堵して映画の作り手に信頼感を持つとともに、あとはもう物語に身を委ねることができたのでした。

 

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』が公開された2014年から時間を越えてやってきたサノスは、殺された彼以上の知識と野望を持ってアベンジャーズの前に現われる。

 

 

 

人口の半分を消し去っても、生き残った半分の中からアベンジャーズのような不満分子が現われて反逆を企てる。現状に満足せず反抗する者たちはいらない。全宇宙を死滅させてもう一度新しく作り変えよう。

 

──これは自分に従わない者をすべて粛清しようとする独裁者の思考そのものだし、あるいは大洪水で人類を滅ぼした旧約聖書の「神」のような所業だ。

 

 

 

サノスという「絶対悪」「完全悪」とは、「正義」や「大義」の名の下に行なわれるテロや戦争、虐殺行為などのことだろう。

 

この映画で描かれたクリントやスコットたち、あるいはトニーとペッパーの一家のような…つまり(私たちみたいな)市井の人々を一方的に選別して排除することを正当化する、そのような者に屈するわけにはいかない。

 

スーパーヒーローが悪者と戦うような娯楽映画からいちいち現実の社会に通じる意味やら“メタファー”を読み取る必要などない、と考える人もいるだろうし、事実そういう作品もいっぱいあるけれど、でも『ウィンター・ソルジャー』や『シビル・ウォー』を観た人はもはやそうは思わないでしょう。

 

そして僕がそうだったように観る者に疑問を抱かせた『インフィニティ・ウォー』のあとに、このような形でシリーズを締めくくった映画の作り手たちに、僕は拍手を送りたい。

 

普段こういうことは映画の感想では書きませんが、でも最後だから言おう。

 

ありがとう、アベンジャーズ。

 

 

 

 

いろいろと疑問は残ると思います。

 

トニー・スタークは世界を救った殉教者のように仲間たちから見送られるけれど、そしてそれは確かに胸を打ちもするのだが、でも、もともと誰彼構わず兵器を売りさばいて巨万の富を築いたトニーは「死の商人」だったわけで、彼によって命を奪われた人々のことを考えれば、素朴に感動していていいのだろうか、とも感じる。

 

アイアンマンは、シリーズを通して「ヒーロー」の危うさを体現するキャラクターだった。

 

『シビル・ウォー』の感想にも書いたように、アイアンマンとキャプテン・アメリカはそれぞれが“アメリカ”の一面を象徴しているキャラクターで、そこには問題点も含まれるし、愛すべきところもある。

 

 

 

 

この「アベンジャーズ」シリーズは「ヒーローとは何か」「正義とは何か」「悪とは何か」を観る者に考えさせるもので、特にルッソ兄弟が手がけた作品はそれが顕著だった。

 

シリーズ最終作の『エンドゲーム』でハッキリと断言されているのは、サノスの「大義」は正しくない、ということだ。

 

現実の世界で僕たちはスーパーヒーローにはなれないが、サノスのような存在を拒絶することはできる。お前のような者には絶対に与しない、と。

 

正しくない者と戦うヒーローたちを描ききったからこそ、僕は彼らの活躍に胸を躍らせて彼らとの別れにも涙を流すことができる。

 

 

 

トニー・スタークは彼がもっとも怖れてきた敵を自らの命と引き換えに葬り、スティーヴ・ロジャースは戦いののちにその盾を友に託してあらためて「“キャプテン・アメリカ”ではなかった人生」を送ることを選ぶ。

 

架空の登場人物たちが時を駆け巡って戦うこの映画を観て、現実には人は過去には戻れないし死んでしまった者は帰ってはこないこと、犯した罪はけっして消えないことなどを痛感する。

 

映画ではなんでも可能だ。だからこそ、そうではない現実の一度きりの「今」を強く意識する。

 

スター・ウォーズが現実の世界から飛び出してファンタジーの世界に浸る楽しさを教えてくれるなら、この「アベンジャーズ」シリーズではスーパーヒーローたちの姿を透かして現実が見える。

 

22作すべてが傑作というわけではないし、これまで再三不満を表明してきたようにこういう連続TVドラマのような作りの映画ばかりが増えても困るんだけど、でもこのシリーズは特別だった。

 

各作品が合わさって、最後のピースであるこの『エンドゲーム』によってついに一つになった。

 

それぞれの作品への愛着ももちろんあるけれど、この感慨は自分が過ごしてきたこの11年間を振り返って感じる「今、この瞬間のかけがえのなさ」への実感によるものなのかもしれない。

 

アベンジャーズのリーダー的存在だった二人が去って、ナターシャ(スカーレット・ヨハンソン)は仲間たちの想い出の中へ。またソーは地球に逃れて作った新たな故郷アスガルドの国王の座をヴァルキリー(テッサ・トンプソン)に譲って旅立つ。

 

早くも6月末にはスパイダーマンの新作が公開されるし、マーヴェル・シネマティック・ユニヴァースは今後も続きますが、ひとまずアベンジャーズの戦いはここに幕を下ろした。

 

登場キャラクターたちについてなどまだまだ語りたいことはあるけれど、機会があればまたあらためて書こうと思います。

 

 

 

 

※チャドウィック・ボーズマンさんのご冥福をお祈りいたします。20.8.28

※ウィリアム・ハートさんのご冥福をお祈りいたします。22.3.13

 

 

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