クリストファー・ノーラン監督、クリスチャン・ベイル、ヒース・レジャー、アーロン・エッカート、ゲイリー・オールドマン、マギー・ギレンホール、モーガン・フリーマン、チン・ハン、エリック・ロバーツ、マイケル・ケインほか出演の『ダークナイト』。2008年作品。

 

音楽はハンス・ジマーとジェームズ・ニュートン・ハワード。

 

第81回アカデミー賞助演男優賞(ヒース・レジャー)、音響編集賞受賞。

 

 

ゴッサム・シティに現われた謎の犯罪者“ジョーカー”(ヒース・レジャー)は新任地方検事のハーヴィー・デント(アーロン・エッカート)の締めつけで追いつめられているマフィアたちと手を組み、街をさらなる混乱へと陥れていく。“バットマン”ことブルース・ウェイン(クリスチャン・ベイル)は、ゴッサムの腐敗の原因であるマフィアと企業の癒着、警察内部の汚職を排除するために尽力するデントを支持し、ジム・ゴードン警部(ゲイリー・オールドマン)とともにジョーカーを追うが、彼の正体は依然不明のままだった。ジョーカーは次々と凶悪犯罪を起こし、バットマンがマスクを外して素顔を晒すことを要求する。

 

タバがありますのでご注意ください。以降は、この映画を観ていることを前提に文章を書いています。まだご覧になっていないかたは意味がわからないかもしれませんのでご了承のほどを。

 

最新作『TENET テネット』の公開を記念してクリストファー・ノーランの『ダークナイト』が全国のシネコンでIMAXと4Dで上映されていて、僕はIMAXレーザー2D字幕版を鑑賞。

 

 

映画の前に『TENET テネット』の本篇の一部が上映されました。ハンス・ジマーのおなじみのヴォンヴォン鳴ってる音楽(※追記:音楽は今回はハンス・ジマーではなくルトウィグ・ゴランソンでした)が流れていて、内容についてなんの説明もないから意味はよくわからないんだけど、とにかく妙な焦燥感に駆られる。ちょっと雰囲気が『インセプション』っぽいなぁ、と。9月の公開が楽しみです(^o^)

 

さて、『ダークナイト』を僕は初公開当時にも劇場で観ていますが、その頃はまだ住んでるところにIMAXがなかったので、今回初めてIMAXでの鑑賞がかないました。

 

『ダークナイト』では一部のシーンがIMAXキャメラで撮影されたということで画面を目一杯凝視していたんだけど、正直そのへんのありがたみはよくわからず(画面のサイズが途中で変わることもなかったし)^_^; まぁ、今ではIMAXもだいぶ見慣れてきたから、ということかもしれませんが。

 

ただ、やはり大きなスクリーンとIMAX用の音響の迫力は素晴らしくて、12年前の初公開時よりも格段に楽しめた気がします。

 

それは12年という歳月が経ったことで(続篇の『ダークナイト ライジング』からもすでに8年)“バットマン”というアメコミヒーローと彼が登場する映画をかなり引いた目で見られるようになってきたから、ということもある。

 

別のところで触れていますが、僕がこれまで観たバットマンの映画でもっとも好きなのはティム・バートン監督の1992年の作品『バットマン リターンズ』で、それは来年2022年公開予定のマット・リーヴス監督、ロバート・パティンソン主演の『ザ・バットマン(原題)』を観ても多分変わらない。

 

だから、『リターンズ』への思い入れもあって『ダークナイト』に限らずそれ以外の作品に対してもだいぶ辛めの評価をしてきたし、今回再び『ダークナイト』を鑑賞したあとでも『リターンズ』を“最高傑作”とする自分の評価が覆ることはなかったんですが(ってゆーか、『リターンズ』もぜひ再上映してください)、今ではジョエル・シュマッカー(あらためてご冥福を)が撮ったバットマンも、それからベン・アフレックが演じたバットマンなど、さまざまなヴァージョンがあるのはそれはそれで楽しいよな、と思っています。それぞれお好みのバットマンを愛でればいい。

 

バートン版でマイケル・キートンが演じたバットマン=ブルース・ウェインの変態っぽさはやはり捨てがたいのだけれど(笑)、ノーラン版でのクリスチャン・ベイルの若くてハンサムなブルースも、ヒース・レジャー演じるジョーカーと一見好対照だからこそ、そんなジョーカーの「お前も、お前が退治している悪人(ヴィラン)どもと変わらないんだよ」という主張が効いてくる。

 

映像だけでなく、内容についても以前よりも共感を覚えるところが多かったし、それはすでに2008年当時から世間では周知されていて「神作」とまで言われてもいたのだから、12年後にようやくその真価に気づくとは我ながら本当に鈍いな、とは思うんですが。

 

