ポン・ジュノ監督、ソン・ガンホ、チェ・ウシク、チャン・ヘジン、イ・ジョンウン、イ・ソンギュン、チョ・ヨジョン、パク・ソダム、チョン・ジソ、チョン・ヒョンジュン、パク・ソジュンほか出演の『パラサイト 半地下の家族』。2019年作品。PG12。

 

第72回カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞。

 

第92回アカデミー賞作品賞、監督賞、脚本賞、国際映画賞受賞。

 

ソウル。半分地下にある住居に住むキム一家は全員が無職だったが、長男のギウは友人のミニョクから彼が留学する間代わりに高台の豪邸に住むIT企業のCEO、パク氏の高校生の長女ダヘの家庭教師を頼まれる。美大志望の妹のギジョンに証書を偽造させてまんまと学歴を偽りパク家に入り込んだギウは、パク社長夫人が小学生の息子ダソンの絵の家庭教師を探していることを知って、ある“計画”を思いつく。

 

監督ご本人からネタバレ自粛のお願いがされているのですが(劇場パンフレットにまで注意書きされている。「ネタバレしないでね」と言いながら、思いっきりM・ナイト・シャマランの映画のネタバレしてんのに笑った。ジョーク好きかw)、公開開始からずいぶん経ってますし、すみません、ネタバレします。まっさらな状態で映画を楽しみたいかたはお読みにならないでください。

 

 

ポン・ジュノ監督の映画を観るのは僕はかなり久しぶりで、2009年公開の『母なる証明』以来。アメリカで撮った『スノーピアサー』もNetflix作品の『オクジャ』も未鑑賞。

 

ソン・ガンホの主演映画は2年前に『タクシー運転手 約束は海を越えて』を観てますが、韓国映画自体観るのは久しぶり。

 

映画評論家の町山智浩さんの作品紹介ネタバレ注意)を聴いて、楽しみにしていました。世間での評判もよくて、パルム・ドール受賞の効果もあってか僕が観にいったのは平日にもかかわらず映画館の上映会場は結構混んでました。

 

さて、期待して臨んだわけですが、町山さんの解説もそんなに細かく覚えているわけじゃないので、どんな内容なのか、どんなタイプの作品なのかもよく知らない(予告篇も観てない)まま鑑賞。

 

面白かったです。面白いんだけれども。

 

巷での絶賛の嵐があまりに凄いので期待値が上がり過ぎたというのもあるのでしょうが、観終わって「…そこまでか?」と疑問を抱いてしまったんですよね。

 

いえ、「普通に面白かった」のを前提に言ってますけどね。

 

たとえば、同じポン・ジュノ監督の『殺人の追憶』や『母なる証明』が高く評価されている、ということなら大いに納得なんですが、正直なところこれら2作を観たあとに呆然としたような衝撃を受けることはなかった。

 

予想の斜め“下”をいく展開だった。“半地下”なだけに。

 

それはあの2作が実録モノ風(『殺人の~』は一応実話ベースの映画)の作品だったのに対して、今回の『パラサイト』は寓話というかコメディというか、かなり戯画化された作りだったから、というのもある。

 

町山さんも仰っていたように、コメディだと思ってたらだんだん怖い展開になっていったり、社会問題を扱っているようでもあるし、さらにはエロティックな描写もある。てんこ盛りなんですよね。

 

僕はこれの前に観た韓国映画が先ほどの『タクシー運転手』と『1987、ある闘いの真実』という実話を基にした作品だったこともあって、「現実に起こり得る話かどうか」という部分ではかなり飛躍のあるこの『パラサイト』のストーリーにちょっとノり損ねてしまったところはあったのです。

 

というのも、なまじ前情報で是枝裕和監督の『万引き家族』との類似などを知っていたために、あの映画と同レヴェルの“リアリティ・ライン”の映画だと思い込んでしまっていたので。もうちょっと現実味のある話を想像していたのです。

 

まぁ、同様に非常に似たタイプの(というか、明らかに『パラサイト』はこちらのテイストの方に近い)ジョーダン・ピール監督の『アス』は思いっきり不条理劇やホラーテイストだったんで、僕がそうだったように妙な先入観さえなければ充分楽しめる作品でしょう。後半の展開に意表を突かれたという人たちも多いようだし。

