ケネス・ロナーガン監督、ケイシー・アフレック、ルーカス・ヘッジズ、ミシェル・ウィリアムズ、C・J・ウィルソン、グレッチェン・モル、ベン・オブライエン、カイル・チャンドラー出演の『マンチェスター・バイ・ザ・シー』。2016年作品。

 

ボストンで便利屋として働くリー・チャンドラーは、故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに住む兄のジョーが亡くなったという知らせを受ける。そこでジョーの遺言執行人の弁護士から、自分が兄の一人息子パトリックの後見人に指名されていることを知ったリーは動揺する。彼にはこの街に留まれない理由があった。

 

第89回アカデミー賞主演男優賞、脚本賞受賞。

 

久々のアカデミー賞関連作品の鑑賞。

 

主演のケイシー・アフレックについては、僕は以前彼の兄ベン・アフレックが監督してケイシーが主演した『ゴーン・ベイビー・ゴーン』を観ています。

 

この『マンチェスター・バイ・ザ・シー』でケイシー演じるリーが住んでいて、アフレック兄弟の故郷でもあるボストンが舞台だった。

 

日本では劇場未公開だったけど、ちょっと意外な展開のあるなかなか見応えのある映画なので、レンタルもされてますから興味のあるかたはDVDかブルーレイでご覧になってみてください。

 

ケイシー・アフレックというと今年のアカデミー賞授賞式にヒゲ面で出ていて、去年の主演女優賞受賞者のブリー・ラーソンからハグと拍手を拒否されたことでも話題になりました。

 

その理由である、彼が訴えられた以前映画のスタッフにセクハラをしたという一件が事実なのかどうか僕にはわからないのでそれについてはなんとも言えませんが、そういう現実の彼自身の姿がちょうどこの『マンチェスター~』で演じた主人公とどこか重なるところもあって、映画の評価も非常に高いので興味がありました。

 

平日の昼間だったことやオスカー受賞から結構日にちが経ってることもあってか、たとえば作品賞を受賞した『ムーンライト』の時のような混み具合ではなくて客席はわりと空き気味でしたが、観終わったあとに二人組の年配の女性たちが「いい映画だったね」と語りあっていたりして、僕もいろいろと思いだすと涙が出てきそうになった。

 

では、以降は映画の内容について書いていきますので、これからご覧になるかたはどうぞ鑑賞後にお読みください。

 

 

まずこの映画の特徴として編集が独特で、回想(過去)シーンが普通のカット繋ぎで入っていて、しかも現在のシーンとわりと頻繁に時間が行き来する。映画が始まってしばらくはちょっと戸惑った。

 

カイル・チャンドラー演じるジョーが生きてたと思ったら亡くなってたり、また生き返ったり(笑)するから。で、いちいち「これは回想シーンですよ」という説明はない。

 

 

 

 

ボストンでリーが兄ジョーの死を知ったあとに続く病院のシーンで、ジョーは家族に囲まれながら普通にベッドに横たわっている。最初は回想シーンだと気づかなくて、ベッドで家族と喋っているのがリーの死んだ兄だということを理解するまで一瞬時間がかかった。

 

この映画では全篇こういう具合に、過去が一見ランダムに差し挟まれる。これはもうわざとやってるのは明白で、慣れると気にならなくなるけど集中して観ていないと混乱しかねない。

 

現実の世界では過去の回想というのはしばしば時系列を無視して現われるもので、この映画ではそれを再現してるのかな、とも。

 

もちろん描かれる回想シーン(回想、といっても完全な一人称ではないから、特定の誰かの回想ということではないのだが)は“現在”と密接に関わっているんだけど、それがただの「説明」に終わっていないんですよね。

 

僕はこの映画の内容についてはまったく予備知識がなかったので、寡黙でキレやすい主人公リーがかつては自分も住んでいた街に戻り、兄の葬儀や後見人のことなどいろいろな手続きに追われる様子を淡々と描くこの物語に「これは何についての映画なのか」なんとか把握しようと努めたんですが、しばらく観ていてようやく何か1本の強いストーリーで引っぱっていく映画ではなくて、近親者の死と残されたその息子をめぐる主人公の日常の中から彼の怒りや悲しみの理由を炙り出していくような作りの映画なんだな、と理解しました。

 

ともすると本筋とは関係ない枝葉のようなエピソードが丁寧にピックアップされていて、それらが積もり積もってリーの最後の決断に繋がっていく。

 

奇妙だったのが、シリアスな内容の映画なのにちょいちょいヘンなユーモアが入っていること。

 

ジョーの忘れ形見で一人息子のパトリック(ルーカス・ヘッジズ)は、父親が亡くなったばかりだというのに二股かけてる女の子の1人と彼女の親の目を盗んでなんとかセックスしようとしていて、その様子が結構な尺を使って描かれる。

 

 

 

 

一方で、リーの方はパトリックのお目当ての女の子の母親から興味を持たれたりもする。

 

しかし、パトリックに時間稼ぎをしてくれと頼まれてしぶしぶ女の子の家に上がって母親と対面したリーがあまりに無口で愛想がないので、30分も経たずに先方は音を上げて「帰って」と言う。おかげでカノジョとエッチをしそびれたパトリックは「ひどいよ」と怒る。