ちょうど去年にはホアキン・フェニックスがジョーカーを演じたトッド・フィリップス監督のそのものズバリな『ジョーカー』も公開されたので、今ノーランとヒース・レジャーが生み出したアメコミ映画史に残る悪役が登場するこの作品について語ることには大いに意味があるだろうし。

 

以下は初公開当時に書いた感想ですが、今では少々感想も変わってきているので、それについてはまたのちほど述べます。

 

バットマンの永遠の宿敵ジョーカーを、本名もその素性すら不明の完全な“謎の男”(切り裂かれた口の由来も本人が話すたびに違っている)として描いたのは面白かった。

 

単に特殊な怪人なのではなく、街を覆う“匿名の悪意”の象徴にも感じられたから。 金のためでも私怨でもない、ただただ世界に無秩序〈カオス〉を引き起こすためだけの犯罪。テロの恐怖、人々の中に忍び寄る疑心暗鬼。すべてを嘲笑うかのようなジョーカーの姿に、現実の世の中で頻発する犯罪事件を連想したりもして。 

 

ただし、そのわりには映画は今一歩のところで決定的なパンチに欠けてたような気もします。ところどころ歯痒かった。 ヒース・レジャーの熱演にもかかわらず、バットマンと悪党の戦いを見守るゴッサム市民とともに、観客のこちら側も戦慄を覚えるまでには至らなかった。 

 

現実的な世界にコミックヒーローを放り込み、その中で「正義とは何か」を問うという発想は、“9.11以降のヒーロー像”を描く試みとしては確かに有効だと思います。

 

でも、そうした「リアルな」ヒーローを描きたいんであれば、ほんとに恐ろしいのはマフィアの暗躍でもなければ警察の腐敗(まぁこれは若干不安ではあるけど)でもなくて、名もなき個人の中に芽生える他人への不信感なんではないかと。 

 

“光の騎士”と呼ばれる一人のエリート検事の転落劇に「この世界に公明正大なヒーローなんていない」と教えられたところで、「何を今さら」って感じもする。彼が突然復讐に走る動機も強引だし。あそこはもっとじっくり描くか、決着を次回に持ち越した方がよかった。 

 

現実の世界のリアリティをヒーロー映画の中に持ち込んだノーラン版バットマンには世の中に対する絶望やヒューマニズムへの懐疑が感じられて、そんな中で主人公がどのように自分の信念を貫いていくのか(あるいはそれが無残に打ち砕かれていくか)に注目していたんですが、ならばむしろジョーカーは街のお偉いさん方ではなくて、不特定多数の人々にこそ“悪の種子”をバラ撒くべきだったんじゃないだろうか。 

 

クライマックスのまるで『SAW』のゲームみたいな「良心」をめぐるジョーカーの挑戦は、世の中をカオスに陥れるにはまだまだ手ぬるい。 

 

バットマンが“ヒーロー”の名前を返上するラストも、やっとスタートラインに立ったということに過ぎない。 

 

守るべき多くの市民が「倒すべき敵」になった時、“闇の騎士”の本当の闘いが始まるんだと思う。 

 

どうも作品同様シリアス一辺倒な感想になってしまいましたが、本作でジョーカーが唯一見せたコミカルな場面である「ナース・コスプレ」はキモカワいかったです。『ケープ・フィアー』のデ・ニーロの女装に匹敵するジョークでした。 できれば次回作ではああいう悪趣味なユーモアをもっと盛り込んで、ほんとに“口が裂けるほど笑わせて”ほしい。 

 

ジョーカー役のヒース・レジャーがもはやこの世にいないのはかえすがえすも残念ですが、当人も本意でなかったとはいえ、道化師の顔をしたこの魅力的な悪役で最後を締めくくった俳優人生(遺作は『Dr.パルナサスの鏡』ですが)は最高に“クール”だと思います。 

 

なんだかんだと不満を垂れましたが、それでもこの映画は一見の価値はある。なんかあとからジワジワ効いてくる。自分の「理想のヒーロー作品」があるなら、なおのことアツく語りたくなる面白さがある。 たかがヒーロー物。別にムキになって熱弁振るう必要なんかない。…そう思われがちなこのジャンルにこそ、妙な愛着を感じます。

 

僕が以前書いた↑この感想の中の「無秩序〈カオス〉」という表現は確か劇中でジョーカーの台詞の中にもあったと思うんですが(勘違いだったらゴメンナサイ)、今回久しぶりにじっくりこの作品を観て、実はこの映画のジョーカーは巷で言われてるほど「狂って」もいなければ無秩序や混沌を指向してもいないのではないか、と感じたんですよね。ちゃんと会話が成立する相手として描かれてるし、バットマンに尋問されても嘘を言っていない。

 