 

先が読めない、という面白さは確かにありましたから。

 

『殺人の追憶』や『母なる証明』がエンタメとして楽しむには結構「重い」内容なのに対して、『パラサイト』はより娯楽性が高く間口が広い、とは言えるかもしれない。

 

ただ、それでも「世界中が大絶賛」みたいな異様な盛り上がりぶりが僕にはどうもよくわからなくて。

 

わからないのにわかったような振りして感想を書けないから困った状態のまま、ひと月以上過ぎてしまった。

 

その間にお見事アカデミー賞で主要部門4冠獲得も果たしたし、作品の評価はさらに高まっている。

 

あそこの場面にはこういう意味があって、とか、キャメラワークや編集が見事、オープンセットが豪華だとか、いろんなかたがたの批評や分析、考察等を読んだりしてこの映画の素晴らしさを理解しようと努めたんですが、「…そこまでか?」という疑問はどうしても拭えなくて、とりあえずもう一度観て判断しよう、と。

 

そこで自分のこの微妙な評価が変わらなければ、それは単に僕がこの映画にハマらなかった、というだけのことで。残念だけど、しょうがない。

 

そんなわけで2月に2度目の鑑賞をしたんですが…結果は1回目とそんなに印象は変わらず。やっぱり面白いことは面白いしまったく退屈はしなかったけれど、「あぁ、そういうことだったのかぁ!」と大いに目からウロコで膝を打って納得、みたいなことは特になくて、またもや「世界中が大絶賛」の理由は実感できず。

 

諦めた^_^;

 

で、すでに皆さんの素晴らしいレヴューをいくつも拝読しているし、中途半端に知ったかぶって何か偉そうなことを書こうとしたってお里が知れるだけだから、この作品の真価を見極められない人間なりの、他のかたがたが気にかけないような瑣末なことをつらつら綴ってお茶を濁そうと思います。

 

まず、この映画でずっと気になってたのが、ソン・ガンホ演じるキム・ギテクの長男ギウ(チェ・ウシク)が父親に向かってずっと敬語で喋り続けていること。

 

だけど、ギテクの娘のギジョン(パク・ソダム)は父親に一切敬語を使わないし、親や兄への言葉遣いもぞんざい(演じるパク・ソダムは、不遜な顔つきでいかにも頭のキレそうな女子役がハマってましたが)。韓国映画ではしばしばこういうふてぶてしくて乱暴な言葉遣いの女性が登場するけど、それは現実にそういう女性が結構いるからなのか、それともあちらの映画とかTVドラマではそういう“女子キャラ”を配置するのがお約束なのか。

 

やたらと暴力的なヒロインが男子を振り回す『猟奇的な彼女』(2001年作品。日本公開2003年)でも、確か女の子なのに男に敬語を使わないことを咎めるようなやりとりがあったよーな。

 

韓国では儒教の考えが根強くて男性や年上の人には敬語を使う、みたいな習慣があるらしいことはなんとなく知っていたけど、これまで観てきた韓国映画ではここまで台詞を徹底して敬語として日本語に翻訳しているのを目にしたことがなかった。雇い主であるパク社長(イ・ソンギュン)も自分の運転手のギテクに対してずっと敬語で喋ってるし。あと、社長の娘のダヘ(チョン・ジソ)が新しい家庭教師のギウのことを「お兄さん」と呼んでいた。わざわざそう訳してるんだろうけど、その理由がいまいちよくわからないので違和感がある。

 

 

 

言葉も何もわからない僕に韓国文化を一方的に批判する資格なんかないけど、でも日本でもわりとそういう人いますが、やたらと年齢を理由に年長者ヅラや先輩ヅラする習慣が僕は大嫌いなのでいちいち引っかかるんですよね。女性は男性に敬語を使わなければならない、なんてルールがもしあるんなら、それもおかしな話だと思うし。

 

年長者を敬う、ということがいつの間にか「ほんのわずかでも年上なら偉い」「だから敬語を使え」ってことに歪曲されてるような気がする。

 

ソン・ガンホはおっさんキャラを演じることが多い人だから、しょっちゅう映画の中で人に「目上の者には敬語を使え」みたいなこと言ってるし。

 

あと、ギウが、ダヘはまだ高校生にもかかわらず彼女との結婚を意識してるような発言をするのも、韓国の人たちの恋愛観とか結婚観を反映してるんでしょうか(金持ちの家の娘と結婚すれば貧困層から抜け出せるから、ってことかしら)。それとも、これは叶うことのない“計画”についての伏線なのかな?

