マーティン・マクドナー監督、フランシス・マクドーマンド、ウディ・ハレルソン、サム・ロックウェル、ピーター・ディンクレイジ、ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ、アビー・コーニッシュ、ジョン・ホークス、ルーカス・ヘッジズ、ダレル・ブリット=ギブソン、アマンダ・ウォーレン、サマラ・ウィーヴィング、キャスリン・ニュートン、ブレンダン・セクストン3世、ジェリコ・イヴァネク、クラーク・ピーターズ出演の『スリー・ビルボード』。2017年作品。

 

第90回アカデミー賞主演女優賞(フランシス・マクドーマンド)、助演男優賞(サム・ロックウェル)受賞。

 

ミズーリ州エビング。7ヵ月前に娘のアンジェラ(キャスリン・ニュートン)を何者かによってレイプされ無残に殺されたミルドレッド・ヘイズ(フランシス・マクドーマンド)は、いっこうに犯人が捕まらないことに業を煮やし、町外れのさびれた道路沿いにある3つの広告看板を使って警察と署長のウィロビー(ウディ・ハレルソン)を非難する。そのことをきっかけにして小さな町では憎しみや突発的な暴力の連鎖が続くことに。

 

以前、映画評論家の町山智浩さんの解説を聴いて、アカデミー賞にも絡んでくるようなので興味を持って公開初日に鑑賞。

 

町山さんの解説の内容はうろ覚えだったのと敢えて聴き返さなかったので、内容についてはほとんど予備知識のないまま観ました。

 

フランシス・マクドーマンド主演ということで、なんとなくコーエン兄弟の映画みたいなのを想像してましたが。癖のある作品なんだろうな、と。

 

町山さんは具体的なネタバレをなるべく避けて話されていたので実際に観てみて初めてその面白さはわかりますが、クリント・イーストウッドの西部劇を例に挙げられていたのは非常にわかりやすかった。

 

ほんとにその通りだったから。

 

フランシス・マクドーマンドはまるで女版イーストウッドのようだし、アメリカの南部の人間たちの粗野な感じは西部劇そのもの。

 

時代は現代だが、現代の常識がまるで通用しないような世界が舞台になっている。

 

また、レイプ殺人を巡るシリアスな話なんだけど、時折妙なユーモアが挟まれる。

 

マンチェスター・バイ・ザ・シー』で主人公の甥を演じていたルーカス・ヘッジズが今回はマクドーマンド演じる主人公ミルドレッドの息子ロビー役で出演しているけど、『マンチェスター~』もまた内容の深刻さに対してやはり不思議なタイミングでユーモラスな場面があったりして、両作品はどこか似ている。

 

 

 

僕はこの映画、観る前はてっきり実話を基にしたノンフィクションかと思っていたんだけど、監督自身が脚本を書いた完全なるフィクションで、原題にも入っているエビング(Ebbing)というのも架空の町の名前なのだそうで。

 

アイルランド系イギリス人である監督がアメリカを旅行した時に目にした広告看板から発想したんだとか。

 

 

 

いや、フィクションかノンフィクションかが重要ではないんだけど、実話じゃないのなら、ではこれは何について描いた物語だろう、と考えてしまうわけですよ。

 

そして映画を観ていくうちに、これは「憎しみ」や「怒り」について描いた映画なんだなぁ、ってわかってくる。

 

今ちょうど1960年代に起こったデトロイト暴動を描いたキャスリン・ビグロー監督の『デトロイト』が公開中ですが(僕は映画は未見だけど、先日NHKでやっていたデトロイト暴動についてのドキュメント番組を観ました)、ああいうノンフィクションはハッキリと史実からの「教訓」として観ることができるでしょう。

 

この『スリー・ビルボード』は実話じゃないけれど、人間の中にある多面性や暴力というものについて考えさせられる。

 

南部だから乱暴な口の利き方は当たり前で、白人たちが人種差別的なのも普通だったりする。

 

じゃあ、彼らは根っからの「悪人」かといえば、そうとは限らないのが複雑なところ。

 

ミルドレッドは黒人女性のデニス(アマンダ・ウォーレン)と一緒に店で働いているし、広告看板を貼る仕事をしている青年ジェローム(ダレル・ブリット=ギブソン)もアフリカ系だが、ミルドレッドが彼らに差別的な態度を取ることはない。

