自分が観た映画の記録のためにその内容やラストについて詳しく触れていますが、どちらもネタバレせずに観た方がいい作品(そんなん言ったらこの2本に限りませんが)なので、これからご覧になる予定のかたはどうぞ鑑賞後にお読みください。

 

 

日本名物“土下座で謝罪”映画2連発でした。(007 ノー・タイム・トゥ・ダイ』の感想へ

 

 

  『空白』

 

 

吉田恵輔監督の映画は、僕はこれまでに劇場では『純喫茶磯辺』(2008) と『麦子さんと』(2013) を、またDVDで『さんかく』(2010) を観ています。

 

『純喫茶磯辺』と『さんかく』はわりと好きだったので『麦子さんと』も劇場に足を運んだんですが、思いのほか僕は受けつけなくて、それ以降、同監督の作品は観ていませんでした。

 

今回もちょっと迷っていたんですが、予告篇を観たところ先月に観た『由宇子の天秤』と似たような題材を扱っている感じがしたのと、いつもブログを拝読しているかたからいただいたコメントの中でこの映画について触れられてもいたので、やはり気になって『麦子さんと』以来、7年ぶりに吉田恵輔監督の映画を鑑賞。PG12。

 

愛知県蒲郡(がまごおり)市。スーパーアオヤギの店長・青柳直人(松坂桃李)が万引きを疑ったある女子中学生をバックヤードへ連れていくと、彼女は逃走。直人が追いかけたところ女子生徒は道路で車に轢かれて死亡する。その被害者の女子中学生・花音(伊東蒼)の父親・添田充(古田新太)は娘の万引きを認めず、過去に痴漢をしたという噂もある直人をつけ回して彼から真相を聞き出そうとする。

 

…映画が始まって結構な時間が経つまで微妙に入り込めなくて、どこか違和感を覚えながら観ていました。

 

まず、主演である古田新太が大声上げたり何かといえば「ふざけんな」を繰り返すなど、「粗野なおじさん」を無理やり演じているように見えてしまって。

 

古田新太さんってTVのヴァラエティ番組の「明るくて面白いおじさん」というイメージが強いこともあって、まずこの映画で彼が演じる添田充という、普段一人娘をないがしろにしがちなシングルファーザーで口の利き方も乱暴な漁師、という登場人物になかなかリアリティを感じることができなかった。

 

 

 

 

冒頭すぐ起こる凄惨な交通事故の場面が目に焼きつくからこそ、父親のキャラクターに違和感があると物語のもっとも核となるところに集中できない。

 

僕は90年代に中島らも作「こどもの一生」というお芝居をTVで観てとても面白かったんですが、そこで重要な登場人物“山田のおじさん”を演じていたのが古田さんでした。

 

「頭の先までピ~コピコ!」という若井はんじ・けんじのギャグが口癖の明るく面白いおじさんが実は…というコワ~いお話で、古田さんの笑った時のあのとろけたような目が恐ろしく感じられてくる最高にサイコな演技でしたが、ああいう舞台劇でのデフォルメされたスタイルの演技における存在感が抜群な一方で、彼の中にその辺に普通にいそうな人としての映画的なリアリズムを僕はあまり感じないのです。これは演出の問題でもあると思うんですが。

 

古田さんはTVドラマや映画にも多く出演されてますが、あくまでも演劇の世界の人、という印象が強い。

 

寺島しのぶ演じるスーパーのパートタイマーと言い争いをする場面でも、寺島さんの「あなた間違ってる!」みたいなたどたどしい台詞運び(わざとやってるんでしょうが)と相まって、なんだかところどころ段取り芝居のように見えてしまった。あの場面はシナリオの台詞の貧しさのせいもあるけど。

 

どちらかというと古田さんは、無口で無愛想なおっさん、よりも、愛想が良くて口八丁だが心の内が読めないトリックスター的な役の方が似合っているんじゃないだろうか。

 

ただ、後半になっていくにつれて古田さん演じる充に徐々に変化が見られるようになっていくと、かえって古田さんのキャラの立った人物像から違和感が薄れていったのでした。

 

そして、この人物は古田新太という俳優が演じたからこそ光ったんだ、と思えるようになった。

 

もう一人の主人公である直人を演じる松坂桃李は、僕は彼が出演している「孤狼の血」シリーズは2本とも観ていないんですが、『新聞記者』でもそうだったけど鬱屈を溜め込んでいる青年役がとても巧いですよね。

 

この映画の中で直人は取り返しのつかないことを起こして、終始暗い表情をしていて、彼が何度も人前で謝罪するところが映し出されるんだけど、演じてる松坂さんのことが本気で心配になってくるほど真に迫った演技でした。