 

 

 

 

韓国って国を挙げて映画に取り組んでいて、ハリウッドから多くを学んでその技術を自国の映画作りに活用するとともに韓国ならではのローカルな文化をあえてミックスすることで他の国々の映画との差別化を図っているようで、そこにこそ韓国映画のオリジナリティがある。

 

それはとてもよくわかるんですが、韓国文化は日本人の僕には異質なものでもあるから、それを詳しい解説もなく当たり前みたいに映画の中で描かれると戸惑うんですよね。敬語のことについてもそうだったように。韓国映画が世界中に売れているとしても、韓国文化が世界中でスタンダードなわけじゃないんだし。

 

パク社長夫人のヨンギョ(チョ・ヨジョン)がやたらと会話に英語を混ぜたりする(でもそんな難しい言葉ではない)のも地味にイライラさせられたし、あれはマ・ドンソク主演のアームレスリング映画『ファイティン!』でも描かれていたけれど(『パラサイト』の劇中でも「ファイティン!」って言ってましたな)、英語教育が盛んだということなんでしょうかね。なんか妙に「アメリカかぶれ」なところが、かつてのイギリス領だった頃の香港映画みたいで。

 

いや、皮肉めかして描いてるんだってことはわかるんですが、笑いよりも嫌悪感が湧いてきちゃって。

 

 

 

ところで、これまでアメリカでも映画を撮っているポン・ジュノ監督の英語の語学力がどれほどなのかは存じ上げませんが、アカデミー賞受賞後のあちらでのインタヴューでは韓国語の通訳を介していたので、アメリカの有名な司会者にそれを揶揄するようなジョークを言われていました。

 

どんなにアメリカに擦り寄ったところで、あちらの人間たちは僕たちアジア人のことなんかなんとも思ってないんじゃないだろうか。新型コロナウイルス関連でアジア人への差別がここまであからさまだと、そんなに頑張って彼ら欧米人に気に入ってもらうことになんの意味があるんだろうとさえ思ってしまう(メイクアップ・アーティストのカズ・ヒロさんなど、現在あちらで活躍されているかたがたのことをとやかく言いたいのではありません)。

 

映画に話を戻すと、これはあれなのかな。男や年上を敬え、という建前ではあるけれど、実際にはそんなルールに従ってない人もいる、ってことを表現してるんだろうか。あるいは、形式的に敬語を使ってるからといって必ずしもその相手に尊敬の念を感じているとは限らない、とか。ギテクに対するパク社長のように。

 

 

 

キム一家がパク家の豪邸で酒盛りしていて、妻のチュンスク(チャン・ヘジン)が自分をゴキブリ呼ばわりしたことでギテクがキレて(その後、彼は本当にゴキブリのように床を這うことになるのだが)テーブルの物をはたき落として彼女の胸ぐらを掴むものの逆に手首を捻られる場面があって、チュンスクは元ハンマー投げの選手だからおそらくガチで力比べをしたらギテクはかなわない、ってことなんだろうけど、この表向きは「男を立ててる」けど内実は必ずしもそうじゃない、という描写の意図するものがよく掴めない。

 

これも“格差”を絡めてるんだろうか。

 

パク家では、長女のダヘよりも弟のダソンの方が跡継ぎとして両親から大事にされてるっぽいのも意味があるのだろうし。

 

 

 

ミニョク(パク・ソジュン)が「彼女が大学に入ったら付き合うつもりだ」と言っていたダヘは、会って間もないギウのことをとっとと好きになってるし、同様にひたすら無邪気で世間知らずなパク社長の奥さんの描写にも僕はなんだか笑えないものがあった。

 