 

ただし、ミルドレッドは相手が誰でも歯に衣着せぬ物言いをするし、気に入らない相手には直接危害を加えることもしばしば。別れた元夫チャーリー(ジョン・ホークス)も同じようにカッとなると暴れて彼女に暴力を振るう。

 

ミルドレッドの暴力性は観てるうちにヒくぐらいどんどんエスカレートしていくのでけっして褒められたものではないんだけど(男女平等に若者たちの股間をしたたかに蹴り上げるシーンもある)、でも相手が警察官だろうと不審な男だろうと一切物怖じせず堂々と対峙して時に不敵な笑みさえ浮かべる彼女には、頼もしさすら感じてしまう。

 

 

 

 

といっても、彼女は終盤にもはや笑ってもいられない、かなり衝撃的な破壊・傷害行為にまで及ぶんですが。

 

ミルドレッドのキャラクターは演じるフランシス・マクドーマンドを念頭に置いて書かれたんだそうだけど、ほんとにもうこの役は彼女以外いないほどのハマりようでしたね。

 

この人は年齢を重ねてさらに凄みが増してきてる気がする。

 

彼女がいつも着ている青色の作業衣(つなぎ)が次第に戦闘服みたいに見えてくるw

 

それではこれ以降は本作品と『猿の惑星:聖戦記 (グレート・ウォー)』のネタバレがありますので、まだ映画をご覧になっていないかたはご注意ください。

 

 

この映画は今年のアカデミー賞の作品賞、主演女優賞(フランシス・マクドーマンド)、助演男優賞(ウディ・ハレルソン、サム・ロックウェル)、脚本賞、作曲賞、編集賞にノミネートされてますが、それも納得の1本でした。

 

話がどう転がっていくのか予想できない展開と出演者たちの力演で見応え充分。

 

町山さんが解説されていたように3枚の広告看板と3人の主要登場人物(ミルドレッド、ウィロビー、ディクソン)が重なり、三者の物語が描かれていくうちにそれぞれの別の面が見えてくる。

 

そして彼らには必ず“暴力”がかかわっている。

 

娘を殺されたミルドレッドは彼女自身“暴力”という手段で怒りを発散するし、彼女を快く思っていない警察官のディクソン(サム・ロックウェル)はキレやすくやはり暴力的、また署長のウィロビーは人に暴力は振るわないが、映画の後半に彼の家族と多くの人々に癒えることのない傷を負わせることになる。

 

ここでは「怒り」や「暴力」が人にもたらすものについて語られている。

 

ミルドレッドとともにこの映画で「暴力」というものを体現するのが、サム・ロックウェル演じるディクソン。

 

 

お母ちゃん最高

 

母親と二人暮らしでなぜか昔から広告会社のレッド(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)を毛嫌いしていて、やたらと署長のウィロビーに対して思い入れが強い。

 

この映画はほんと、フランシス・マクドーマンドとサム・ロックウェルがたっぷりと堪能できる。

 

ディクソンは恋人も友だちらしい連れもいなくて、バーでもいつも独りで飲んでいる。そしてミルドレッドやレッドにカラんでは軽くあしらわれている。

 

小柄だし別に誰からも怖れられておらず、彼が一方的に慕うウィロビー署長からもさほど信頼されていない。

 

この男の中の鬱屈がミルドレッドへの嫌がらせやレッドへの常軌を逸した暴力となって噴出する。

 

では彼は極悪人なのかといったら、家でママと一緒にTV観たり、この母親にしてこの息子、といったいかにもなホワイト・トラッシュな会話をしているごく普通の男に過ぎない。

 

老いた母親が「黒人の警察署長なんて追い出せ」とか、いちいち過激な発言をするのでヒヤヒヤしながらも可笑しいんだけど、ああいうファンキーなおばさんって僕たちのまわりにもいそうだよね。

 

それにしても、ディクソンはオフィスに乱入して暴れて人を2階の窓から投げ落として大怪我させときながら、逮捕もされないのはなんでだ^_^; 目撃者だっていたのに。警察をクビになるだけで済むなんておかしいでしょ。あちらでは警官ってそこまで特別扱いされるんですかね。

 

ただ、ディクソンはその後、意図的ではなかったとはいえ結果的に自分が行なった暴力の報いを受けることになるんですが。

 

