リー・アイザック・チョン監督、スティーヴン・ユァン、ハン・イェリ、アラン・キム、ノエル・ケイト・チョー、ユン・ヨジョン、ウィル・パットンほか出演の『ミナリ』。2020年作品。

 

第93回アカデミー賞助演女優賞(ユン・ヨジョン)受賞。

 

1980年代。韓国からの移民であるイ一家はカリフォルニアからアーカンソー州の辺鄙な土地へ引っ越してくる。10年続けたヒヨコのオスメス鑑定の仕事に嫌気が差したジェイコブ(スティーヴン・ユァン)は、これまで貯えた財産をはたいて農地を買って韓国野菜を作り商売をしようとしていた。しかし、慣れない田舎暮らしと先の見えない生活に妻のモニカ(ハン・イェリ)は夫と険悪な関係になる。そこで彼女は故郷の韓国から母のスンジャ(ユン・ヨジョン)を呼び寄せて、彼女たち夫婦が仕事に行っている間、心臓の弱い幼い息子・デヴィッド(アラン・キム)の面倒を見てもらうことにする。

 

この作品は今年のアカデミー賞作品賞・監督賞・主演女優賞を受賞した『ノマドランド』と3月末の同じ日に2本続けて観たんですが、『ミナリ』も作品賞にノミネートされて話題作だったし、おばあちゃん役のユン・ヨジョンがお見事、助演女優賞を獲りましたね。

 

ユン・ヨジョンさんは、受賞後にあちらのインタヴュアーに「プレゼンターのブラッド・ピットはどんな匂いでしたか?」という非常識な質問をされて(もしも白人が相手なら、そんな失礼な質問はされない。これだから白人は(゚Д゚)≡゚д゚)、カァー ペッ!!)「ブラッド・ピットさんの匂いは嗅いでいません。私は犬ではありませんから」と答えている。ウィットに富んでますよね。笑いを交えつつも、相手に迎合するのではなく言うべきことはちゃんと言う。あのような場でしっかりとそういう態度を貫ける人は人として信用できる。

 

ユンさんは『チャンシルさんには福が多いね』でも、やはりこの『ミナリ』のおばあちゃんにも通じるユーモラスな年配の大家さん役で出演していましたが、ちょっと癖があるけどほんとにその辺にいそうな普通のおばあちゃんを巧みに演じてみせる人ですよね。

 

若い頃にはアメリカに住んでいたこともあるようで、それがあちらの人間に対して物怖じせずに堂々と受け答えできる彼女のたくましさの理由の一つでもあるのでしょうか。

 

さて、先ほども述べたように『ノマドランド』と続けて観ることで“アメリカ”という国が浮き彫りになってくるような感じで、クリスチャンであるリー・アイザック・チョン監督が映画の中に込めたキリスト教の要素も興味深かったし(僕は映画評論家の町山智浩さんの有料解説は聴いていないので、詳しいことまではわかりませんでしたが)、鑑賞後にいろいろと思いを巡らせることのできる作品だった一方で、ちまたでの高評価に対してそこまでのめり込むことがなかった身としては、なんとなく批判的な視点から感想を述べることになりそうです。

 

もっとも、僕はこの映画を観てよかったし(劇場パンフレットも買いましたし)、まだ一度しか観ていないので、もう一度観返したらまた違う意見になるかもしれない。そんなあてにならない人間の感想です。

 

それでは、これ以降は内容やラストについて触れますので、これからご覧になるかたは鑑賞後にお読みください。

 

 

あちらでは国籍や民族を越えた「家族の物語」として絶賛されているそうですが、韓国系の一家の物語に旧約聖書やアメリカの開拓の歴史をダブらせた内容は登場人物やエピソードの一つ一つにさまざまな“メタファー”を読み込むことができるだろうことを意識しつつも、ここで描かれる「穏やかな家父長制」の肯定には疑問が残る。

 

ちょうど『はちどり』のように、家父長制に対して批判的なまなざしを向けることだってできるだろうに、この映画はあくまでも“男の子だけ”の視点を貫く。

 

妻とじっくり話し合わず相談すらしないまま何事も独断専行の夫、心臓が弱いという理由がある幼い息子デヴィッドは父や母方の祖母から目をかけられる一方で、姉のアン(ノエル・ケイト・チョー)の方は劇中で彼女の悩みや喜びにもほとんど触れられることがない。母娘は常に男家族のフォローに回る。

 

このあたりは日本映画研究者の鷲谷花さんが厳しい口調で批判されてますが、意外と同様の批判は目にしない。1980年代が舞台だからしょうがないのでは、と捉えられているのだろうか。あるいは、そもそもモニカやアンに対して観客側も作り手同様にあまり気にかけていないのかも。