 

 

 

 

直人が会いにいく祖母(だっけ?)役の女優さんの台詞廻しが若干“棒”気味だったり、ところどころ演出にムラがあるようにも感じられたんですが、でも最後には「観てよかった」という満足感が得られました。

 

つらいお話ではあるのだけれど、観終わったあとにはこれが「ひとりの人間」のかけがえのなさを訴えかけた物語であることがわかったから。

 

先日、ここのところちょっとご無沙汰してしまっていた朝ドラ「おかえりモネ」を観たら、『空白』で犠牲者の少女・花音役だった伊東蒼がやはり中学生役で出ていたので、アレ?と。

 

僕は『空白』で初めて見た人だと思っていたんだけど、『累 -かさね-』で主人公の子ども時代を演じていたんですね。

 

『累 -かさね-』の主演は芳根京子さんと土屋太鳳さんで、奇しくも朝ドラ繋がりですが(笑)伊東蒼さんもやがては朝ドラのヒロインを演じるのでしょうか。今、注目の若手女優なんだなぁ。

 

『空白』ではクラスでまったく目立たず誰の記憶にも残らない、また担任の今井先生(趣里)からは要領の悪さを指摘されて「もっと考えてやった方がいい」と注意されてしまう女子生徒を演じているのだけれど、伊東蒼さんのあのちょっと眠たそうな目と哀しげな表情がいたたまれなくて、あれは演技なのか(もちろん演技なのでしょうが)それとももともとああいう顔つきの人なのかわからなかったんだけど、「モネ」でも彼女は悩みを抱えている少女の役で、やっぱり哀しそうな顔をしていた。

 

彼女が笑顔になる作品が観たいな

 

この映画の主人公は花音の父・充とスーパーの店長・直人だけど、この映画が描いているのは“花音”という名の少女のことで、その命が無残にも失われてしまったことで、映画の観客もまた残された人々の目を通してその存在を強く意識させられて、「ひとりの人間」の存在がけっして軽く扱われたり無視されてよいものではないことをあらためて思い知ることになる。

 

花音は無口でいつも人前では伏目がちで、学校ではクラスメイトの男子たちから適当に使われる以外は誰からも相手にされず、家に帰っても無愛想な父親からやはりほとんどかまわれることもなく、関心も持たれていない。

 

趣里さん演じる担任教師の花音への教室でのアドヴァイスの仕方が絶妙にリアルで、けっして強い口調で叱っているわけでも嫌味を言っているわけでもないんだけど、明らかに先生はちょっとイラッとしている様子が伝わってきて、だからこそ花音が感じたであろうプレッシャーもよくわかる。

 

僕は学校や職場などで花音のように人に「注意される」「イラつかれる」ことが多かったんで、彼女のような器用ではなく消極的な性格の人の生きづらさにとても共感する。僕の場合はもっと図々しいし適当に発散してるからなんとか生きていられてますが。

 

この映画には花音の他にも、スーパーアオヤギでパートタイムとして働く草加部麻子(寺島しのぶ)からボランティアに誘われて毎度断われずに参加するものの、そのたびに麻子からあれこれと注意されたり失敗して罵倒される女性が登場する。

 

注意したり叱る側の人間からすれば相手が鈍臭かったりウジウジした態度だからイラッとするんだろうけど、注意されたり叱られる側にとっては、自分を追いつめてきて恐怖を与えてくる相手は多大なストレスなんだよね。人にキツめに接しがちな人は、自分の言動が一部の人たちを生きづらくさせているんだという自覚を持った方がいい。

 

担任教師の今井もまた、花音に対して麻子同様の態度だった。

 

麻子は直人を励まして自殺未遂をした彼を救いもするし、けっしてただ責められるべき存在ではないが、彼女は「正しさ」の押しつけが目につくし、ボランティアに付き合わせた先述の女性が誤ってカレーのルーが入った鍋を落として中身をこぼしてしまったのを見て激昂して、泣きながら地面を掃除する場面以降、どうなったのか描かれない。くだんの女性は火傷を心配して連れていってくれる人がいた。麻子をあのようにどこか救われないまま映画から退場させたところに監督の意思を感じる。

 

 

 

 

でも麻子もまた、傷ついて何かの拠り所を求めていたのだろう。ボランティアにのめり込んだり直人に好意を持ったりスーパーアオヤギのために尽くそうとするのも、全部彼女の心の中の空洞を埋めるためだったのだと思う。

 

そういう意味で、娘を死なせた直人にしつこく付きまとい彼にすべての責任を押しつけようとする充の姿は麻子のそれと相似形を成している。麻子の場合は「正しさ」の追求、充の場合は「真実」の追求。

 

だが、「正しさ」や「真実」などというものは一体どこにあるのか。

 

映画を1回観ただけなのでちょっとわからないところがあったんですが、最後に充が花音の遺品のぬいぐるみの中からみつけたマニキュアは、花音が万引きしてきた物なんでしょうか。それとも、あれは彼女が自分で買ったかもしれない物なのかな?

