トム・マッカーシー監督、マーク・ラファロマイケル・キートンレイチェル・マクアダムスリーヴ・シュレイバージョン・スラッテリーブライアン・ダーシー・ジェームズビリー・クラダップニール・ハフリチャード・ジェンキンス(声のみ)、スタンリー・トゥッチ出演の『スポットライト 世紀のスクープ』。2015年作品。

第88回アカデミー賞作品賞、脚本賞(ジョシュ・シンガー、トム・マッカーシー)受賞。

音楽はハワード・ショア



2001年、「ボストン・グローブ」紙のウォルター・“ロビー”・ロビンソン(マイケル・キートン)やマイク・レゼンデス(マーク・ラファロ)ら記者チーム“スポットライト”は、新しい編集局長のマーティ・バロン(リーヴ・シュレイバー)の指示でカトリック教会の神父による児童への性的虐待についての取材を始める。当初ボストンに13人いると思われた加害者の神父たちだったが、やがて調査の過程で容疑者は87人という人数へと膨れ上がる。


また重いテーマである。

正直、先日の『ルーム』に続いて観るのはしんどそうだな、とも思ったんだけど、特にアカデミー賞関連作品というのはタイミングを逃すとこのまま一生観ずに終わってしまう可能性もあるので、ともかく関心があるうちに映画館に足を運びました。

予告篇を観てわかるように、これはカトリック教会の神父たちが長年に渡って行なってきた子どもたちへの性的虐待と、それを組織ぐるみで隠してきたヴァティカンの犯罪についての事実に基づく物語だが、ではこの映画はクリスチャンではなく教会に行く習慣もない多くの日本人にとって一体なんの関係があるのだろうか。

被害に遭った子どもたちは大変気の毒だし事件そのものはもちろん許しがたいことだが、責任はヴァティカンやカトリック教会にあるのだから、そんなものとっととぶっ潰して無くしてしまえばいいのに、と極東の島国に住む信仰心のない僕などは思ってしまう。

だって、自分の子どもたちを性の餌食にするような者たちが大勢いる組織の存在を許し、ましてやそこの施設に通うなんて愚かとしか思えないから。

この映画の中に「信仰と組織は別に考えなければならない」という台詞が出てくる。

つまり、人間が作っている組織に問題があっても、信仰の源である神の教えそのものには誤りはない、という考え方だ。

個人的にはまったく同意できないんですが。組織に問題があるのなら、そこが発する「教え」自体にも問題があるのではないかと考えるのが正常だと思う。

一人ひとりの神父があまりに大勢の子どもたちに対して性的虐待を行なってきたために、元神父で30年間神父たちの性犯罪について研究してきた心理療法士のリチャード・サイプはこれを「精神病理学的現象」と表現する。

カトリック教会にはそういう土壌があるということだ。

一つの町で何十人もの性犯罪者が人々に“神の代理人”ヅラして教えを説いているような宗教はまともではない。

信者たちに禁欲を説きながら子どもたちに自分の性器をしゃぶらせるような人間の教えを信じられるか?

1960年代頃から今日までに全米で6000人以上の神父が17000人以上の子どもたちを毒牙にかけたという異常な事態。

そんな犯罪者たちを次々と生み出している組織など、魂を救う「神の家」どころかテロ集団と変わんないだろ。

この映画ではなんか世界中の人間にかかわりのある問題みたいに描かれているけど、お前らと一緒にすんなよ、と。

だから、正直なところ映画を観ながらムカムカしていた。

僕はカトリックやキリスト教、宗教全般についてその存在を全面否定する気はないですが、宗教が「権威」になるとその下で生きている人々をたやすく食い物にする。人を救うはずのものが人を苦しめて殺す。本末転倒だ。

