映画の内容について触れています。『由宇子の天秤』はネタバレを避けて観た方がいい作品なので、できれば鑑賞後にお読みください。赤ひげ』の感想へ

 

 

  『由宇子の天秤』

 

 

ドキュメンタリー番組のディレクターが、ある高校教師とその教え子の女子生徒の自殺をめぐる取材を重ねるうちに思いがけない事態へと巻き込まれ、やがて自分自身を追いつめていくことになる。

 

この世界の片隅に』の片渕須直監督がプロデュースを務める春本雄二郎監督作品。

 

結構以前からタイトルとポスターは目にしていて、片渕監督がTwitterで宣伝もされていたので気になっていました。

 

上映時間が152分あるということなので若干躊躇したんですが、予告篇を観ても興味をそそられる題材だったし、思い切って鑑賞。

 

なるほど、見応えのある力作でした。

 

主演の瀧内公美さんは道警の警察官を演じていた『日本で一番悪い奴ら』を僕は観ていますが、主演映画を観るのはこれが初めて(『火口のふたり』は未鑑賞)。

 

『日本で~』の感想では「成海璃子をエロくしたような顔」とか、瀧内さんと成海さんのお二方のどちらにも失礼なことを書いちゃいましたが、謝りません。今でもそう思ってるからw

 

いえ、この『由宇子の天秤』での瀧内さんはエロさをあえて出さずに(だからこそ滲み出てるところもあるが)、とってもハンサムな姐さんですが。

 

その頼りがいのある女性像に説得力があるからこそ、その後の展開はより苦いものになる。

 

瀧内公美という俳優の演技を堪能できただけでもこの映画を観た甲斐はありましたが、彼女の父親役の光石研さんもよかったし、丘みつ子さんやその娘役の和田光沙さんなど脇の出演者たちも臨場感溢れるその演技に見入りました。

 

何よりも主人公・由宇子の父親が経営する学習塾の生徒・萌(めい)役の河合優実さんに尽きる。

 

 

 

サマーフィルムにのって』で主人公の友人の眼鏡っ娘女子高生“ビート板”を演じていた人。同じ高校生を演じててもこの役柄の違い。

 

『サマフィル』の時も思ったけど、ちょっと顔(また顔の話w)が石原さとみさんに似てるなぁ、って(^o^)

 

僕は観ていませんが、映画ファンの評価が高い『佐々木、イン、マイマイン』にも出てたんだそうで、実力派の若手なんだなぁ。

 

手持ちキャメラを多用した撮影や俳優たちの自然な演技は一見すると即興性を重視した演出のように思えるんだけど、低予算で撮影そのものにかけられる時間が限られていることもあって実際には事前に入念にリハーサルを繰り返したうえで臨んだ、計算されたものだったそうで。

 

この映画に関しては、「手持ちキャメラを多用」という特徴を「手ブレが多い」と勘違いして、観てもいないうちから「クソ映画に決まってる」と勝手に決めつけてる人がいたけれど、必ずしも「手持ちキャメラ」=「手ブレが多い」わけじゃないからね。無知な人間ほど言葉遣いが悪くて思い込みが激しいんだよな。「クソ映画」呼ばわりするならせめて観てからしろよ。

 

観たらわかりますが、この映画は「ドキュメンタリー番組のディレクター」が主人公で自分の番組を作っていく過程で彼女がかかわっていくさまざまな出来事を追っているのだけれど、この映画自体は別に“ドキュメンタリータッチ”で撮られてはいないので、キャメラが無駄に自己主張することはない。むしろ、撮影手法で観客にまやかしの“臨場感”だとか“リアリティ”を感じさせるようなことを自ら戒めていて、この映画に感じるリアリティは役者の演技によるもの

 

 

 

「演技の巧さ」への評価って人それぞれで、演劇的な、あるいはもっと言ってしまえば喜怒哀楽がハッキリしていて腹式呼吸でハキハキと聴き取りやすくてわかりやすい演技こそが優れた演技だと思う人もいれば、いかに現実の世界での人の微妙なしぐさや言葉遣いに近いかでその巧拙を判断する人もいる。

 

映画にもいろんなタイプの作品があるからすべてを十把一絡げにはできませんが、僕は「映画」に関してはどちらかと言えば後者で俳優さんの演技を評価します(エラソーに)。

 