 

一軒家で階下に親がいるのに、あんなところでよく一発キメようなんて思えるなぁ、と呆れるんだけど、しかしこれは一体何を描いているんだ^_^;

 

そうかと思えば、パトリックは冷凍庫の中の冷凍チキンを見ているうちにパニック発作を起こしてリーの前で大泣きする。

 

それはリーが兄のジョーの遺体を気候が穏やかになるまで埋葬せずに冷凍保存する、と告げたからだが、パニックのあとに部屋にこもったパトリックにリーが言う「部屋に鍵をかけて混乱するな」という台詞なども、リーの仏頂面とあいまってなんだか可笑しい。

 

リーとパトリックの会話はしばしば噛みあわないが、現実の世の中でも親子や友人、職場の人たちとの会話ってそんなところがある。それでも会話は続いている。

 

家族が亡くなったばかりでも高校生の息子は女の子とイチャつくし、叔父と甥は間の抜けたやりとりもする。人間というのはそういうもの。

 

亡くなったジョーはリーをパトリックの後見人に指名していたが、そのことをリー本人には告げていなかった。頼めば断わられることがわかっていたから。

 

リーは兄が望むようにマンチェスター・バイ・ザ・シーに移り住もうとはせず、パトリックをボストンに連れていこうとするが、学校やバンド、恋人など諸々の都合があり故郷を離れるつもりのないパトリックはそれを拒否する。

 

こうして、パトリックの今後の身の振り方について、リーは親代わりになって試行錯誤する。

 

パトリックの母親エリーズ(グレッチェン・モル)はアルコールに溺れてジョーとは離婚していたが、最近でもパトリックとメールでやりとりしていて、エリーズのことを昔から快く思っていなかったリーの考えに反してパトリックは母との再会、そして同居を望んでいる。叔父とボストンに行くよりはマシだということ。

 

パトリックの母親の再婚相手をマシュー・ブロデリックが演じているんだけど、あまりに出番が少ないんでちょっと驚いた。

 

かつては青春映画で軽妙な演技を見せていたブロデリックが、そういうコミカルな要素のない役で神妙な面持ちでいると、何か落ち着かない。

 

物腰は柔らかいが明らかにパトリックとの同居は望んでいないこの母の婚約者と二人きりになった時の気まずい空気とか、やはりどこか可笑しいのだけど、ブロデリックの出演場面はここだけで、メールでパトリックに「同居はまだ早い」と暗に彼を拒絶してからは母親同様に二度と映画には登場しない。

 

もちろん、今後また母親と再会することはあるだろうが、生みの親とともに生活するのが難しい現実をパトリックは理解する。

 

これはまさしく「家族」や「親子」についての映画。

 

父はすでに亡くなり、そして兄も失ったリーにはもう家族はいない。

 

かつていた妻、そして2人の娘ももう彼のもとにはいない。

 

リーの過去を知る者たちが言葉を濁す、彼がこの街を離れた理由。

 

以前のリーは、友人たちと家で夜通し飲んでビリヤードしながら騒ぐのが好きな陽気な男だったが、妻に「何時だと思ってるの?子どもたちが目を覚ますでしょ!」と叱られて解散させられたあとに一人で酒を買いに近所のコンビニまで行っている間に、暖炉にくべておいた薪が床に転がり落ちて家は全焼、幼い娘たち2人が亡くなるという悲惨な事故を起こした。

 

妻は結果的に娘たちを殺した夫を許せず、夫婦は離婚する。

 

わずか片道20分のコンビニに行ってる間に火の回りが速すぎないか、とか、なんで消防車の音に気づかなかったんだろう、など、ちょっとよくわかんないとこもあるんですが(家に帰ってようやく自分ちが燃えてることに気づく、っていくらなんでもマヌケすぎじゃないだろうか)、でもそのあまりにもあっけない、あっという間に失われてしまう命と一瞬にして崩れてしまう「家族」の姿には無常観が溢れていて、観ていてつらいものがあった。世の中はなんと無常にして無情なのだろう、と。

 

ほんの少しの気の緩み、しかし紛れもなく自分自身のせいで失われ、二度と戻ってこなくなってしまったものたち。

 

この人生に対する後悔、どこにもぶつけられない怒りについては、リーのような壮絶な経験をしていない自分にも思い当たるものがあった。

 

怒りの抑えられない彼にバーで殴られる無関係な人々が実に気の毒ですが、これも映画の前半と終盤で同じことを二度繰り返すのがギャグっぽい。哀しいが、どこか滑稽でもある。

 

ここで漂う可笑しみは人生における救いとも、逆にとても残酷なものにも感じられる。この両義性。

 

先ほど、回想シーンは普通に繋げられている、と書いたけれど、さすがに亡くなった娘たちと再会する場面は夢として処理されていた。

 

でもそれは泣ける感動的な場面でもなんでもなくて、フライパンを焦がして部屋中に充満する煙によってあの火事をリーが思い出す場面であり、そして彼がやはり自分はここ、マンチェンスター・バイ・ザ・シーには住めないと悟る瞬間でもある。