だから個人的にはそんなものは世の中に不要だと思っている。

西洋人にとってキリスト教の教会というのは聖域であって、日常生活の汚れを落とし癒やしを与えてくれる、また家庭に問題のある人々にとっては避難場所でもあるのだろう。

しかし生きた人間を「神」の代わりとして扱うようなものの考え方にはそもそも無理を感じるし、だからこれは起こるべくして起こった事件ではないか。

汚濁と腐敗の温床としての教会。

人間が「神」の代わりなどできない。できないのにその権利を過剰に与えてしまうから壊れる。

この映画の舞台は2001年で、劇中で9.11アメリカ同時多発テロの模様も映し出されるが、何かといえばすぐに「神」の名を持ちだす者はろくなことをしない。

もちろん、日本にもアメリカの「神」に似た存在を掲げて暴走して多くの人々を犠牲にした過去があるし、現在でも家庭や学校、特別養護施設、介護施設などでの性的虐待がしばしばニュースになっているし、「性的虐待」に限らず組織的な犯罪隠蔽工作というのもけっして他人事ではないので、そのあたりを重ねながら観ることはできると思う。


優しそうな物腰でさりげなくマーティ・バロンを懐柔しようとする枢機卿


この映画を観ていて感じたのは、確かに信仰というのは「神 対 個人」の心の問題ではあるが、一方で生活に根ざしたものである以上、必ずコミュニティの中でのしがらみがあること。

その規模が時に組織だったり、町や地域だったり、国だったりする。

日本でいう「世間」という意識がアメリカにもあるのだということがわかる。

みな地元の人々の目を気にして生きている。集団内の暗黙のルールから外れればその場所で生きていくのは困難だから。

「何かおかしい」と思っても、口に出して言うことが憚られる雰囲気。今の日本にも似たものを感じる。

組織に属していると人は安心感を持つ。守ってもらえるから。

組織の方も内部の人間が問題を起こせば存続にかかわるので無視はできないが、しかし未然に防ぐのではなく、それはしばしば“もみ消し”という形で秘密裏に処理される。

今、日本で次々と発覚しているさまざまな不正行為も、同じ構造のものだ。

もう一つは「報道」というものについて考えるきっかけとして。

ヴァティカンはさまざまな妨害によって、真実が明るみに出ることを阻み続けていた。

権威や権力を持つ者が自分たちに不都合なことを圧力によって握り潰そうとする。

これまた他人事とは思えない。

そして、ちゃんと意識していないと私たちはとても重要なことに気づかないまま被害者を放置して、結果的に加害者に加担することになる。

それはすなわち、自分や身内の者が被害者の立場になった時に誰も助けてくれないことも意味する。

カトリック教会という権威を相手にすることに怖気づいて「記事にした場合、誰が責任を取るんだ?」と尋ねる上司に、マーク・ラファロ演じる熱血記者マイクは「では記事にしない責任は?」と返す。

この映画でチームのリーダーとして働くロビーは、まだ配属されたばかりの新人の頃に神父たちの性犯罪を暴く重要な証拠となった資料を見落として事件を闇に埋もれさせていた。

人々が関心を持ち追及しなければ、犯罪は温存される。犠牲者は絶えることがない。

「カトリック教会内での性犯罪」に限ればよその国の馴染みのない題材だが、ここで描かれていることをもっと広げて受け取ればいくらでも身近なテーマに引き寄せることができる。

事実を基にした物語で予告篇を観ればどんな内容なのかはだいたい予想がつくのでネタバレも何もないですが、一応ストーリーについて述べますので未見のかたはご注意ください。



マイケル・キートンにマーク・ラファロ、リーヴ・シュレイバーにビリー・クラダップといえば、元バットマンと現ハルク、「X-MEN」のセイバートゥース(『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』)にDr.マンハッタン(『ウォッチメン』)とアメコミヒーロー映画の出演者たちで(部長のベン・ブラッドリー・Jr.役のジョン・スラッテリーは『アイアンマン2』と『アントマン』でアイアンマンの父親を演じている)、そうそうたるメンバーがカトリック教会を相手に闘うわけだ。