もちろん、やってることは凶悪犯罪なんだけど、ジョーカーが言ったりやったりしてることは見事なまでに首尾一貫していて、けっしてわけがわからないことを繰り返したりデタラメに犯罪を重ねているのではない。

 

ヒース・レジャーのあのゾッとする笑い声のせいで、なんとなく彼が演じるジョーカーは常に物事を茶化してジョークばかり言っておどけているように思っていたのだけれど、映画の中で彼が面白いことをやるのって例の「この鉛筆を消してみせる」という場面と、あと一つぐらい(ナース・コスプレかな?w)しかなくて、ヒース・レジャー版ジョーカーって実際はとても「真面目」なんですよね。

 

 

 

 

彼が「父親から言われた」と語る「Why so serious?(その しかめツラはなんだ?)」という言葉は、すべてが大真面目に作られているこの映画(ノーランによる3部作すべて)のことを自ら評してもいる。

 

 

 

ふざけている、ということなら、バートン版でジャック・ニコルソンが演じた元ギャングのジョーカーや、あるいはシュマッカー版でジム・キャリーが演じた“リドラー”の方がよっぽど不真面目でふざけている。

 

これまでバートンがダーク・コメディのように、あるいはシュマッカーがキッチュでキャンプに描いてきた「ふざけた」“バットマン映画”をシリアスに描き直したのがノーランだったのだし、そしてその“深刻さ”は2008年よりも2020年の現在の方がよっぽど「リアル」に感じられもする。

 

真面目そうな顔をして正しいことを言ったりやったりしているつもりの人間たちだって、ひとたび何か自分に不幸なことが起こったり精神的な余裕が失われれば、あっけなく転落する。そして自分可愛さに他人の命を犠牲にしようとする。だから綺麗事など言うな。

 

お前たちも、所詮はみんな“悪”なんだということを認めてしまえ。

 

…ジョーカーが言ってるのはそういうことだ。

 

 

 

そして、この映画の真の恐ろしさはジョーカーの存在ではなくて、人が「世の中は“正義”も“悪”もなくて、すべてはただの“運”」という絶望に至ってしまうことだ。

 

“光の騎士”とまで呼ばれた正義感溢れる地方検事ハーヴィー・デントは、映画の後半でまさにそうなる。

 

 

 

 

デントは、まだ恋人のレイチェル(マギー・ギレンホール)がジョーカーによって殺されて自らの半身を火傷で失い怪人“トゥーフェイス”と化す前から、レイチェルに向かって「独裁の何が悪い?」と尋ねていた。

 

「腐敗した組織よりも1人の正しきリーダーを」というのが彼の持論だったが、反論するレイチェルの口からはシーザーの名前は出てくるのにヒトラーの名前は出てこないところがもどかしい。

 

デントはゴードンに何度も警察内部の調査を徹底させるよう言い含めていたが、ゴードンは裏切り者を見抜けなかった。そしてデントはジョーカーの罠によって囚われた自分とレイチェルのうち、自分の方が助け出されて彼女は殺されたことを逆恨みして、ゴードンのまだ幼い息子を殺そうとする。

 

 

 

デントの壊れ方が性急過ぎるし、ゴードンを恨むのは筋違いにもほどがあるので(確かに警察はあまりに無能過ぎるが)、初公開当時に覚えた違和感は無理もないと思うんだけど、でも今回、僕は12年前よりもこのあたりの強引な展開が意外と引っかからずに受け入れられたのでした。

 

だって、現実にこの12年間で常識が次々と破壊されて当たり前だと信じていたことがこうも簡単に覆されたり裏切られたりする世の中になるとは。以前は、まさか自分も含めた「人」の危うさや弱さ、醜さをこんなに痛感させられるとは思っていなかった。

 

政府も、政治家も、司法も、警察も、公務員も、企業も信用できないような世界が来ようとは。

 

そりゃ、ジョーカーだってジョークも言ってられないだろう。本当に余裕がなくなれば人は笑うことさえできなくなる。

 

余裕がない者が自分のことだけ考えて我慢することも世間と折り合うこともやめてしまったらどうなるか…というのを描いたのが去年公開された『ジョーカー』でした。

 

あの映画の主人公は、ヒース・レジャーが演じたまるで“サタン”のようなジョーカーと比較されていろいろと議論もされてきたけれど、『ダークナイト』のジョーカーが語っていた切り裂かれた自分の口の由来が毎回違っていたように、ホアキン・フェニックス版のジョーカーはジョーカーが語った数ある自分の過去の中の一つを映画化したもの、と考えると納得できないだろうか。あの物語自体がヒース・レジャー版ジョーカーがついた「嘘」だと解釈することもできるし、あるいは“ジョーカー”というのはたった一人じゃなくて、『ジョーカー』で街の暴徒たちがかぶっていた仮面のように無数に存在するのだと考えることも可能でしょう。