 

最近ではアクション物やアメコミヒーロー映画ですら何かと「家族」だ「親子」だのを強調していて、先日観た『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』もそうだったんだけど、僕は少々食傷気味なんですよね。家族の絆とかって、これ見よがしに大声で言うようなことだろうか、と。

 

この『マンチェスター・バイ・ザ・シー』は家族だとか親子について声高にその大切さを唱えるのではなくて、日々の出来事を通してそれを観客に感じさせる。

 

映画の淡々とした作りが非常に効果的だった。

 

そしてこの映画は単純に家族の大切さを訴えるとか、家族の再生を描く、というのではなく、失ったものは還らず、けっして癒えない傷もあるということを、これも説明ではなく描写で語っている。

 

ミシェル・ウィリアムズが演じるリーの元妻ランディが街でリーと再会した時の、けっして冷たい態度なわけではないがすでに他人で互いに別々の人生を歩んでいる者同士の距離を置いた表情と喋り方。

 

 

 

結婚していた時には体調が悪いのにジャレてくる夫をウザがったり、仲間と大騒ぎしている夫に怒鳴ったりと、親密な関係である「夫婦」で「家族」だったが、今では遠慮がちでよそよそしい。

 

たとえ生きていても、修復できない関係がある。「あの時」はけっして戻らない。

 

そして、ランディもまた夫を許せず罵り続けたことを深く後悔していた。再会した元夫に許しを請いながら涙を流さずにはいられないほどに、彼女もまた失ったものの大きさを痛感していたのだ。

 

それにしても、ミシェル・ウィリアムズ本人がパートナーだったヒース・レジャーを若くして亡くしている人で(※追記:ミシェル・ウィリアムズとヒース・レジャーとの間には子どもがいるが、婚約は破棄されており二人は結婚はしていない)、彼女の中にもレジャーの死に対して自責の念があるかもしれないのだから、ちょっと想像するに余りある。一体どんな気持ちで演技していたのだろう。

 

 

リーは自分の気持ちを語らない。ただ沈黙するだけだ。

 

これはいくつもの「死」を通して家族や人と人との関係を見つめた映画。

 

パトリックの父親が亡くなったことを知ったアイスホッケーチームの監督(テイト・ドノヴァン)は、自分も同じぐらいの歳に父親を亡くしたことを話し、「何かバカげた話がしたくなったらいつでも来い」とパトリックに優しく語りかける。

 

「俺もお前と同じだった」と言ってくれる、こういう大人がまわりにいてくれたらどんなにありがたいだろう。

 

また、映画の終盤にはリーの今はなき父親と昔からの知り合いの年配の客が、自分の父親の死について語る。お別れすら言えないままの別離。

 

ここでもやはりリーは黙って聴いていて自分の心の中を言葉にはあらわさないが、それは映画を観ている観客一人ひとりに委ねられている。

 

直接こちらには関係がなくても、人が話してくれるその人の親の「死」に対しては、どこか厳かな気持ちになるし、そういう人々の言葉は誰もが経験する肉親との別れの悲しみの慰めにもなってくれるだろう。「俺もお前と同じだった」という言葉の重み。

 

自分の親のことを知っていてくれる、覚えてくれている人たちがいる。

 

それは自分がこの世界とまだ繋がっているという証拠でもある。

 

ジョーは、大人の男性、夫──弟のリーがなれずにいる理想の存在として描かれている。

 

殺風景なリーのアパートの一室に家具を買ってきて入れるのもジョーだ。

 

常識があって弟思いで息子からも慕われる立派な父親。

 

そんなジョーの死とは、大切な何かが決定的に失われたことの象徴なのかもしれない。

 

ランディが涙ながらにリーを許し、また彼に許しを請うたように、父の死によってパトリックの生活が激変したように、時とともに人々の関係は変化していく。

 

パトリックを人に託してボストンに一人帰ることにしたリーが、今後自分を許し明るさを取り戻すことができるのかどうかはわからない。時が解決してくれるのか、それともその傷は死ぬまで癒えないのか。

 

兄の死は否応なく娘たちの死を思い出させ、マンチェスター・バイ・ザ・シーの街は永遠にリーにとっては忌まわしい場所となるかもしれない。

 

つらい話ではあるが、不思議と絶望感はない。それは若いパトリックの存在のおかげだったのかもしれない。兄が遺したものはパトリックに受け継がれている。

 

血の繋がりのある者や旧知の人々との再会によって主人公が自らの過去と向き合い、そして選択していく姿は、すべての人がたどる人生のある時期についての物語でもある。

 

ジョーを弔う人々は、それぞれの過去もまた弔い、見送ったのだろう。

 

これからも残された人々はことあるごとにジョーのことを思い出すだろうし、その喪失感は容易には消えないだろうけれど、それでも人はこの映画のように過去を回想し日々何かを弔いつつ生きていくのだと思う。

 

僕がいまいちノれなかった『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』も、実は同じようなことを描いていたのかもしれない。

 

 

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