 

 

 

 

扱われているテーマは異なりますが『ワンダー 君は太陽』でも姉弟が描かれていて、ある事情から姉は自分が弟よりも両親からないがしろにされているように感じていて、その孤独感を祖母が察して彼女のケアをする。作品の中にお姉ちゃんの視点も入っているんですね。

 

一方で『ミナリ』ではおばあちゃんはデヴィッドの方ばかりにかまって、アンとはほとんど絡まない。鷲谷さんがツイートの中で指摘されている通り、父親のジェイコブもほとんどデヴィッドばかりとかかわっていて、アンの方は放っておかれている。

 

そこははっきり描写不足だったんじゃないかと思う。

 

リー・アイザック・チョン監督ご自身には娘さんがいらっしゃるのに、どうして映画の中では娘に無頓着だったんだろう。

 

それから、デヴィッドの身体のことやリスクが高い農家としての生活への不安からモニカは夫ジェイコブの試みに反対するが、彼女の老母が起こした火事だとかミナリが売り物になったりダウジングで水脈が見つかったりして、結局なし崩し的に夫の望む生活を続けることになる。夫の信念と神の試練ののちの恵みが彼らを支えたのだ、と。

 

迷信だとか宗教の力をまったく信じていなかったジェイコブが最後には不思議な“導き”によって成功する、という、これはほとんどキリスト教の布教映画のようだ。“らい病”患者が奇跡で治る『ベン・ハー』のラストと変わらない。

 

 

 

この映画は監督の実体験が基になっているそうですが、しかし、あの結末は果たしてあれでよかったんだろうか?これは本当に「家族の物語」か?

 

妻の反対を押し切って「挑戦」し「開拓」し続けるジェイコブは、『野球少女』で娘の挑戦に反対する妻を怒鳴りつける無職の夫を思わせる。妙に持ち上げられる男たちと、存在を無視されるか最後は男に追従することを選ぶ女たち。

 

開拓精神を崇高なものとして幾分ノスタルジーも込めて綴られるこの物語は、次々と湧いてくる疑問からある意味反面教師的に「家族」というものを炙り出す。「家族の物語」というのはその通りかもしれないが、釈然としないものが残る。

 

焼き殺されるオスのヒヨコを「子どもを産むことができない役立たず」である男性のこととして捉え、だからこそ俺たち男は何かを成し遂げなければ、成功を掴まなければ価値がない、とするジェイコブの主張は長男デヴィッドに伝えられる。こうして形はソフトを装いながらも連綿と受け継がれていく家父長制。子どもを産めようが産めまいが、そんなことで人の価値を決めつけられてはたまらないが、そういう批判は現実を見ていない理想論として切り捨てられるのだろう。

 

軍事政権下の韓国を脱してジェイコブがこれまで経験してきた苛酷な生活への言及から彼の夢の追求は正当化されるが、たとえヒヨコの尻を見続ける人生であろうと、モニカが望んだ街での生活だってそれもまた選択肢の一つだったはずだ。それを一方的に捨てる権利などジェイコブにはない。一緒に街で暮らしましょう、と言うモニカに、行くなら勝手に行ってくれ、オレは一人で残る、と言い張って、夫として、父としての責任を放棄するジェイコブは、息子に父親が成功する姿を見せたい(ここでも娘は無視されている)、などと理由付けしているが、単調な仕事に飽きて男のロマンに酔ってるだけじゃないか。

 

この映画は、日本では、先日惜しくも亡くなられた田中邦衛さんが父親を演じたTVドラマ「北の国から」にしばしば例えられるし、実際に似たような経験をしてきた人も大勢いるかもしれない。かつて祖父母や先祖たちが乗り越えてきた歴史に想いを馳せた人もいるのでしょう。

 

チョン監督だって、父親のことを悪くは思っていないんだろうし。

 

自分が経験していない生活、そういう家族の生き様に心を動かされるということもある。

 

この『ミナリ』が監督ご本人の幼少期の体験をどこまで忠実に再現しているのかは知らないし、史実通り描いたんだ、ということかもしれませんが、だけど、「夢を追い続ければ努力は報われる」といったことをどこか教訓めかした美談のようにして締めくくるこの映画を観ながら、僕はこれとはまったく正反対の結末に至る魔女映画『ウィッチ』を思い浮かべていました。

 

『ウィッチ』は今をときめく「クイーンズ・ギャンビット」のアニャ・テイラー=ジョイ主演の作品で、ある一家が人里離れた土地で自給自足の生活をしようとして失敗する話でした。

 