 

『ダークナイト』の冒頭でも、ジョーカーはさまざまなピエロの仮面をかぶった他の銀行強盗の男たちに紛れ込んでいた。

 

 

 

 

“光の騎士”だったハーヴィー・デントがたやすくヴィランとなったように、人は誰でも簡単に悪に染まるし、そもそも生まれた時から悪そのものなのかもしれない。その自覚がないだけで。

 

聖書の中のサタンというのは、そうやって人間が自分と同類であることを証明しようとする挑戦者であり誘惑者である。

 

映画評論家の町山智浩さんが『ダークナイト』の初公開当時にヒース・レジャー版のジョーカーについてジョン・ミルトンの「失楽園」を例に挙げて解説されていましたが、「失楽園」が直接引用されていたデヴィッド・フィンチャー監督の95年の作品『セブン』で、犯人の“ジョン・ドゥ”は人間がいかに罪深いかを証明するために連続猟奇殺人を行なう。ジョン・ドゥはヒース・レジャー版ジョーカーによく似ている。生きた人間というよりも、人間たちを「試す者」。

 

あの映画には主要登場人物として、ブラッド・ピットとともにモーガン・フリーマンが出演していた。

 

おじいちゃんたちに守られるブルース・ウェイン

 

『ダークナイト』ではバットポッドに乗ったバットマンがジョーカーに向かっていくが、「俺を轢いてみろ」と言って立ち尽くすジョーカーを殺すことができなくて横転してしまう。

 

 

 

 

なんでバットマンは頑ななまでにジョーカーを殺さないのか、といったら、正義の名の下に敵を殺せば、それは倒すべき悪と同じになってしまうから。バットマンは人を殺さない、という「ルール」があるからこそ、彼は悪人たちと自分との間に一線を引いて「正義」として振る舞える。

 

だから、二つのフェリーに爆弾が仕掛けられて、助かりたければ相手の船の起爆装置のスイッチを入れればいい、とジョーカーから告げられて、結局どちらの乗客たちもスイッチを入れない、という選択をしたことで人々はジョーカーの挑発に勝利したことになるのだが、一方のバットマンの方は元恋人のレイチェルを殺されて(そのわりにはデントに比べてずいぶんと反応が淡白だったような気がするが)、さらにデントを犯罪者トゥーフェイスにしてしまった挙げ句、ゴードンの息子を助けるためにやむなくデントを死なせることになる。

 

不殺の誓いも破り、大切な人も守れず、正義のヒーローとしては完全にジョーカーに敗北する。

 

町山さんは最後にジョーカーが宙ぶらりんのまま中途半端に映画が終わってしまうことに不満を述べられていたけれど、この映画はヒーローが悪を倒してめでたしめでたしのカタルシス溢れるエンディングは迎えようがないんですよね。

 

傷だらけで闇に消えていくバットマンのあの姿は、ジョーカーが「俺たちはこれからも永遠に戦い続けるのかも」と語ったように、現実の悪に打ちのめされそうになりながらもなんとか生きながらえていこうとする、僕たちの姿でもあるのだから。

 

クリストファー・ノーランという監督は、おそらく最後にヒーローが悪を打ち負かして観客がスッキリするような作品にはあまり興味がないのではないか。そういう映画ほとんど撮ってないでしょ。

 

だって、一番好きな007映画が『女王陛下の007』だという人ですよ?

 

『女王陛下の007』はジョージ・レイゼンビーがジェームズ・ボンドを一度だけ演じて、しかもアンハッピーエンドで幕を閉じる異色の作品(『インセプション』にはこの映画へのオマージュがある)。

 

ノーランはずっと007を撮りたくてラヴコールを送ってるそうだけど、今年は007映画の最新作が公開されるし(※追記:その後、『007 ノー・タイム・トゥ・ダイ』の公開は2021年に延期)、偶然とはいえちょっと因縁めいていて面白い(007映画はマシュー・ヴォーンも狙っていて、彼の新作『キングスマン:ファースト・エージェント』も待機中)。

 

『TENET テネット』も、単純なアクション映画っぽくないですし。

 

…あ、肝腎のダークナイト=バットマン=クリスチャン・ベイルのことを何も語ってませんが…(;^_^A それはまたの機会に、『ザ・バットマン』の公開時にでも。

 

ちょっと前までは「今さら『ダークナイト』でもないのでは」と、あえて語る必然性を感じなかったんですが、スピンオフ作品でジョーカーがフィーチャーされたり、こうやって本作品が再上映されることでヒース・レジャーが遺したジョーカーの「一歩先を読んでいる」その言葉が再び現実の世の中を反映しているような、そんな面白さを感じたのでした。

 

「神作」?…神なんていねぇよ!(`∀´)

 

 

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