ギジョンとギウがもといた家政婦のムングァン(イ・ジョンウン)に桃の皮を振りかけて酷いアレルギーの発作を起こさせたり、ギテクの仕業で結核の疑いをかけられてパク家を追い出されたあとに雨の中を訪ねてきたムングァンを足蹴にして地下に転落させて殺したチュンスクなど(あれが、貧しい者がさらに貧しい者を蹴落とそうとする社会構造の“メタファー”であることは理解してますが)、あれらの描写を「うわぁ~」とか言いながらヒキ笑いする気にもなれなかった。なんかひたすら胸クソ悪くて。

 

アレルギーや結核患者の差別的な扱いとか、そういうものを「笑う」センスにちょっとついていけなかったです。あまりにも無神経で野蛮で、まるで昭和の時代。

 

そうやって笑ってた観客が、あとでムングァンとその夫の境遇を知ってキム一家とともに凍りつくことを狙ってのことなのはわかりますが、桃アレルギーのあの一連のシーンで苦しそうに咳き込むムングァンにさらに追い討ちをかけるキム一家の様子に僕は小気味よさを感じることもなければクスリともできなかったから、あの場面を「痛快」などと評している人たちに寒気がするんですよね。どこが痛快なの?と。そういう人たちにとっては、きっと新型コロナウイルスだって笑いのネタなんだろう。

 

この映画の登場人物たちについては、金持ち家族に「パラサイト=寄生」していくキム一家はもちろんのこと、けっして悪人とはいえないパク家の家族も含めて僕は誰にも感情移入ができなかったし、だからクライマックスの阿鼻叫喚にも衝撃を受けるよりも「なんかシッチャカメッチャカだなぁ」という感想しか持てなくて。感情移入できる人がいない映画をずっと観続けていると、ふいに虚しさに襲われることがある。

 

これは悪いことした家族が最後にヒドい目に遭いました、という因果応報の教訓モノではないし、かといってよく言われてるように「格差社会」を痛烈に風刺したものなのかというと、僕はそれもどこまで真面目に受け取っていいのか悩むんですよ。

 

韓国映画は良くも悪くも観客に対する「サーヴィス精神」が旺盛で、それが逆に「映画の題材として利用している」に過ぎないのではないか、と感じられることがあるので。

 

ポン・ジュノ監督は、もちろん韓国で富める者と貧しき者の格差が広がっていることは深刻に考えているのだろうし、それは日本も含めて世界中で問題視されているからこそ、この映画はここまで大勢の人々に熱烈に支持されているんでしょうが、でも、テーマがどうとかいうこと以上に、ポン監督は何よりもまず「面白い映画」を作りたかったんでしょう。

 

そちらの方が大事だと。社会問題も、あくまでエンタメに奉仕するためのものなんだと思う。

 

「格差」自体は戦前のサイレント映画『メトロポリス』(金持ちはパーティに明け暮れ、地下の労働者たちの住居が水浸しになるのも同じ)からアラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』まで、あらゆる映画の中で扱われているわけで。

 

たとえば、2016年に観た『ベテラン』(リュ・スンワン監督)を僕はかなり好きだったんですが、あの映画は基本はエンタメ系の「刑事ドラマ」で、そこに“大財閥”の存在を入れ込むことで現実との接点を持たせていて、そのあたりのバランスがとても巧かったと思うのです。

 

一方で、この『パラサイト』は劇中でも「象徴的だ」という台詞が多用されるように、物語のあちこちに“メタファー”が読み取れるように作られていて、映画の中のさまざまな要素に「意味」を見出すことでパズルを解くような面白味を感じられる。多くの人たちが夢中になったのもその部分なんでしょう。

 

2017年に観た『哭声/コクソン』(ナ・ホンジン監督)がそんな映画でしたが、あの映画のわからなさ(酷評しました)に比べればこの『パラサイト』ははるかにエンタメとして僕は面白かったけど、ポン・ジュノ監督は自身で「象徴や隠喩を拒否したい」みたいこと言っといて、作品自体はそのいかにもな“象徴=メタファー”だらけ、というのがちょっと人を食ってるというか、ちょうど『お嬢さん』(日本公開2017年)などのパク・チャヌク監督の作品みたいな意地悪さを感じたのです。真剣に映画を観ている観客のことを裏でニヤニヤ笑ってるような…。