そういう意味で、この『由宇子の天秤』の出演者たちは僕が「巧いな」と感じる演技を見せてくれていた。

 

春本監督は演技ワークショップで出演者を厳選したそうだし、もちろん俳優の演技力が作品のクオリティを左右するのは言うまでもないんですが、どういう「演技」を良しとするのか、その判断をする監督の演出力こそがもっとも重要で、たとえば同じ俳優が演じても演出次第で『由宇子の天秤』のような演技にもなれば『科捜研の女』のような演技にもなる。

 

それから、脚本の力も大きい。わざとらしいダイアローグ(台詞)が書かれていたら、いかなる名優でもそれをリアリティあるものとして表現するのは難しいでしょう。

 

『由宇子の天秤』と『科捜研の女』の違いは、作品のジャンルとか演出の違いだけじゃなくて脚本の出来の違いによるものでもある。

 

少なくとも僕が映画館のスクリーンで観たいのは『由宇子の天秤』のような俳優たちの演技です。

 

ただし、出演者の中で僕が個人的に唯一気になったのが萌の父親役の梅田誠弘さん。

 

 

 

春本監督の前作『かぞくへ』(これも僕は未見ですが)にも出演していて監督からの信頼が厚い人らしいんですが、僕はこの『由宇子の天秤』での彼の演技にわりと違和感があって。

 

梅田さんの演技を拝見するのはこれが初めてなので、あれが演技としてやっているのかそれとも素での“癖”なのかわからないんですが、台詞廻しがちょっと舌っ足らずで、他の俳優さんたちの中で彼だけ妙に素人っぽい感じがしたんですよね。どっかから普通の人を連れてきたみたいな。

 

無論、素人にはあんな演技はできないでしょうが、瀧内公美さんや河合優実さんと三人でいる時も彼の芝居だけどこか浮いていた。

 

それこそ演技のド素人の僕なんかが偉そうに言えたことじゃないんだけど、特にクライマックスで彼は主人公の由宇子と絡む重要な役柄なんだから、その演技に違和感があるというのは鑑賞のノイズになってしまって、肝腎のそのクライマックスシーンでちょっとヒイちゃったんですよね。

 

萌のシングルファーザーの哲也は美大を卒業したものの(うろ覚えなので間違ってたらゴメンナサイ。美大は萌が目指していたんだったかな)就職に失敗してティッシュ配りのバイトをしている。それだけでは生活費を工面できず、公共料金や健康保険料も払えなくて、娘の萌も学校でバイトが禁じられているために学習塾の月謝を払えずにいた。

 

哲也は学習塾で具合が悪くなった萌を送ってきた由宇子に「健康保険料払ってないんですけど、どうしたらいいッスかね…」と尋ねたり、父親というよりも萌の年の離れた兄のようで、萌からも「お前」と呼ばれたりしてて、そういう親っぽくない父親の頼りなさげな風情はよく出ていたと思うんですが。

 

由宇子との間に交流が生まれて萌が勉強をやる気になっているのを父親なりに気を遣って、ラジオのヴォリュームを下げたり晩ご飯を作って部屋まで持っていったりする様子が微笑ましいし、父子家庭で娘とどう接すればいいのかわからずにいた未熟な親である哲也の生活が萌と同様に変化していく姿はこの重い内容の映画の中でかすかにホッとさせられる部分でもある。

 

だからこそ、終盤の展開は一層つらいものになるんですが。

 

確かに顔や名前がよく知られている役者さんよりも「どっかから連れてきたような」素人っぽい人の方が(プロの俳優さんに対してほんとに失礼な言い草で申し訳ないのですが)現実に存在する同じ境遇の人たちの雰囲気をよりリアリティを持って表現できるのかもしれないし、監督自身が強い思い入れのある俳優さんとして配役しているからには確信があったのでしょう。

 

でも、あの長廻しによるクライマックスは、萌の妊娠とその相手の正体、由宇子がやっていたことを教えられた哲也が彼女の首を絞めるタイミングがちょっと早過ぎだったのではないか。

 

 

 

「萌ちゃんを妊娠させたのは私の父です。私はそれを隠そうとしました」と告げられて、ほとんど間を置かずに首絞めてましたが、ティッシュ配りの場面で哲也がキレやすい性格であることは描かれてはいるんだけど、彼はそれまで由宇子のことを信用しきっていたのだし、いきなり真相を知らされてすべてを理解して由宇子に暴力を振るうまでがあまりに性急過ぎる気がした。