自分の3枚の広告看板を燃やしたのは警察だと早合点したミルドレッドは、警察署に火炎瓶を投げ入れて火災を起こす。たまたまそこにいたディクソンは炎に焼かれて大火傷を負う。

 

 

 

ミルドレッドの娘アンジェラはレイプされたあと遺体は焼かれていたから、ディクソンのあの火傷もそれに重ねられているんだろう。差別主義者であるディクソンが犠牲者と同様に焼かれる、ということ。

 

もっとも、ディクソン自身はアンジェラの死とは直接なんのかかわりもないのだが。

 

ところが、全身を包帯に巻かれてディクソンが入れられた病室には彼がボコボコにしたレッドが入院していた。この可笑しさ。

 

ディクソンに半殺しにされるレッドを演じているケイレブ・ランドリー・ジョーンズは去年観た『バリー・シール/アメリカをはめた男』でトム・クルーズの義弟を演じていたけど、いつも軽いノリでしばしば酷い目に遭う若者を演じさせたら右に出る者はないですねw

 

 

 

腹を立てながらも、無抵抗な相手にやり返すのではなくオレンジジュースを入れてやる。彼の優しさこそが真に求められていることだ。

 

しばしば暴力が描かれるにもかかわらずこの映画が観ていて意外とキツくないのは、そこに必ずと言っていいほどユーモアが含まれているから。

 

もちろん、アンジェラの惨殺や署長の自死にユーモアが入り込む余地はないけれど、ミルドレッドやディクソンに顕著なようにエビングの町では暴力が日常の中に溶け込んでいるように思えるので、ただ悲惨な描写だけではないんですね。ちょっと強めにドツいた、みたいな感覚w

 

警官のくせにすぐ暴力を振るうディクソンや、これまたちょっと普通ではない暴力おばさんのミルドレッドも、彼らが「西部劇」の登場人物だと思えばしっくりくる。いかにもああいうキャラクターいそうだもんね。

 

問題は、この映画の舞台は西部開拓時代ではなくてスマホもある現代だということ。

 

町山さんはこの映画を僕が去年観て酷評した『全員死刑』と並べてその暴力とユーモアについて語られていたけれど、田舎の人間の描写など細かいディテールがところどころ重なる部分はありながらも『全員死刑』がかなりデフォルメされた演技スタイルで不謹慎なブラックコメディとして演出されていたのに比べると、この『スリー・ビルボード』の出演者の演技はもっとリアリズムに基づいていてこれ見よがしなギャグもない。

 

僕はこの映画の方が断然好みだし、悪いけど両者は違うタイプの映画だと思う。何よりも脚本の精度が段違い。

 

共通点は、どちらにも身体が小さい人が出てくることぐらい。

 

ミルドレッドに気があって彼女のために警察署の火災の件で新しい警察署長(クラーク・ピーターズ)に嘘を言うジェームズ役のピーター・ディンクレイジは最近映画でよく顔を見るけど、ちょっとヒネクレた、でも悪い人じゃない役(『X-MEN:フューチャー&パスト』では悪役だったが)を演じることが多い。

 

 

 

彼とマクドーマンドのやりとりには笑える会話が結構ある。

 

でもそれも障害者に対する差別ネタだったりするんで一筋縄ではいかないんだが^_^;

 

 

ところで、ミルドレッドの元夫チャーリーを演じるジョン・ホークスは、ちょうどヴァンサン・カッセルのように鼻筋に特徴があって険のある表情をするといかにも悪そうな感じの俳優さんだけど、僕は以前この人が主演した『セッションズ』という映画を観ていて、そこでは今回とはまったく正反対のキャラである天真爛漫なポリオ患者の青年を演じていたので、そのギャップが凄かったです。

 

 

 

 

『セッションズ』でジョン・ホークスは38歳の役だったからてっきり40代ぐらいの人かと思ってたんだけど、実際は現在58歳なんだそうで意外とお年を召してたのね。まぁ、フランシス・マクドーマンドの元夫役だからそれぐらいの年齢でも不思議じゃないわけだけど。

 

チャーリーの19歳の新しい恋人ペネロープ(サマラ・ウィーヴィング。ちなみに“エージェント・スミス”でお馴染みヒューゴ・ウィーヴィングの姪)が台詞の中で「馬に乗る球技」のことを「ポリオ」と言い間違えていたので、『セッションズ』観てる人はクスッとしたでしょうね。

