クロエ・ジャオ監督、フランシス・マクドーマンド、デヴィッド・ストラザーン、リンダ・メイ、シャーリーン・スワンキー、ボブ・ウェルズほか出演の『ノマドランド』。

 

原作はジェシカ・ブルーダーのノンフィクション「ノマド 漂流する高齢労働者たち」。

 

第93回アカデミー賞作品賞、監督賞、主演女優賞受賞。

 

2008年のリーマン・ブラザーズの経営破綻に端を発する金融危機によりネバダ州のエンパイアでは工場が閉鎖され、その街の臨時教員だったファーン(フランシス・マクドーマンド)は夫を病気で亡くして家を手放すことになって、自家用車に家財道具を積んで短期労働者として全米各地を移動しながら生活する現代の“ノマド(放浪の民)”となる。旅の途中に出会う同じような境遇の高齢の“ノマド”たちと交流を持ちながら、ファーンは孤独で厳しい生き方の中に痛みを抱えた者たちから、ある強い意志を感じ取るようになっていく。

 

3月に鑑賞。

 

去年、映画評論家の町山智浩さんの作品紹介を聴いて楽しみにしていました。

 

フランシス・マクドーマンドが2017年の『スリー・ビルボード』(日本公開2018年)に続いて見事オスカーを獲りましたね。前回の受賞からわずか4年で3度目の主演女優賞、本当に凄い人です。

 

 

『スリー・ビルボード』の主人公はマクドーマンドさん本人でアテ書きしたそうだけど、今回も彼女がそのまま素で演じているような自然さで(ファーンの人物造形にはマクドーマンドの人生も反映させているとのこと)、実際、彼女が劇中で出会うノマドの人々はプロの俳優であるデヴィッド・ストラザーンを除くとそのほとんどが本当にノマドとして生活している人たちなのだとか。

 

 

 

 

 

 

ノマドたちの教祖というか導師のような存在であるボブ・ウェルズもご本人。

 

だから、主人公がさまざまな人たちと出会いながら旅を続けるこの映画自体がセミドキュメンタリー・タッチのロードムーヴィーなんですね。

 

 

 

このノマドの人たちがほんとに演技が達者というか(半分ドキュメンタリーみたいなものだから、素の自分をそのまま出しているのだろうけれど)、僕は最後に流れるエンドクレジットで出演者の名前が登場人物そのまんまなのを見て、初めて「あぁ、彼らは本物のノマドだったんだ」と気づかされたぐらいで。

 

ノマドとしてはまだ新人であるファーン(といっても彼女も60代だが、他の人たちは70代ぐらい)にいろいろ教えてくれるスワンキーは、なんの説明もなく片腕を怪我してるけど、あれはリアルな怪我なんだろうか。もっとも、彼女は今年のオスカー授賞式に出演者として出席しているから、終盤の“あの別れ”は映画の中のフィクションですが。どこまで現実を反映させているのかわからないから戸惑いますね。

 

そういえば、この映画は劇場パンフレットが作られていなくて(東京の一部の劇場でのみ販売されているようですが)、映画の背景だとか内容についての情報をほとんど知ることができなくて(町山さんの有料解説は聴いていないので)不自由してます。

 

Netflix作品もそうだけど、最近こういうパターン多くないですかね?去年の時点でオスカーに絡みそうなのはわかっていたはずだし、サーチライト・ピクチャーズの作品なんだからパンフを作る予算がないなんてことはないでしょう。作品に関する情報が少ないミニシアター系の映画こそパンフレットを読みたいのに。

※追記:その後、パンフは4/23(金)から全国の劇場で順次発売されている模様。

 

…だから、映画を観たこと以外でこの作品についての知識はないに等しいので、あとはググってわかったことぐらいしか書けないんですが、ともかく映画館で観ておいてよかった。

 

もうこの映画の完成度の高さは、「フランシス・マクドーマンド力(りょく)」の賜物、これに尽きるんじゃないだろうか。

 

クロエ・ジャオ監督の構成力や演出力、映像の美しさ、ノマドたちのまるでプロの俳優のような“演技”なども、もちろんこの映画に大いに貢献しているのだけれど、何よりもマクドーマンドの存在感、これが大きい。

 

 

 

 

ドキュメンタリーではないのは知っているし(ドキュメンタリーを模して作っているのでもないし)、マクドーマンドが演技していることだってわかってて観ているんだけど、急に便意をもよおしたり、素っ裸で泳いだり、めちゃくちゃ汚れた公衆便所を掃除したり、彼女の表情、仕草、行動、黙々と働いている様子などをただ眺めているだけで、生きている人間をずっと観察しているような気持ちになる。