 

僕がこの映画を、是枝監督の『万引き家族』のように「真面目」に受け取れないのは、そういう理由もあるのかもしれない。

 

人間を滑稽に描き、時に突き放して、かと思えばちょっと共感できそうにもなったり、そうやって“観客”が映画に翻弄されるのを監督本人が楽しんでいるようなフシがある。

 

確かにブラックユーモアや風刺が問題の深刻さをより際立たせることもあるけれど。

 

多分、「全然違ぇよ」と言われるだろうことを覚悟しつつ述べますが、僕はこの映画を最初に観た時、かつての伊丹十三監督の作品を思い浮かべたんです。

 

当然、ポン・ジュノ作品と伊丹十三監督の作品には多くの違いがありますが、海外マーケットも意識して何よりも観客を楽しませることを優先して映画にいろんなものをぶち込むところが似てると思うし、事実、伊丹作品も海外で評判が良かった。わかりやすくて面白いから。

 

別になくたって映画は成り立つのに、あえて「エロ」の要素を入れてくるのも両者に共通している。

 

エンタメとしては面白いけど真に「心に刺さる」ものはなかった伊丹作品(※個人の感想です)と比較すると、僕がこれまで観たポン・ジュノ監督の映画はこの『パラサイト』も含めてずっと「何か」を残しはするんですが、その「何か」はほとんどが韓国映画全般に共通する「わからなさ」や「得体の知れなさ」だったりするんで、そういう感覚は僕の中ではそんなに重要じゃないんです。こういう映画が大好き、とはとても言えない。

 

だから、この映画がここまで話題になって持て囃されなければ、僕も「奇妙で面白い映画」として普通に楽しんだでしょう。だけど、『アス』にそこまでピンとこなかったように、2回観ても僕にはこの映画の本当の素晴らしさがよくわからなかった。

 

同じく社会の「格差」を描いておいて、それを全部ジョークにしてしまった『ジョーカー』には大いに感じ入るものがあったのに。ギウがいつも浮かべているあの笑顔<スマイル>は、どこか『ジョーカー』の主人公のそれを思わせましたが。妹の死にすら笑ってしまう、というところなんかも。

 

この映画に充分に反応できない自分は、まるでその身体から漂うニオイをパク社長からバカにされるギテクのような気分になっている。

 

パク社長やその妻が堪え難く感じた、キム一家全員の身体から放たれる履き古した靴下を煮出したような、あるいは古い切り干し大根のような半地下のニオイ<スメル>。

 

 

 

それは富裕層と貧困層を隔てる分厚い壁であり、後半でギウにへばりついて離れなくなる「山水景石」だが、世の中には経済格差だけじゃないさまざまな「格差」がある。

 

僕がこの映画を観て感じた韓国の人たちの「アメリカ・コンプレックス」も、その格差と関係しているのかもしれない。

 

 

 

 

鑑賞後にいろいろ考えてみたり、意見を交換し合うのが楽しい映画でしょうね。

 

ただ、映画を観てからずいぶんと長いこと感想が書けなかったように(今回も、このままだとずっと書けないままになりそうだったんで、無理やり書いたんですが)、なんともいえない徒労感のようなものが残って他の皆さんのようにこの映画に夢中になれなかったのです。

 

みんな踊ってるのに一人だけ冷めてる、みたいな。

 

それはこの映画の中に塗り込められた「不穏さ」にどこかで過剰に反応したからかも、などと考えるのは自惚れ過ぎだろうか。

 

恐れや怒りをエンターテインメントとして「面白がる」ことで物事を客観視して前に進むことができる、ということはあるかもしれない。こういう映画を作る人たちがいて、こういう映画を楽しんで観る人たちがいるということは、人間というのはしぶとくてたくましいな、と思わせられもする。…リスペクト!!

 

ギウの顔から笑顔が消えているあのラストショットと彼のモノローグには、「絶望」を乗り越えたいという強い想いが込められているように感じます。

 

取り急ぎ私からは以上です。オォ~ヴァ♪

 

 

※イ・ソンギュンさんのご冥福をお祈りいたします。23.12.27

 

 

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