 

あそこは、たとえば哲也が「え…どういうことですか。わかんない。…えっ?」とかしばらく混乱していて、由宇子がもう一度同じことを言うと哲也は黙り込んで動かなくなる。由宇子がさらに何か言いかけて近づこうとしたら突然首を…といったような流れにするとかね。

 

それぐらいジリジリとした間を取ってこそ、あの長廻しは効いたと思うんです。これは俳優さんの演技力の問題じゃなくて演出の方の話だけど。

 

首を絞められてからの由宇子の行動については、なんとなく予想がついたし、これまで作られてきたさまざまなモキュメンタリー(疑似ドキュメンタリー)作品の中でもああいう演出はあったからラストに衝撃を受けることはなかったけれど、でもあそこに行き着くまでの過程はほんとに胃がキリキリ痛むような展開の連続で、152分という長尺もけっしてダレることはなかった。

 

ポスターのキャッチコピーは「正しさとは何なのか?」だが、しかし「正しさ」などというものは容易には判別できないし、その立場によって如何様にも変化しうる。
 

むしろ、これは「今、最優先すべきことは何か?」ということについて描いていた映画のように思った。もちろん、問いかけはあってもここに明快な答えはない。
 

由宇子はしばしば「よばれる」。主に西日本でよく使われる「よばれる」という表現をなぜあえて由宇子が使っているのか説明はないが(春本監督は兵庫県出身だからおなじみの言い回しなのかも)、萌が学習塾で食べているスティックパン、自殺した女子高生の父親が営むパン屋のアンパン、自分自身が萌のために作ったシチュー、自殺した高校教師の姉が作った料理。それらをシェアすることで打ち解けて相手の懐に入っていく。それはおそらく彼女が意識的にやっている方法である。
 

意識的にではあっても、「よばれる」ことで由宇子は相手に共感の念を伝える。それはけっして偽りの共感ではなかっただろう。だから彼女は受け入れられる。
 

取材相手にも萌や学習塾の他の女子生徒たちからも信頼され、子どもには懐かれる、そして職場でも持ち前の気の強さと報道関係者としての責任感、ドキュメンタリー監督としての腕の確かさで上司や同僚たちからも一目置かれるその頼りがいのある彼女は、だが父親の犯した罪を隠蔽して「嘘」をつくことですべてを失う。
 

「先生もかよ」と吐き捨てて車を飛び出した萌(キャプテン・アメリカばりの俊足であっという間に姿が見えなくなるのがちょっと可笑しかったんだが)を心底失望させて絶望にまで追い込んだ由宇子は、彼女の父親が萌にしでかした罪にさらに追い討ちをかけたということでは、首を絞められるぐらいでは済まないほど罪深い。
 

苦しんでいる人を信用させて、それを裏切る行為がいかに許されざることなのか。観客は映画の中の「由宇子」という登場人物と“共犯関係”を結ぶことで擬似的に罪の片棒を担ぐことになる。

 

そして、彼女が何よりも優先して「正しさ」を追及しているつもりだったドキュメント番組は、その根底から覆される。ある意味とてもわかりやすい教訓的な因果応報の物語でもある。痛めつけられる者はとことん痛めつけられ辱められて、欲望に負けた者は人を傷つけ命を奪い、保身のために「嘘」をつく者は事態をさらに悪化させる。
 

駐車場に倒れ込んだままだった由宇子がやがてスマホの録画をオフにする姿からは、これまでの膨大な努力が無に帰した、という脱力感とともに、どこか全部吹っ飛んで消えてくれた安堵感さえ漂う。

 

「嘘に嘘を重ねた結果」ということでは、この国の政治の世界に蔓延している病理のメタファーと捉えられなくもない。
 

「正しさ」を読み間違えて、心の底から相手に共感しようとすることをやめた時、由宇子はただ小器用なだけの「嘘つき」に堕してしまった。積み上げるのには大変な努力が必要だが、失う時は一瞬。
 

一体、本当の“加害者”は誰なのか。
 

誰だって加害者になりうる。被害者になる以上に。

 

…観たあとにいろんな考えが頭を駆け巡り、誰かと意見を交換したくなるような作品でした。

 