 

母の翔子(田畑智子)は花音が透明なマニキュアをしていた、と充に語っていたから、ってことは娘がマニキュアを持ってたことは知っていたわけですよね?…すみません、そのあたりがどうもよく理解できてなくて。

 

 

 

花音が本当に万引きをしていたかどうか、直人が本当に痴漢をしたのかどうか(彼を問いただす充へのリアクションからも、直人が嘘を言っているようには見えなかったんだが)は実はこの物語の中で一番重要なことではないのはわかるんですけどね。

 

この映画の中で個人的に一番記憶に残ったのは、直人が弁当屋で買った「スペシャルのり弁」を間違えられたことで電話で弁当屋にブチギレる場面。

 

おそらく電話口の向こうで謝罪しているだろう相手に、直人は「二度と行かねぇよ、殺すぞ!!」と大声で怒鳴って電話を切り、弁当を床に叩きつける。

 

それまで人前で声を荒らげることもなく自分の感情を抑えつけてきた彼がここで初めて怒りを爆発させるんだけど、相手は無関係な人だ。

 

その直後に直人は再び弁当屋に電話して、取り乱して暴言を吐いたことを詫びる。食べずに床に中身をぶちまけた弁当のことも「おいしかったです」と言って。

 

日常で理不尽な思いをした時、ヒドい扱いを受けた時、本当に腹が立つし、つい他の人に八つ当たりしてしまうこともあるのだけれど(それを自覚せずにやってることも)、実は自分をそんな目に遭わせた人も同じような目に遭っていたのかもしれない。そして、自分が八つ当たりした相手も、同様に理不尽な思いをしているだろう。

 

それどころか、自分自身に原因があって起こしてしまったことでさえも、人は他者に責任転嫁する。

 

何か、そうやって世の中では負の連鎖が続いていく。

 

負の連鎖、ということでは、描いているのは『スリー・ビルボード』と通じるものがある。

 

娘の死に対する充の怒りは、事故の加害者女性の自死を招く。

 

その葬儀に足を運んだ充に、自殺した加害者女性の母親(片岡礼子)は怒りをぶつけるのではなく、「弱い娘に育てたこと」を謝罪する。どうか娘を許してやってください、優しい子だったんです、と。

 

 

 

 

この母の態度が充を変える。

 

「花音の死」によって、観客は自分たちのすぐそば、今、目の前にいる人の大切さに気づかされる。家族や職場の仲間だけではなく、赤の他人であっても、その人は大切にされるべきなのだ、ということ。死んでしまってからでは遅い。

 

心から謝ること。ただ形だけの「謝罪」ではなくて、本当に後悔して反省して謝ることがいかに大事か。それが「負の連鎖」を断ち切ることに繋がる。

 

本気で謝ることができるなら、感謝して礼を述べることもできるだろうし、許すこともできるだろう。

 

充に反発しながらも彼を見捨てられない若手の漁師の野木(藤原季節)や、直人の父親が生前作っていた「焼き鳥弁当」を楽しみにしていたスーパーのお客さんなど、負の連鎖ではない関係が世の中にはある。互いに影響を与え合ったり、その存在が生きる励みになっているような繋がりが。

 

 

 

父親と娘という家族構成や交通事故、マスメディアの責任など、確かに『由宇子の天秤』と共通する部分は多いし、誰もが被害者にも加害者にもなり得る、ということを描いているのも似ていますが、この『空白』では「ひとりの人間」の尊厳により強く焦点を当てているように感じました。

 

花音を唯一理解して彼女に関心を寄せていた母・翔子がどうして充との離婚の際に娘を引き取らなかったのかよくわからなかったんですが(台詞の中で、当時は鬱気味だった、というようなことを言っていたので、それが理由かもしれないが)、あとになってから「ああすればよかった」と後悔することはよくある。

 

この映画はフィクションで、劇中での「花音の死」も「加害者女性の死」も現実に起きたわけではない“作り事”ですが、その作り事であるはずの「死」に観客である僕たちがこれだけ心乱されるのなら、現実の世界で「生きている人」に関心を寄せたり思いやりを持って接することもできるはずだ。

 

この映画はそういうことを語っているんじゃないだろうか。

 