 

彼女と一緒に旅をしているような気がしてくる。

 

マクドーマンド演じるファーンは、劇中で2度、放浪生活から解放されるチャンスがある。

 

ところが、彼女はそのチャンスを捨てて、わざわざ不安定で危険でさえある(スワンキーたち高齢のノマドたちは護身用のスタンガンを買っている)生活の方を選ぶ。

 

町山さんは彼らノマドの生活が実はいかに本当の“自由”であるかを語られていたし、ボブ・ウェルズや何人かのノマドたちもまた同様に、自分たちの生き方の意義について語る。

 

だけど、僕の70代の母がちょっと前に(彼女はこの映画は観ていない)、「年寄りこそ街に住まなきゃ」と言ってましたよ。近くに病院や買い物ができるところがあることが大事で、だんだん身体も弱ってくるのに不便な田舎では暮らせない、と。

 

いろんな考え方や価値観があるから一概に決めつけることはできないけれど、だいたい、人があまり住んでない何かと不便なところで暮らすことに慣れているのは、ある程度若くて元気な頃からそういう生活をしてきた人たちですよね。

 

長年都会の便利な土地に住んでた人が年取っていきなり田舎暮らしとか、この映画の現代のノマドたちのような生活なんてできるわけがない。彼らは若い頃にヒッピーとしてしょっちゅう旅をしていた人々なんだよね。日本でも60~70年代ぐらいに若者だった人たちの中には、そうやってわざわざ不自由な生活をしていたり、あるいは貧しかったのでそういう生活をせざるを得なくて、たくましさを身につけた人たちがいる。けっして誰もができるわけじゃない。

 

たとえば、今だったらアメリカでアジア系の人がノマドとして生きるのは困難でしょう。殺されかねない。映画に登場するのもほとんどが白人のノマドだった。ノマドになるのだってあらかじめ選別されているのだ。そんな選択肢など最初からない者だって大勢いる。

 

だから、ファーンが選んだような生活に憧れることなど少なくとも僕はなかったし、孤独で、でもその孤独を自らの意志で選び取り、互いにつかの間の再会に喜び、また各地へ散っていく彼らのその姿に真の強さや美しさも感じるのだけれど、そこにはある種の痛ましさやいたたまれなさも感じるんですよね。

 

たやすく彼らのことを賞賛することなどできない。

 

ファーンが口ずさむ「グリーンスリーヴス」のメロディに付けられた歌詞はもう覚えていませんが、同曲は1962年の映画『西部開拓史』で挿入歌“Home In The Meadow(邦題:牧場のわが家)” (歌:デビー・レイノルズ)として新たに歌詞を付けられているので、ファーンが1957年生まれのマクドーマンドとほぼ同世代なのだとすれば『西部開拓史』を子どもの頃に観ているかもしれないし、そうすると彼女が映画の中であの歌を唄っていた意味もわかりますね。

 

 

 

はるか遠くの草が生い茂り風舞う土地へ行こう そして草原に家を建てよう──という歌詞は、ファーンが失ってしまった「家」のこと。

 

ファーンは亡き夫への想いを込めて“Home In The Meadow”を唄っていたんだろうか。それとも、彼女に何枚もの美しい皿を残した父親のことを唄ったのか。

 

ファーンが大切にしていた父からもらった皿は、荷物を運ぶのを手伝おうとしたデヴィッド(デヴィッド・ストラザーン)の不注意で地面に落ちて割れてしまう。

 

ファーンは激昂してデヴィッドを追い払い、割れた皿を丁寧に修復する。

 

あの皿はファーンが失ったもの、彼女の過去の象徴なのでしょう。

 

彼女が自分のオンボロ車を頑ななまでに売ろうとしないのも、あの車には彼女の想いが詰まっているから。

 

なくしたものへの想いが消えないからこそ、彼女はあえて孤独な道を選んだのではないだろうか。

 

デヴィッドはノマドをやめて子どもたち夫婦と同居する生活を選ぶ。彼は未来に生きることにしたのだ。そして「一緒に暮らさないか」とファーンを誘う。デヴィッドはファーンに好意を持っていた。

 

しかし、姉からの同居の勧めと同様に、彼女は彼のもとから立ち去ることを選ぶ。

 

“Home In The Meadow”の歌のように、ファーンには草原の我が家で暮らすことが可能だった。

 

それなのになぜ…?