重くつらい内容の映画だけど、この先どうなっていくんだろう、という興味でグイグイ見せていくので面白い。

 

そして、こういう題材を「面白い」と楽しめてしまうことにある種の危うさも感じずにはいられない。

 

ドキュメンタリー番組が視聴者に情報やものを考え判断し行動するきっかけを与えるということはあるし、だから劇中で由宇子がなんとしてでも番組を成立させ放送に漕ぎつけようとするその使命感には脱帽するが、しかし、観客はそれがこんなに脆くてたやすく瓦解するものだということを思い知らされるわけで、「報道」が果たす役割とはなんなのか、それは本当に信用に足るものなのか、その判断はどうやってすればよいのか、あれこれと考えさせられる。

 

優れた映画の数々がそうであるように、これもまた答えを与える映画ではなくて、問いかける映画でした。

 

 

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旧作

  『赤ひげ』

 

 

江戸時代の小石川養生所を舞台に、そこの所長で貧しい病人や怪我人たちの治療を続ける“赤ひげ”こと新出去定のもとで働くことになった長崎帰りの青年医師・保本登がさまざまな人たちと出会って人の「死」と向き合い、男女の情に触れて変わっていく。

 

「午前十時の映画祭11」で鑑賞。

 

「午前十時~」と銘打ちながら、ここのところ作品によっては午前9時台や8:30上映開始なんてこともあって、てっきりコロナ禍によって夜が早まったための措置だと思っていたら、この映画は僕が住んでるところでは10:40からの開始でした。いつもよりゆっくりの開映。

 

黒澤明監督の『赤ひげ』(1965) の上映時間は185分もあるので、てっきりかなり早めの開始だと思ってたんだけど。なんでだ^_^; いや、これぐらい余裕を持って始めてくれると朝早くから出ていかなくて済むからありがたいんですが。

 

これまでにBSで放映されたのをチラッと観たりはしているんですが、何しろ3時間以上ある作品なのと、時代劇ではあっても今回これと続けて上映されている『隠し砦の三悪人』のような冒険活劇ではないのであまり集中して観ていなくて(山本周五郎の原作短篇のいくつかをくっつけて長篇化した物語だからというのもある)、内容はほぼ覚えていませんでした。

 

劇場での上映はいい機会だし、映画館でならちゃんと集中して観られるだろうと思って。

 

日本映画としてだけじゃなくて、『生きる』などと並んで世界的にも評価の高い作品だし、実際退屈することも眠くなることもありませんでしたが、ただ、内容に関しては腑に落ちないところがいくつもあって、だからこれまで劇場で観てきた黒澤作品(『七人の侍』『用心棒』『椿三十郎』)のような満足感や感動は得られませんでした。あらためて劇場で観られてよかったと思いますけどね。

 

 

国や時代を越えて愛される“名画”に私ごときが物申すのは自分の無知ぶりや審美眼のなさ、人生経験の浅さなどを天下に晒すことになるので非常に怖いんですが、その良さがわからないのにわかったフリをしてもしかたないので、正直に疑問や不満を述べようと思います。

 

↓とっても頷いたレヴュー

 

 

「貧困と無知」をなんとかできれば病気の大半は起こらずに済む、という赤ひげの言葉には、コロナ禍の現在頷きたくなるところもあるのだけれど、それでも大切なのは正しい医学の知識でしょう。精神論で病気は治らないことを、僕たちはもう嫌というほど思い知らされている。

 

赤ひげはちゃんと医学の知識に基づいて、いざという時にしかるべき方法で病気を治療する技と、必要ならば「お上」にも意見する立派な人格者、医療従事者として描かれてはいるんだけど、映画の中で強調されているのは「正しい医学の知識」についてというよりは、人情とか前向きな精神とか、そういった“心構え”みたいなことなんだよね。「甘え」を許さない、みたいな。

 

この映画を観ていて耳を疑ったのは、香川京子演じる、おそらくはかなり金持ちの商家の娘(役名は“狂女”)が幼い頃から店の手代(てだい。番頭と丁稚の中間の位の使用人)に「誰かに言ったら殺す」と脅されてレイプされ続けてきたことを訴えているにもかかわらず、それを赤ひげが「そんな目に遭うのは珍しくない」と切って捨てて、彼女を「先天的色情狂」と診断するところ。

 