 

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  『007 ノー・タイム・トゥ・ダイ』

 

 

MI6(英国秘密情報部)を引退してマドレーヌ(レア・セドゥ)とともにイタリアはマテーラを訪れていたジェームズ・ボンド(ダニエル・クレイグ)だったが、今は亡きヴェスパー・リンド(エヴァ・グリーン)の墓を訪ねたところ、犯罪組織スペクターの男たちに襲われる。マドレーヌが自分を裏切ったと思い込んだボンドは彼女と別れる。

 

それから5年後、ボンドはCIAエージェントのフィリックス・ライター(ジェフリー・ライト)からの依頼でさらわれた細菌学者を追うが、かつてスペクターに家族を惨殺されて復讐のためにマドレーヌの母親を殺したサフィン(ラミ・マレック)が細菌兵器を世界にばら撒こうとしていた。

 

2015年公開の『007 スペクター』に続く、ダニエル・クレイグ主演の007シリーズ第5弾にして最終作。

 

敵役に『ボヘミアン・ラプソディ』のラミ・マレックを迎えて、クレイグは本作品で2006年の『カジノ・ロワイヤル』以来15年間務めたジェームズ・ボンドを“卒業”する。

 

 

 

 

上映時間は163分。

 

ダニエル・クレイグがボンドを演じるのはこれが最後、と言われていて、その集大成として観たから163分という長尺も苦にはなりませんでしたが、では、これまで観た007映画の中で一番好きかというと、これがなかなか難しい(個人的に一番お気に入りはピアース・ブロスナン版ボンドの1997年作品『トゥモロー・ネバー・ダイ』)。

 

というのも、僕はこれまでクレイグ版の007映画は『スカイフォール』と『スペクター』を劇場公開時に観てますが、どちらも絶賛ということはなくてどちらかといえばツッコミ入れながらの鑑賞だったので。けっして嫌いではないんですが(だから観続けてるわけで)、ダニエル・クレイグ主演の007映画で「最高に面白い!」と心から満足した作品がないのです。そして、それはこの最終作も例外ではなかった。

 

もっとも、『スカイフォール』以降、映画館で007映画を観ること自体が特別なイヴェントだから、どれも劇場で鑑賞できたことには満足してますけどね。だから、今回の『ノー・タイム・トゥ・ダイ』でクレイグ版ボンドを劇場で見送れたこともよかったと思っています。

 

まぁ、何しろ公開までずいぶんと待たされたし。

 

クレイグの主演した5作品は連作になっていて最初からお話が続いている。また、ブロスナン版で“M”を演じていたジュディ・デンチが引き続き同役を務め、『スカイフォール』のラストでレイフ・ファインズに交代するという、シリーズでも異例尽くしのことをやっていた。

 

 

 

そして、ダニエル・クレイグ自身が「これで最後」と宣言していたことからも事前に予感はしていたのだけれど、本作品ではこれまでのシリーズではけっして描かれることのなかった「ジェームズ・ボンドの死」が描かれる。

 

「まだ死ぬ時ではない (No Time to Die)」と前置きしておいてのあのラスト。

 

また、もう最終回なんだからとばかりにボンドとは旧知の仲であるフィリックス・ライターや宿敵ブロフェルド(クリストフ・ヴァルツ)も次々と命を落とす。

 

 

 

 

ダニエル・クレイグがボンドを演じた5本はそれだけで独立したシリーズになっているんですね。そして、このシリーズそのものがジェームズ・ボンド=007論になっている。

 

そういうことでは大変興味深く面白かったです。

 

この映画を観るちょっと前にTVの「金曜ロードショー」で「インディ・ジョーンズ」シリーズの2本を放送していて、その中の『最後の聖戦』にはインディの父親役で初代ジェームズ・ボンドのショーン・コネリーが出ていました。

 

もう、007映画の最新作の公開に合わせたとしか思えなくて愉快でしたが(^o^)

 

ご存知、スピルバーグ監督、ハリソン・フォード主演の「インディ・ジョーンズ」は大好きなシリーズですが、先日の放送の時にも感じたように80年代に作られた同シリーズは今観るといろいろ問題点も目について、特に女性やインド、アジア系の人々の描写に差別的な表現が見られる。

 

インディ・ジョーンズというキャラクター自体が「20世紀の遺物」というか、現在では通用しない価値観に基づいて作られてもいる。

 