 

“Home In The Meadow”の原曲であるイングランド民謡「グリーンスリーヴス」に付けられた歌詞で有名なものは、「私(♂)」を捨てた者(Greensleeves=緑の袖と呼ばれる女性)を惜しみ懐かしむ内容なので、そちらの歌詞でもファーンの心情には合っているかもしれない。レディ・グリーン・スリーヴスは、安定した生活を捨てて放浪の旅を続けるファーン自身のことのようにも思える。

 

映画のラスト近くで、ボブ・ウェルズは再び会ったファーンに語る。ノマドたちは皆何かを失ったり痛みと悲しみを負っているのだ、と。ファーンもそうだ。だから彼女は定住することを拒んだ。

 

ウェルズはノマドは“自由”なのだ、ということを語っていたが、彼らは過去に囚われ、それが忘れられないからこそ苛酷な旅を続けるのではないだろうか。それは自分に罰を科しているようにも見える。まるで修行僧か巡礼者のようにも。

 

劇中でファーンは「心の中の家」のことを口にする。

 

僕はその言葉にジュディ・ガーランド主演の『オズの魔法使』でドロシーが言っていた「おうち」を思い出したのでした。

 

ドロシーの故郷カンザスでは優しい家族と仲間たちが待っている。それは誰もが「心の中」に持っている「家」。

 

ファーンにとっての「心の中の家」はかつて父と住んだ家であり、夫とともに過ごしたあの家でもあったのだろう。それはもう地上にはない。「私」の心の中だけにある。

 

ホームレスではなく、ハウスレス。

 

ノマドたちは、それぞれの「心の中の家」を想い続けながら今日もアメリカ中を旅している。

 

だけど、旅をしているのは彼らだけではないんじゃないか。

 

誰もが旅をしている。訪れる場所も滞在期間も人によってさまざまだが。

 

いつか旅の終わりもやってくる。スワンキーがそうだったように。

 

時にくつろぎ、時には早足で、痛みを忘れて走ることもあればうずくまって苦しみに堪える時もある。

 

アメリカの荒野もそこでの夕陽も素晴らしいが、多分、身近で見慣れた風景の中にも、なんでもない空や雲の中にだって本当はどこよりも何よりも美しいものが詰まっている。そのことに気づけるかどうか。

 

世界中の“ノマド”たちが旅するのは、物理的な距離よりももっと広く深く、時間も超えた世界なのではないか。ファーンが見上げていた巨大な恐竜の彫刻は、人間のちっぽけさを表わしているようでもあった。それははるか太古の昔からアメリカを見つめている。

 

恐竜といえば、フランシス・マクドーマンドはピクサーアニメの『アーロと少年』に声の出演をしてましたが(あいにく僕は劇場では吹替版でしか観られなかったけど)、あの作品も“西部劇”として作られていた。

 

こうやって見てみると、まったく関係がないと思っていた作品たちの間に1本筋が通っていることに気づく。

 

『スリー・ビルボード』は町山さんもイーストウッドに例えられていたように西部劇のように撮られていたし、マクドーマンドが初めてアカデミー賞を獲得した『ファーゴ』も見方によっては西部劇の一種として観られなくもない。

 

フランシス・マクドーマンドは西部劇俳優なんだな(^o^)

 

…それはあながち間違いではない気がする。アメリカを見つめている、ということだから。

 

同じ日にこれの前に『ミナリ』を観たんですが、同じく「アメリカ」を描いた映画なのに両者は見事なまでに対照的だった。そして、これら2本のどちらもがアメリカのある一面を示している。

 

 

子どもの頃、実家にクラシックのLPレコードがあって、その中の「グリーンスリーヴスによる幻想曲」が好きでよく聴いていました。

 

 

 

近代化以降の街なかでふと思い出す懐かしい田園風景や草原。そんなイメージを頭に思い浮かべながら。

 

そのレコードも、もうずっと昔にプレーヤーと一緒に処分されてしまった。あの「家」ももうない。

 

けれど、今でも「グリーンスリーヴス」を聴くたびに“あのひととき”がうっすらと甦ってくる。

 

ファーンが持っていた父からもらったあの皿は割れてしまったし、夫と暮らした家も街も今は廃墟となっている。

 

失われてしまったものはもはや返ってこないが、「私」が生きている限り、「草原の我が家」はいつだって心の中にある。

 

 

 

 

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