僕は、むしろ『ウィッチ』で自らの信念や信仰心を過信して無謀な選択をしたばかりに家族を悲惨な目に遭わせる夫・父親の姿の方にリアリティを感じる。

 

…などと延々と難癖めいたことを並べてますが、こういう意見をまったくと言っていいほど見かけないので、あえて述べさせていただきました。

 

 

ユン・ヨジョンが演じるスンジャはデヴィッドが期待したようなクッキーを焼いてくれる優しいおばあちゃんではなくて、料理もしないし花札しながら汚い言葉を連発する、なかなかイカしたBBAで、デヴィッドの世話をしてくれるはずが病気で倒れて身体に麻痺が残って自由がきかなくなってしまう。

 

 

 

そして、モニカからは「手伝わなくていいから」と言われたにもかかわらず、ゴミを燃やそうとして出荷するための大事な作物が収められた小屋を全焼させてしまう(なんであんな近くにゴミを燃やす場所なんか作ったんだろうか^_^;)。

 

家族が無事だったのがせめてもの救いだけど、あの場面は正直結構イラつかされた。

 

だけど、チョン監督はこのスンジャおばあちゃんのこともけっして「役立たず」扱いはしていなくて、むしろ孫の自分にとっては愛おしい存在として描いているし、彼女が植えた“ミナリ(セリ)”が売れるようになったことで「災い転じて福となった」わけだから結果オーライと言えなくもない。

 

思わぬところから救いの手が差し伸べられることはある。それは否定しませんが。

 

納得いこうといくまいと、こういう人生もある、という一例を見せました、と。

 

 

モニカ役のハン・イェリは『ファイティン!』でもそうだったけど、生活のことで悩まされながら幼い子どもを育てる母親役がとても板についている。

 

 

 

 

そういえば、『ファイティン!』の主演のマ・ドンソクも若い頃にアメリカに渡ってあちらで生活していた人だし、映画の中でもそういう男性を演じていた。

 

ジェイコブ役のスティーヴン・ユァンもまた韓国からアメリカに移民してきた人。

 

だから、その時に彼が味わった苦労はジェイコブという登場人物に投影されているのでしょう。

 

スティーヴン・ユァンは、劇場パンフでのインタヴューからジェイコブの欠点もしっかりと把握したうえであえてあのように猪突猛進な彼を演じているのがわかるし、この映画では必ずしもジェイコブのすべてを正当化したり美化しているのではないのでしょう。

 

だけど、結局は彼の行ないが「間違ってはいなかった」ことになっているのは確かで、だったらせめてモニカやアンについてもっと描き込んでもよかったのではないか、とは思う。特にアンが何をどう感じてどんな悩みを抱えているのかまったくと言っていいほど描かれていないのは残念。

 

家族一人ひとりがそれぞれの立場から葛藤を抱えつつ、それでも全員がとりあえずはこの道を選んだのだ、というふうに描けたはずだから。

 

この映画のあの結末は、どこか他力本願というか、“運命”に流されてる部分もあるように感じられる。まだ甘さが残っているみたいな。

 

この映画のあとに観た『ノマドランド』では、フランシス・マクドーマンド演じる主人公はいくつもの選択肢の中から自分の生き方を決めるんだけど、『ミナリ』のジェイコブ同様に彼女が選んだ道が正しかったのかどうかはわからない。

 

それでも、その結果どうなるかは彼女一人が孤独の中で身をもって背負うのだから、その峻厳さに「正しいかどうか」はひとまず措いといて僕はある畏敬の念も感じたんですよね。痛みと喪失感の中にいる人が、野垂れ死にする覚悟で一人きりの生活を選ぶ。

 

たとえば、『ミナリ』は80年代が舞台なのだから、2020年の成長したデヴィッドが当時を回想するような形で映画を作っていたら(まぁ、ありきたりではありますが…)、また違った感慨もあったかもしれない。

 

つまり、ノスタルジーに浸るだけではなくて、2020年や2021年だったら、30~40年前とは違う困難だってあるでしょう。全米でアジア系へのあからさまな差別と暴力が吹き荒れている現在、僕には田舎町で白人たちから温かく受け入れられる韓国系の人々というのはまるで絵空事のようにも感じられてしまうのです。

 

牧歌的な開拓民一家の話に、もはやほっこりしてなどいられない。

 

そんな厳しく容赦ない現実の中にいるからこそ、この映画が逆に多くの人々の“願い”を汲み取ることになったのかもしれませんが。

 

見方によっては、この映画だって“ハッピーエンド”とは限らないわけですし。

 

いろんなかたのさまざまな意見を聴いてみたい、そんな映画でした。

 

 

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