この映画でのマイケル・キートンの演技はティム・バートンと組んだ「バットマン」の主人公ブルース・ウェインを彷彿とさせる。

そうそう、俺が好きだったバットマンってこうだった、と思わせる頼もしいヒーロー。

そしてマーク・ラファロが熱くなって彼にキレるといつハルクに変身するのかとw

チームの中では紅一点のサーシャ役のレイチェル・マクアダムスは、これまでウディ・アレンの映画とか『アバウト・タイム』などで元気でマイペースなヒロインを演じていて、僕はそのイメージが強かったんだけど、今回は強い個性は封印して共同で疑惑の調査に当たるチームの一員に徹している。

モデルとなったサーシャ・ファイファーをリサーチして役作りして、少年時代に神父から性被害に遭った男性たちの証言を聴き歩き、「どうせ何も変わらない」「君たちも僕らを見捨てるんだ」と悲観的になる被害者団体の男性を説得したり、加害者の神父から話を聴きだそうとして追い返されたり、苛立って夫に心配されたりと、群像劇の中で一人の等身大の女性記者の仕事ぶりを説得力たっぷりに演じている。




マクアダムスだけでなく、主要登場人物を演じる俳優たちは彼らが演じる“本人”と接触して役柄を形にしていったようで。

 


このあたりはさながら演技合戦といった感じですね(マーク・ラファロとレイチェル・マクアダムスがアカデミー賞にノミネートされたけど、受賞はならず)。

弁護士のガラベディアンを演じているのはスタンリー・トゥッチだが、僕は最近はスキンヘッドに近い彼を見ることが多かったので、この映画でのまだしっかり髪があるトゥッチを見て最初は本人なのかそっくりな別の俳優なのか判別できなかった。




この人ハゲてなかったの?それともヅラなのかな。凄くリアルな髪だったけど。

ロビーたちと電話越しで話す心理療法士のリチャード・サイプの声はリチャード・ジェンキンスがアテているそうだけど(クレジットなし)、あれだけ重要な証拠を提供するのにその姿を一切見せないというのがなんとも奇妙だった。

そんなことありうるんだろうか。

映画ではなんの説明もないので、サイプがどうしてロビーたちと直接会わないのかまったくわからない。

“スポットライト”のメンバーは取材や証言の裏取りのために各地に飛んでいたのに、なぜかサイプとは電話での会話だけでじかに会おうとしないのだ。

劇場パンフレットを読んでもサイプ本人については書かれていませんでした。


気が滅入りそうな題材ではあるが、この映画には子どもたちが直接的に性的虐待を受けている場面はない。

教会で賛美歌を唄ったり、最後にガラベディアンの事務所に性的虐待を受けた子どもたちが集められている場面があるのみで、あとはすべて台詞によって説明される。

やはり誘拐・監禁・強姦という題材を扱っていながら直接的な描写も年齢制限もなかった『ルーム』と同様に、この映画は大人になったかつての性被害者たちの証言で何が行なわれていたのかを伝え、観客に“想像”させることで凄惨で深刻な問題を浮き彫りにしていく。

興味深かったのが、加害者の神父についてマイクが語る「羞恥心が強く寡黙な子を選んだ」というくだり。

これは日本の性犯罪者たちの多くにもいえる特徴だろう。

彼ら加害者たちには責任能力があり、自分が何をやっているのか充分承知のうえで抵抗できない相手を周到に選んで犯行に及んでいる。

卑劣極まりないが、このようにして弱い立場にある者たちがいつも犯罪者の犠牲になる。

尊敬していた神父の予想もしていなかった破廉恥で醜悪な行為に驚いて混乱し身体が動かなくなり、黙ってその命令に従ってしまう。

それが執拗に繰り返される。誰にも相談できず、傷を抱え込んだまま成長する。

そしてある者はクスリやアルコールに走り、ある者は自ら命を絶つ。

信頼して疑いもしてなかった人間の裏切り。肉体と魂を蹂躙された屈辱と激しい失望。それは親や教師からの性的虐待にも通じるものがある。

被害者たちの傷は深く、成人して家庭を持ったあともその心を苛み、今でも彼らは当時を思い出して言葉に詰まったり涙を流したりする。

被害者団体のサヴィアノ(ニール・ハフ)は「僕たちは“生存者 (survivor)”だ」と言う。

 