 

かつてポリオ患者を演じていたジョン・ホークスが小人症のジェームズをからかう、というのもなかなかブラックなジョークで。

 

僕はこれまでマーティン・マクドナー監督の作品を観たことがなかったんですが、ウディ・ハレルソンやサム・ロックウェル、ジョン・ホークスたちはマクドナー監督の過去作にも出てるようで、すでに「マクドナー組」の一員なんだな。

 

 

主演のフランシス・マクドーマンドは『ファーゴ』でも似た系統の女性を演じていたけれど、まるで大竹しのぶが野生化したような顔のすっぴんのマクドーマンドが演じるミルドレッドは、人々に期待される「女性らしさ」とか「母親らしさ」とか「凶悪犯罪者の犠牲者の遺族らしさ」を全力で拒絶しているようでもある。

 

ミルドレッドはジェームズに対してもそっけない。彼女はジェームズのおかげで放火の容疑をかけられずに済んだにもかかわらず彼のことをなんとも思っておらず(感謝の言葉すら告げない)、誘われた食事も借りができたから義務感で付き合うに過ぎない。

 

このあたりの容赦のなさもなんとも言えない。ジェームズは憤慨して「俺を見下してる」と言い残して去る。

 

また、教会の神父に対する無礼極まりない物言いも記憶に残る。

 

 

 

町の人々に反感を持たれるようなミルドレッドの行動を諌める神父はキリスト教の国らしく町の中で発言力のある存在なのだろうけれど、彼女は教会にも神父にも不信感を隠さない。汚い言葉をわざと使って神父を侮辱する。

 

ミルドレッドの“不信心”がもとからなのか、それとも娘を失ったせいなのかはわからないが。

 

でも映画『スポットライト 世紀のスクープ』を観たあとだと、彼女の言い分には思わず頷いてしまいそうになる。

 

あなたがギャングの一員なら、自分が人を殺していなくても他の誰かがその罪を犯せば同じ組織の一員である以上、責任がある。そこで何もせず見逃すのは共犯と同じこと。

 

“ギャング”の部分を“教会”や“男性”に替えても通用する言葉だ。

 

性差別や性暴力が横行し、加害者が野放しにされたり被害者が貶められているこの国で、ミルドレッドの言葉は今僕たちの胸に激しく突き刺さる。

 

ミルドレッドはけっして「哀れでひかえめな犠牲者遺族」になろうとはしない。

 

自分の放火によってディクソンが大火傷を負った時にも、彼に一言の詫びの言葉もかけない。

 

人間的にはもともとかなり問題のある人物である。

 

このように、ミルドレッドはレイプ殺人事件の犠牲者の遺族でありながら容易な感情移入を拒むキャラクターなんだけど、それでも彼女のことを嫌いになれないのは、その頑ななまでの意志の強さと、彼女の中にある後悔と怒りがよくわかったから。

 

あの日、アンジェラと口論せず彼女が望んだように車を貸してやっていたら娘は殺されずに済んだ。

 

その取り返しのつかない事実への後悔と犯人に対する憎しみがミルドレッドの怒りを持続させ、それは日に日に強くなっていく。

 

あの3枚の広告看板も、彼女のどこにもぶつけようのない怒りから来たものだった。

 

そしてそれはいつしか町を包んでいく。

 

だが、結果的に暴力は人々に新たな憎しみや怒りを植え付けるだけで、人の心に癒やしや平穏を与えることはない。

 

ウィロビー署長がミルドレッドに宛てた手紙の中には、彼の自殺がミルドレッドが起こした広告看板の件とは無関係であることが記されていたが、しかしそのために彼の妻(アビー・コーニッシュ)と子どもたちは心に傷を負い、ミルドレッドのことを恨むだろうし、ウィロビーの死でキレたディクソンはレッドに暴行を働いた。

 

そして、ミルドレッドが警察の仕業だと思い込んだ広告看板への放火の犯人は、実は彼女の元夫チャーリーがいきおいでしでかしたことだった。

 

思い込みや怒りに任せたその場での突発的な暴力が、自分以外の、時に無関係な人たちに多大な危害をもたらす。

 

それは滑稽だが笑うに笑えない喜劇でもある。

 