赤ひげに言わせれば、他の娘たちは同じ目に遭っても彼女のように人を殺したりしないのだから、ということなんだろうけど、そんな見立てがあるかよ。

 

この“狂女”はかんざしで加山雄三演じる保本を刺し殺そうとして赤ひげに止められるが、仮に彼女が本当に「色情狂」であったとしても、あるいは彼女が訴えている子どもの頃からの性的虐待がたとえ虚偽であったとしても、やはりそこに彼女が負ったトラウマについてなにがしかの見解が必要なんじゃないか?「生まれながらのきちがい」でおしまい、ってさぁ。

 

この映画の劇中の台詞には「きちがい」だの「かたわ」だのと言った単語が当たり前のように出てくるし、映画が作られた1965年 (昭和40年) という時代を考えるとあらゆることが現在に比べて「雑」に扱われているのはしかたないのかもしれないけど、だからこそ今観ると抵抗を覚えずにはいられない。

 

商家の娘が手代に犯されるのは珍しくなくて、そんなことでいちいち狂ってたらやってられない、そんなものに真面目に付き合ってられない、というあまりに乱暴な社会。

 

また、幼い頃から虐待されて人を信じられなくなっているおとよ(二木てるみ)のことを赤ひげは「いじけている」と表現する。ここでも問題はおとよのような子どもにあんな生活を強いる社会の方にあるにもかかわらず、心に傷を負った少女の立ち直り方、彼女の心の持ち様の方を云々していて、差し出された茶碗を跳ね除けて割ったおとよのことを保本に「可哀想になぁ…」と泣かせて同情させることで少女の閉ざされた心が開かれるんだけど、全体的に「上から目線」がすごく気に障る。

 

 

 

それは養生所からおかゆを盗んだ少年・長次(頭師佳孝)のエピソードもそう。

 

炊事を担当するおばさんたちが子ネズミ!と長次(チョウ坊)を追い回すんだけど、食い詰めた彼の家族が毒を飲んで一家心中すると、途端に同情して迷信に従って井戸の中にむかってチョウ坊の名前を呼び続ける。彼女たちの夜通しの呼びかけがチョウ坊の命を救ったのだ、という「イイ話」として描かれるんだけど、いや、だったら最初から飢えた子どもやその家族におかゆを恵んでやれよ、と思った。なんかこういう「偽善臭」がプンプンしている話ばかりなんだよな。

 

人の命は迷信で助かるものではないし、「貧困」はその家族だけでなく社会全体の問題だ。間違えてはいけない。

 

養生所で働くおばさんたちは「イイ人たち」で、おとよを連れ戻しにくる杉村春子演じる置屋のバアさんは悪い奴、ってことでみんなで大根で袋叩きにする。このわかりやす過ぎる勧善懲悪の世界。

 

他方ではやたらと男女の色恋の話が出てきて、こちらは劇中の登場人物たちも妙に関心を示してこぞって応援する。

 

車大工の佐八(山崎努)とおなか(桑野みゆき)のエピソードでは、親が決めた相手がいながら佐八にしつこく言い寄られたおなかは彼と夫婦になるが、しかしあまりに幸せ過ぎて怖れをなし、地震をきっかけに実家に戻って許婚だった男との間に子どもを作る。やがて佐八と再会したおなかは罪の意識から自害、佐八はおなかへの罪滅ぼしに「むじな長屋」のみんなのために病気にもかかわらず無理をして働き続ける──この一連の物語を「美談」として描く。最後は息を引き取った佐八が皆に涙ながらに見送られる。

 

この作品の中には“女”の不可解な行動がしばしば登場する。実質的な主人公である保本も、許婚に裏切られて女性不信に陥っている。狂女のエピソードにしてもおなかのエピソードにしても、それからやはりかつて妻が他の男に走った藤原釜足演じる老父とその娘・おくに(根岸明美)のエピソードでも、女たちは男を殺したり裏切ったりするがその理由は不明(本人が説明してもよくわからない)で、でもそれも受け入れて許すことが男の本懐、みたいに描かれているんだよね。

 

…なんだ、それ?って思う。

 

何一つ共感を覚えることも「あぁ、そうなのかぁ」と感得することもなかった。

 