またロビーは、同窓生のピートに「俺たちは運がよかったんだ」と言う。たまたま選ばれなかっただけで、もしかしたら自分たちもまた神父たちの生贄になっていたかもしれない。

心から信じていた者に裏切られ、生きる指針であったものを失うということ。

素朴で純真であればあるほどそのショックは大きいだろう。正直者がバカを見る世界。

そして倫理観や道徳心を失っている者がそれを人に説き、そのことになんら矛盾や疑問も感じず葛藤もおぼえない怖ろしさ。

病原菌のような存在が、健康な者たちを蝕んで死に至らしめる。

祖母と同様にカトリックの信者だったサーシャは、今までのように教会に行けなくなったと語る。当然だと思う。


この映画にカタルシスはない。

なんとか救いを見出すとすれば、それはこれまで行なわれてきた性的虐待の実態が白日の下に晒されたことだ。

忌まわしい事実が暴露されたに過ぎない。やっとスタートイラインに立っただけ。

そのために何人もの人々が駆け回って被害者たちの声を文字にして世の中に訴えたわけだが。

この映画では疑惑の発端となるゲーガン神父は冒頭で一瞬映し出されるだけで、それ以降は一切登場しない。彼がその後どうなったのかも語られない(劇場パンフレットの解説によれば、獄中で別の囚人に殺されたとのこと)。

他の加害者の神父たちも、サーシャが取材に訪れてその姉に追い返される一人を除けば彼らが映画の中で取り上げられることはない。

だから「クソ野郎」の犯罪者たちに罰を与えて溜飲を下げるような結末にはならない。

現実に苦しみ続けている被害者たちがいて、けっして根絶されていない問題だから、映画の作りとしては誠実だと思います。

問題提起そのものが目的でもあるのだろうから。

繰り返すけど、この映画には目を覆うような直接的な性暴力描写はないし、映画のほとんどで記者たちが取材のために駆け回ったり新聞社でのやりとりが続く。

そこには事件の真相を追うサスペンス物の面白さもあるにはあるが、最後にカタルシスを得られるような勧善懲悪な展開ではないので、観終わっても心に膿のようなものが溜まって満足感が得られない。

ちょっとこれも最近観たアカデミー賞関連作品の『マネー・ショート』を思いだしたりもする。

出演者たちの演技で惹きつけられるところもあるけれど、とにかく社会の汚い部分を見せつけられてそのまま放置されたような、「映画観にきてなんでこんな嫌な気分にならなきゃならないんだ」という釈然としない思いに駆られた。


今も世界のあちこちで、そしてこの日本でも子どもたちが性的虐待に遭っている。

ハッキリ言えるのは、そうやって被害者となった人たちには一片の落ち度もないということだ。

「許せない」などといった言葉以上に、怒りの念と「どうして?」という疑問が拭えない。

なぜいつも弱い立場にいる者が痛めつけられるのだろう。

「神」が本当にいるのなら、そういう者をこそ真っ先に救うべきではないのか?

そして次から次へと現われる、倫理観も道徳心も失った壊れた犯罪者たち。人の「信じる心」を踏みにじり、自分の欲望のために“子羊たち”を陵辱して捨て去る者たち。

「神」が本当にいるのなら、そういう者をこそ真っ先に罰するべきだろう。

なぜそうしない?

教会での人々の祈りは本当に「神」に届いているのだろうか。

それとも犯罪も、災害も、ただの偶然なのか。

被害に遭ったのは、ただ「運が悪かった」だけなのか。

人のいるところに犯罪がある。

そういう犯罪を暴く、この映画で描かれたような英雄的な人々もいるが、それにしてもこの虚しさはなんだろうか。

それは、神なき世界で神を求めることの虚しさかもしれない。

同時多発テロのあと、ピートはロビーに言う。「今こそ人々には教会が必要なんだ」と。だから事を荒立てないでくれ、と彼は訴える。

“スポットライト”によって「神の家」の犯罪は公になった。

果たしてあれから神父たちの性犯罪は減ったのだろうか。

劇場パンフを読むと、どうもそうではないようだ。

神は昼寝でもしているのだろうか。



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