それはインディの“父親的存在”でもあるジェームズ・ボンドにも大いにいえることで、女性をとっかえひっかえしては別の作品ではもう過去の女のことなど忘れているボンドは近年では批判もされてきていて、ダニエル・クレイグ版ボンドはかつてのコネリー版ボンドのようにじゃじゃ馬なヒロインにお仕置きして逆にメロメロにさせちゃったりはしないし、ロジャー・ムーア版ボンドみたいに敵を殺した直後にジョークを飛ばしたりもしない。

 

「女に気を遣うボンドなんて見たくない」という人もいるかもしれないけど、そういう人は昔の007映画を観てればいいんだし。

 

それでも『スカイフォール』や『スペクター』の感想で指摘したように、クレイグ版ボンドでもボンドガールの描かれ方はちょっとどうかと思わせられたし、その辺は僕は「パロディ」だと考えて観てきたんですよね。

 

あ、ちなみに最近ではボンドガールじゃなくてボンドウーマンと呼ぶのだそうですが。確かに大人の女性に「ガール」はおかしいよね。

 

それが、この最終作ではかなり意識的にボンドガール改めボンドウーマンを描いている。

 

シリーズ初のアメリカ人監督、キャリー・ジョージ・フクナガが言っていたのか、それともダニエル・クレイグの言葉だったか忘れてしまいましたが、ジェームズ・ボンドのキャラクターを極端に変えることはできなくても、まわりの登場人物たちを魅力的に描き直すことでその関係性に変化をもたらすことはできる。

 

 

 

『ノー・タイム・トゥ・ダイ』では007のナンバーを受け継いだノーミ(『キャプテン・マーベル』のラシャーナ・リンチ)も、またキューバでボンドと共闘するパロマ(『ブレードランナー 2049』のアナ・デ・アルマス)もそれぞれプロフェッショナルとして活躍して主人公であるボンドに協力もするが、彼の性のお相手はしない。

 

 

 

 

ボンドの家に行ったノーミが服を脱がずにヅラを脱いでたのには笑ったし、「もうちょっとよく知り合ってからの方がいいのでは」と言うボンドにパロマは着替えのスーツを渡すだけ。

 

また彼女たちは劇中で殺されない。

 

ここでボンドがかかわる女性たちは、けっして彼のヒーロー性を際立たせるためのアクセサリーではない。

 

ヴェスパーの墓を爆破されたボンドが即座にマドレーヌを疑うのが腑に落ちなくて、だってもし彼を殺す気ならいつだってそのチャンスはあったわけでしょ。妙だなぁ、と思ったんだけど、これまでの007シリーズだったらあり得たかもしれない展開ですよね。でもマドレーヌは裏切ってなかった。

 

 

 

ジェームズ・ボンドが愛した女性はヴェスパーのように死んでしまうか、あるいはこれまでだったら次回作では忘れられてしまうのが定石だったけれど、マドレーヌは“ボンドガール”のお約束を破る存在になった。彼女は最後まで死なないし、ボンドに忘れられもしない。

 

しかし、ジェームズ・ボンドは愛する人と幸せに暮らしましたとさ、というハッピーエンドにはならない。ジェームズ・ボンドが永遠に愛する人と生き続けていくことはない。

 

映画の作り手の意志を貫くうえでの当然の帰結として、“ジェームズ・ボンド”は最後に死ななければならなかった。愛する女性との間の“娘”を残して。

 

この映画が企画されて撮影されたのは新型コロナウイルス感染症によるパンデミックよりも以前のことだから、映画の中で登場する「細菌兵器」というのは偶然なんだろうけど、感染したために愛する者に触れることができなくなる、というのはどうしたって現在のコロナ禍を重ねずにはいられない。

 

早くも「次のジェームズ・ボンド役は誰か」を云々してる人もいるようだけど、早過ぎるだろ。『ノー・タイム・トゥ・ダイ』でのボンドの死をさっさとなかったことにしてんじゃないよ(>_<)

 

結局、劇中でノーミは「007」のナンバーをボンドに返上していたし、今後もジェームズ・ボンドを女性が演じることはないように、007という称号もまた「ただの番号」ではなくて特別なものだということ。他の誰かが受け継ぐことはないのかもしれませんね。

 

あくまでも「終わった」のはダニエル・クレイグのジェームズ・ボンドであって、何年後かにはしれっと何事もなかったかのようにまったく違うタイプの新生ボンドが登場するかもしれませんが(Q役のベン・ウィショーは「ゲイのジェームズ・ボンドが誕生したら画期的」と語ってたけど)。

 

さて、2021年以降の007映画はどうなっていくのでしょうか。

 

その前にまず、ダニエル・クレイグさん、15年間のジェームズ・ボンド役、おつかれさまでした!

 

第94回アカデミー賞歌曲賞(ビリー・アイリッシュ「No Time To Die」)受賞。

 

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