保本の許婚だったちぐさの妹・まさえ(内藤洋子)がくれた着物をおとよが捨ててしまった件についても、保本に恋をしたおとよがまさえに嫉妬したから、と説明される。“女”を「男にもたれかかる厄介で弱い者」とする視点が全篇を通して貫かれている。それは男の僕が観ていてもずいぶんと偏見に満ちた不快なモノの見方だ。「助けてやらなければならない存在」という認識の中に漂う傲慢さ。

 

おばさんたちのおとよに対する「恩知らず」の合唱もそうだけど、「~してやってる」という態度がほんとに醜悪なレヴェル。

 

その一方で、保本の師である赤ひげは、みんなから「立派だ立派だ」と褒め称えられる。

 

僕は、この映画を観ていて、なんとなく『椿三十郎』に似てるなぁ、と思ったんですよね。

 

『椿三十郎』も山本周五郎の小説(「日日平安」)が原作だし、あちらにも加山雄三が出ていて三船敏郎演じる主人公・三十郎と師弟のような関係を結ぶ、という共通点があるからだけど(『椿三十郎』で呑気なお嬢様を演じていた団令子が『赤ひげ』では牢に軟禁されているお嬢様=“狂女”の世話をしている女中役で、作品ごとの演じ分けがお見事)、あの映画の中で三十郎は劇中でしきりに「あの人は素晴らしい人だ」と褒められる。その部分に妙な違和感があった。観客のこちらは三十郎が「立派な侍」かどうかはどーでもよくて、風来坊の用心棒がならず者たちをぶった斬りまくるのを観たいだけなんだから。

 

三十郎と加山演じる井坂伊織の関係を発展させたのが『赤ひげ』で、この映画では大々的に「ヒューマニズム」が謳われているんだけど、『七人の侍』で百姓たちのために戦う侍たちには燃えた僕も、この『赤ひげ』の人情だとか男女の愛には心を動かされることはなかった。

 

黒澤監督自身がいいとこのお坊ちゃんで(だから戦争中にも徴兵されてない)、『椿三十郎』や『赤ひげ』の加山雄三(この人もお坊ちゃんだが)は黒澤明その人のことなんだよな。

 

 

 

いいとこのボンボンが、世の中の不正義を正そうとしたり貧しさにあえいでいる人々を見て彼らに手を差し伸べてあげようとする、そういうお話。だから上から目線になる。

 

おとよもチョウ坊も「可哀想」。だから助けてあげる。

 

それはそれで結構な心がけだと思うけど、「貧困と無知」の解決ってそういうもんじゃないでしょう。

 

『由宇子の天秤』で、同じ学習塾の男子生徒たちに「身体を売ってる」と噂されて、食べてるスティックパンを「湿気ってる」と笑われていた女子高生の「貧困」を観たあとだと、『赤ひげ』の「ヒューマニズム」には嘘臭さしか感じられない。

 

高邁で前向きな精神は大切だと思う。世の中を明るく希望に満ちたものだと信じることも。

 

だけど、現実の世界で貧しい者は声も上げられず、打ち捨てられて忘れられている。本人の心構えの問題じゃない。

 

「~してもらってるんだから感謝しろ」という「上」からの押しつけ、恩着せがましさこそ諌めなければ。江戸時代の価値観を現代の作品の中でそのまま描いたって、それは今を生きる僕たちの話にはなり得ない。

 

赤ひげのような立派な医者が人々を救うんじゃなくて(立派なお医者さんがいてくれるに越したことはないですが)、僕たちが住むこの社会全体が弱者に優しくなって、苦しんでいる人たちをすくい上げるシステムを作らなければ、貧しさの中で心身を病み命を落としていく者はこれからも減らないだろう。

 

時代を越えていく作品が数多くある中で、そこで描かれる価値観、倫理観や道徳が現在ではもはや通用しないものもある。この映画は後者だと思う。

 

MIFUNE: THE LAST SAMURAI』の時とは一転して酷評になってしまいましたが、何年後か、何十年後かに再び観たら、僕のこの評価も変わるんだろうか。

 

『赤ひげ』は往年の名優たちの演技や計算されたキャメラワーク、広大な敷地に作られた手の込んだオープンセット(地震で崩れる屋根瓦の建物群は圧巻)で1年半かけて撮影された贅沢な時間を体験できる。だから、一度は観てみる価値はあるでしょう。

 

そのうえで、ここで描かれているものについて思いを巡らせてみるのもよいのではないでしょうか。

 

 

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