ウィロビーの自殺も、末期のすい臓癌だったから、という同情する事情があって、もしも自分が彼の立場だったらどのような行動を取るかなんとも言えないのだけれど、それでもウィロビーが妻に残した手紙の内容にはやはり納得できないものがある。

 

 

 

 

自分は最後に妻や子どもたちとの楽しい思い出とともに人生を終わらせたい。家族に負担をかけながら死ぬのはイヤだ。

 

ウィロビーを演じるウディ・ハレルソンは、『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』でも病いに罹った幼い息子を殺し、最後は同じ病気になって自ら命を絶つ軍人を演じていたけれど、あの映画と同様にその身勝手な理屈には自分以外の他者への思いやりが決定的に欠けている。

 

自殺されたら残された家族は夫や父を救えなかったことを生涯悔い続けることになる。ウィロビーもまた、ミルドレッドやディクソンのように暴力的な方法で愛すべき家族や仲間たち、町の人々に消えない苦痛を残したのだ。

 

ここにも人間の弱さや愚かさを見てしまってツラくなる。

 

 

この映画は悪人が退治されてスッキリ、という結末にはならない。アンジェラをレイプして殺した犯人は最後まで見つからない。

 

ミルドレッドが働く店を訪れて挑発的な言葉を吐いて商品を壊して嫌がらせをしていった男(ブレンダン・セクストン3世)も、真犯人ではなかった。

 

この男はアンジェラの事件当時、軍隊で海外にいたことがのちの調査でわかる。

 

酒場での“自慢話”からこの男が過去に女性をレイプしたらしいことを知ったディクソンは、わざと彼を怒らせて殴られながらその皮膚のDNAを入手するが、殺害現場に残されていたものと一致せず、アリバイもあるので別人だったことが判明する。

 

怒りのやり場のないディクソンとミルドレッドは、レイプ犯なんだから許してはならない、というほぼ八つ当たりのような理由でその男に復讐するために銃を持って車に乗る。

 

もはやアンジェラのレイプ殺害犯かどうかも重要ではない。

 

ミルドレッドが神父に語った言葉が間違った意味で正当化されている。

 

あの男が本当にレイプを犯した確実な証拠はない。仲間との酒のうえでの与太話だったのかもしれない(隣で聴いていたディクソンに対するうろたえ方から見て、そうは思えないが)。

 

それはミルドレッドの車に飲み物の入ったカップをぶつけたのが誰なのかということも同じで、映画ではぶつけたのが誰なのかは描かれていない。

 

ミルドレッドが順番に股間を蹴り上げていった学生たちは全員無実かもしれないし(彼らが言葉を発する前にミルドレッドは暴力を振るっている)、誰も犯人を見てもいないのかもしれない。

 

ミルドレッドの理屈で言えば、人の車に飲み物をぶつけた人間とそれを見て知らんふりをする人間は共犯であり、レイプ犯は犠牲者が誰だろうと同じく復讐されるべき、ということ。

 

でもその考え方で行動した結果、事態はとんでもない方向へ進んでしまった。

 

本当に彼女は正しかったのか?

 

レイプ犯を殺しにいくために車を運転するミルドレッドも、銃を持って同乗したディクソンも、心の中ではこの殺人行にはあまり乗り気ではない。

 

ミルドレッドは「道々どうするか決めればいい」と呟く。頷くディクソン。

 

ここで暗転して映画は終わる。

 

 

実に寓話的な映画でしたね。

 

あの3枚の看板広告は私たちへの“問いかけ”である。

 

映画をなんでもかんでも日常の身近な事柄や世相と結びつける必要はないけれど、でもこの作品は明らかに教訓的なメッセージを発している。

 

ミルドレッドたちが復讐を諦めれば、新たな悲しみと怒りの連鎖を断ち切ることができる。

 

おおもとの問題はまったく解決していないわけでなんともやりきれないが、この映画を観終わる頃には「怒り」による暴走の恐ろしさと不毛さを僕たちは充分過ぎるほど目撃してしまっている。

 

二人が思い直して道を引き返せば、まだ救いは残っている。

 

そうであることを心から願いたい。

 

 

関連記事

『ノマドランド』

『月に囚われた男』

『ジョジョ・ラビット』

『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』

『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』

『シラノ』

『レディ・バード』

『判決、ふたつの希望』

 

 

 

 

 

にほんブログ村 映画ブログへ にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